IKUMOP.GIF - 1,393BYTES旅先むだ話IKUMOP.GIF - 1,393BYTES


++旅に出るまでのさらに詳しい話【下】++
パスポートの申請や細細した買い物などで、あっという間に10月は過ぎた。
バイトは結局11月頭で辞めることになったが、親へは何も云っていないままである。
どうにもことが進まないのは、何をさておいても、そのせいである。分かっていながら云えなかった。

2001年中に出発するのは難しい、と思い始めた11月の初め、それなら、とわたしがやったことは、派遣社員として働くことだった。
早速2,3社に登録し、面接も研修も「だりーな」と思いつつ受けに行った。約半年振りにスーツを着たので緊張した。
派遣社員というのは、大体1年とか半年契約だ。短くても3ヶ月単位くらいである。
しかしそれだと、旅に出られそうになったときに困るので、最長1ヶ月の、バイトみたいな仕事しか受けないことにした。しかも、数ある職種の中で、「やりたい仕事」欄に○を点けたのは、データ入力だけである。前職のおかげで、わたしは、キーボードを叩くのだけは異様に早いのである。あんまり頭も使わなくてよさそうだし(失礼)。
そんな条件ですぐに仕事が入ってくるとは思えなかったが、一通り面接を受けてから3日後くらいに仕事が見つかった。
某工場での計測データをエクセルでデータ入力する仕事。

工場のある場所は、わたしの住んでいる場所から、電車とバスで50分かかる、辺鄙なところであった。
大阪市内ならば、仕事帰りに梅田や心斎橋に寄ってウインドーショッピングに興じられるのだが、某所には、買い物したくなるような店は一切なく、また、家までの途中の駅にも何にもなく、おかげでムダ使いはせずに済んだ。が、生活に潤いがなくなった。自分の住んでいる町も含めて、地方都市というのは何故こんなにもわびしいのであろうか。
また、工場では派遣と云えども、制服を着せられる。制服というか、作業着だ。水色のジャケットと帽子。一緒に働いている男の人たちが着るとカッコよくて、「やっぱ男は制服だよな」とあくまでも肯定的なのに、自分が着ると、とにかく似合っていない上、何だか貧乏くさい。これはかなり憂鬱であった。

仕事も、面白いとは云い難かった。何しろ、ひたすら数字を打ち込むだけなのである。データ入力の仕事が面白いとは、もともと思っていなかったが、文字ではなく、数字ばかりを打つのは、予想以上に辛かった。
加えて、部屋が寒かった。あまりに寒いのでマフラーを巻いて仕事していたら、電話がかかってきて「そのマフラーは取りなさい」と云われてしまった。アンタは誰や
?!と思いつつも、工場はきわめて封建的な職場である。足並みを乱すものは許さないのである(多分ね)。仕方ないので、足の裏にカイロを貼ったり、ジャケットがきつくなるほどセーターを着込んだりして何とか寒さを凌いでいた。「女工哀史」という言葉が何度も浮かんできた。
データが上がってこないときは、部品の組み立てもやった。乙女が部品の組み立てである!ますます女工っぽい。
これまた単調な作業だが、暖かい部屋に移動できるのと、ぼんやり考え事ができるのはよかった。
部署の人はみんな親切にしてくれた。1ヶ月しか居ないよそもんのわたしを飲みに誘ってくれ、おごってくれたりもした。何にもない地方都市だぜ、なんて思っていたが、食べ物屋はなかなかレベルが高く、駅前のいかにも大衆な居酒屋で食べた鍋は最高に美味かった。恐るべし、○葉。

工場での仕事は約1ヵ月半続いた。
予定は1ヶ月だったのだが、延長してほしいと云われ、どうせ今年中の出発はムリだろうからもうちょい稼ぐか、ということで延ばしたのである。
12月の中頃に仕事が終わったので、年末は遊び放題であった(笑)。
貴重な旅の資金を遊んで使っていてはどうしようもないのだが・・・。

2002年になった。
1月は、お正月を除くと1年で1番航空券の安い時期だ。これを逃さないわけにはいかない。それに、もういいかげん出発しないと、当初の計画からはすでに3ヶ月も延びているのだ。
予防接種もとっくに打ち終わっている。
・・・とか云いながら、結局1月も出られなかった。何とわたしは、この期に及んでまだ親に云っていなかったのである。

のちにドイツで居候させてもらうことになるKさんからは、「そろそろ出発ですか?具体的に決まったら連絡下さい」というメールが来ていた。はっきり云って、航空券なんて「明日の便で」と云って取れないことはない。出発を鈍らせているのは、親へのいい訳のみである。
わたしは悩みに悩んだ結果、とりあえず「留学したい」と云うことにした。そして、一応短期間でもいいからカムフラージュのため、語学学校に通うことにした。そうなると、学校を探さなくてはならず、その段取りにまた時間を喰った。
その間の時間がもったいないので、またしつこく派遣の仕事をした。往生際が悪いというか、セコいというか。

2月も半ばになって、やっと学校が決まった。
いよいよ父親に、はっきりと云わなくてはならない。「前々から考えていたのだが、1年ほどイギリスで英語を勉強したい。もう学校も決めてきた。3月には出発するつもりだ。」
「旅に出るまで」にも書いたように、その日父親は口をきいてくれなかった。
昔からわたしは、何でも事後承諾で済ませようとする悪癖があり、今回もご多分にもれず「もう決めてきた」などと云い出したので、父親の怒りは倍増だった。

ところが、翌日は、まるで何事もなかったように、昨日のことは夢ででもあったかのように抹殺され、平和な食卓を囲んだ。
おい、無視してんのかっ?と危惧しつつも、またバトルになるのがイヤでその日は大人しく、テレビを見ながら味噌汁をすすっていた。
その後もあくまで何事もなかったようにふるまう父親に、それとなくけん制球を投げてみると、「お前まだそんなこと本気で云うてんのかい?このボケナス!」などと冷たい声で云い放たれる。
しかし、ここまで来てひるむワケにはいかない。たったこれだけのために、わたしは半年近くを浪費してしまったのだから・・・。実は、昨年から、父親の前にそれとなく「地球の歩き方」を山積みにしたり、地図帳を置いたりして、「海外に出るぞ」オーラを出し続けていたのである。もちろん、ことごとく無視されていたが(笑)。

2月中はずっと派遣で働いていた(残業が多かったおかげで、父親とあまり顔を突き合せなくて済んだ)。
今回の派遣の仕事の内容は、説明するとややこしいのでしない。
簡単に云えば、電話事務アシスタントといったところか。スタッフは非常に若く、わたしと同い年の人もたくさんいた。
このときの仕事で学んだ(?)ことは、他のページでも書いたが、日本人というのは、老若男女カンケーなく、「忙しいのが好き」なんだなあ、ということだ。これから1年間、海外をふらふらしようというわたしには、近くにいながらも非常に遠い世界に思えた。
派遣という、一歩引いた立場で会社を見てみると、何とまあ人間は、会社に支配されていることか!かつてのわたしもそうだった。給料ももらえないのに必死で働いて、本当にバカみたいだ。しかも、”忙しい”ことに酔っていたフシがあった。忙しいのと仕事が出来るのとは、全然違うのに・・・。
しかし、もうこんなせせこましくて潤いのない世界とはオサラバだ。内輪で飲みに行って、会社の悪口をサカナに盛り上がるのも、大した成果が上がらずとも徹夜して夜食をダラダラ食いながら仕事するのも、それはそれで楽しい。でも、もうわたしには関係ない。コじゃれたランチ屋やバー、仕事帰りのショッピングや飲み会・・・そんなものよりずっとおもしろいものが、もうすぐ始まろうとしているのだ。

3月に入ってからは、毎日何がなんだか分からないままに、しかし事は着々と進んでいった。
航空券も取った。3月14日、大韓航空、フランクフルト行。
保険の加入。パソコン関連の買い物と手続き。最終的な荷物の選別。合い間を縫って、ささやかな飲み会。何故かさらに合い間を縫って、お笑い鑑賞(笑)。

父親はすでにあきらめモードに入っていた。もちろん諸手を上げて送り出すワケはなかったが、「勝手にせい」という姿勢に落ち着きつつあった。弟はまだ本気にしていないようだが、この際雑魚(笑)に用はない。
しかし、今度は祖父母と親戚が登場してきた。予想はしていたが、予想通りマズい展開だ。当然だが、誰一人賛成派に回る人間はいない。わたしは泣いてすがる(?)祖母や叔母をなだめすかすのに、数日を要した。逆に、祖父には「身勝手なわたくしを許して下さい」とか何とか云って、泣いて謝った・・・謝るというのも何だかヘンな話なのだが、これまでさんざんお小遣いなどをもらってきた立場としては、あまり強くも出られないのだった(苦笑)。
こうして書くと、まるで自分がどっかの大切なお嬢さんみたいだけど、うちはごくごくフツーの家である。世の旅人(特に若い女性)たちは、一体どうやって親や周囲を説得し、長旅に出ているのだろうかと、今も疑問でならない。

出発の数日前に、前の会社の先輩と、一時期バイトとして働いていたひとつ年上の友人と3人で飲みに行った。
解散したあと、友人がメールをくれて、そこには「後姿がいいなあと思った」と書いてあった。それを読んで、ああ、わたしはいよいよ旅立つのだなあ、と実感が湧いた。
・・・にもかかわらず、パッキングは未だ終わっておらず、住民票も保険も抜いていないのであった。
(※その後の話は「前日記」を参照のこと。)

(2002年


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