IKUMOP.GIF - 1,393BYTES旅先むだ話IKUMOP.GIF - 1,393BYTES


++旅に出るまでのさらに詳しい話【中】++
話が前後するが、私は運よく正社員だったため、失業保険を受ける権利があった。
その頃まだ、未払金をどのように回収すればよいかというメドも立っておらず、確実にもらえる失業保険は命綱だった。しかし、ご存知の方も多いと思うが、自己都合で辞めた場合、3ヵ月の給付制限という厄介なものがある。とてもそんなに待っていられない。
そもそも、私の場合、自己都合と云うより、給料がもらえなくなったために辞めざるを得なかったのである。これはどう考えても会社都合だろうと思い、会社(というか編集長)にそのように取り計らってもらうべく要求した。


そうしたら、予想通り「何云ってるんですか。あなたの勝手で辞めるんでしょ」という身もフタも血も涙もない答えが返ってきた。
一瞬卒倒しそうになったが、ここでひるんでは元も子もない。しかし小心者らしく、「いや、でもお給料がもらえなくて、本当に生活が苦しいんです。ですから失業保険だけでも早くいただきたいんです」と蚊のなくような声で嘆願した。
「会社都合にしろだなんて、一体誰にそんな入れ智恵されたのよ。おーこわ」
「会社都合(要するにクビ)にしたらあなたの経歴に傷がつくんじゃないの(※後にハローワークの人に聞いたところ、そんなプライベートなことは洩らしませんと云われた)」
・・・などなど罵声を浴びせられていると、そこに運よく(?)社長が登場し、哀れっぽくお願いする私に同情してくれたのか(笑)要求はあっさり受理された。


失業保険を早くもらうことに執着したのにはもうひとつ重大なわけがあった。
それが、旅である(やっとこさこの話)。
会社を辞めた後、私はすぐにでも旅に出ることを考えていた。
そもそも、この会社には3年以上いるつもりはなかった。3年経ったら経験者として他の(もっとまともな)出版社に転職するというのが私の人生設計だったのである。もしそうなったら、転職前に少し旅に出てみようと、漠然とであるがずっと考えていた。
予定通りの時期にはならなかったが、今やその時が来たわけだ。


しかし、すぐに旅に出るというのは、口で云うのは簡単だが、実際はそうもいかない。
私の場合、日本を発つに当たってやるべきことが3つあった。
まず未払金の回収。失業保険の全額給付。そして母親の一周忌を待つこと。
母親の一周忌が10月初旬だから、そこに照準を合わせて他のやりくりをするのが最も道理にかなった(?)計画である。
そのため未払金は9月末で全額回収、失業保険もそのくらいの時期で全額もらわねばならないのであった。


会社を辞めてからそこまでの期間はざっと4ヵ月。
ぷらぷら遊んでいると腐ってしまう性分の私は、とりあえず職業訓練校というものに通うことにした。
これもご存知の方が多いと思う。悪用している人も多いだろうが(笑)。
簡単に説明すると、失業者がタダで通わせてもらえる職業訓練のコースである。学校は従来からある専門学校などで、そこに大体3ヵ月通って仕事のスキルを身に着けようというものだ。失業保険給付者でなくとも通えるが、給付者にとっては学費はタダ、交通費タダ、弁当代まで払ってもらえるという夢のような制度である(もちろん保険ももらえる)。
これにはさらに美味しい話があって、3ヵ月の給付制限がある人でも、学校に通い始めた時点から保険が降りるし、また就学期間中に保険が切れてしまっても就学中は保険がそのまま降り続けるのである。このため3ヵ月しか保険がもらえない人間でも半年くらい保険を受け続けることができたりする。ちなみに私は4ヵ月もらった。


私が選んだのは某コンピュータ学校の情報システムコースであった。
本当は、旅行のために、英語学校のビジネス英語コースに行きたかったが、ものすごい競争率で、すぐに定員が埋まってしまったのだ。
情報システムなんて、一体何を勉強するのかさっぱり分からなかったが(笑)、パソコンに詳しい友人などのアドバイスもあって、このコースを選ぶことにした。


それからは、月〜金曜日、朝9時〜午後3時という、実に勤勉な学生生活が始まった。
加えて、週2,3日は某居酒屋のアルバイトを入れていた(※本当は、失業保険受理中はやっちゃいかんのですが)ため、かなりハードな毎日だった。
大体、朝が早すぎる。これまでは、会社がいい加減だったせいもあるが、10時出勤くらいが通常だった。これでもしかし、編集部としては早い出勤である。
学校は新大阪にあり、わたしの住処からはまるまる1時間かかる。8時に家を出ているようでは、もはや間に合わない。ということは、7時には起きなければならない。ということは、夜中も最低2時には寝なければ身体が持たない。典型的な深夜体質のわたしには、どうにもしんどい。


しかし、一応国からお金をいただいて通っている学校なので、遅刻は厳禁である。正確には覚えていないけれど、数回の遅刻・欠席によって失業保険が取り消される可能性も、充分にあるのだ。
幼少のみぎりより、遅刻大王の名前を頂戴しているわたし(ウソ)。不思議なことにバイトや仕事ではほとんど遅刻しないのだが、学校や、友達との待ち合わせになると、途端に気がゆるむのか、どうしてもちょこちょこ遅刻してしまうのだ。遅刻はダメだよなー本と(遠い目)。


まあそんな感じで、毎朝苦しみながら学校に通っていたわけである。
同じコースの人たちは、当然ながら全員失業者。年齢層も実に幅広かった。ウチの父親くらいのおじさんもいれば、同い年くらいの人もいた。わたしは最年少組だった。
で、クラスの中でのわたしの位置付けはというと、孤高の人であった(笑)。旅のことで頭がいっぱいすぎて、友達なんか作る気もしなかった。たった3ヶ月くらいで、いちいち仲良しグループの一員になって、あれこれ付き合いをするのが面倒だったのだ。
まあ今思えばそんなにひねくれる必要もなかったわけだが、当時は「人付き合いは時間のムダ」とばかりに、自らの殻に閉じこもって、毎日ヒマさえあれば旅の計画を練っていた。さすがにコンピュータ専門学校、インターネットは常時接続なので、放課後になると、バイトまでの時間を潰すべく、ネットサーフィンに明け暮れていた。もちろん見るのは旅のページである。


このときだった。リアルタイム旅行記、というものの存在を知ったのは。
最初に見つけたのが、「のぶこのドキドキ世界一周」という女性の旅人のページだった。
毎日毎日、無我夢中で読んだ。熟読したいがために、学校のプリンターでプリントアウトしまくって(膨大な量だった)、クラスの人ににらまれたこともある。しかし、何よりも旅が一番大事だったわたしは、そんなことどーでもよかった。
世の中には、こんな旅人もいるのか。一人で、パソコン持って、旅行記を書きながら、世界一周をしている、そんな女性も存在しているのか。
とりあえず「深夜特急」をなぞって半年くらいでユーラシア横断、という当初の計画は、ここから徐々に傾きだし、”世界一周”という言葉が取って替わるようになった。


のぶこさんちからのリンクで飛んだりして、他にも多くのリアルタイム旅行記や、そうでない旅行記を読んだ。
世界一周なんて、途方も無い計画だと思っていたわたしは、多くの旅人がその計画に挑戦し、また成し遂げてもいることを知って、ますます世界一周の魅力に取り付かれていった。しかし、このときはまだ、モバイルを抱えて旅行するつもりはなかった。そこまでできる能力が、自分にあるとは思えなかったからだ。


生活は相変わらずだった。
毎日学校に通っているので、失業者という実感はあまりなかった。それどころか、さらに金欲しさにバイトまでしちゃっているので、忙しいことこの上なく、しかも、この一瞬たりともムダのない生活は(本当はかなりムダも多かったけど)、わたしの旅への情熱をますます加速させるエネルギー源にすらなっていた。
「あと○ヶ月すれば、もうわたしは旅人なんだ」そう思うと、何にもつらくなかった。いや、つらかったけれど、すべてはこれから始まる旅のためだと思えば、どうってことはなかった。
未払い金の先付小切手も、初回はとんずらされそうになったものの(このやろー)、その後は順調に振り込まれてきていた。


ようやく3ヶ月間のお勤めが終わろうとしていた。9月の半ばだった。
学校の終了とほぼ時を同じくして、会社からの未払い金は全て振り込まれることになっており、さらにわたしは25歳の誕生日を迎えることになっていた。誕生日から1週間後には、母親の一周忌を済ませて、あとはヒコーキのチケットを手配し、荷物をきっちり買い揃えてパッキング、といよいよ旅の青写真が焼きあがってきたところだった。
最も、一番の懸案事項である「父親に何と云って出るか」はほったらかしになっていた。バイトもずるずる続けていた。


そんなとき、アメリカで9.11テロが起こった。
ニュース自体にももちろんショックを受けたが、とっさに思ったのは「旅に出られなくなる」ということだった。
当時、最も旅したかったのが中東エリアで、今回の事件で、その中東が曰くの地となりつつある。
ほどなくして、戦争が始まり、わたしは云い様のない怒りを覚えた。戦争そのものの悪に対してというより、自分の旅を邪魔したという点が、許せなかった。今思えば、この時期なら航空券もぐぐっとお安くなって、むしろ旅行しやすかったのでは、という気もするが、それよりも、わたしの懸念していたのは、親への言い訳だった。
ただでさえ、いかにして長旅を許してもらうべきか、さっぱり思いつかなかったのに、こんな、世界情勢の危ういときに、「んじゃ、1年ほど海外旅行に出て参ります」なんて、とても云えない。


そうこうしている内に、母親の一周忌も終わった。
未払いの給料も、失業保険も全額受け取った。学校も終わった。あとは、具体的な準備だけだ。
予防接種、パスポートの書き換え、旅グッズの買出し、情報収集などなど・・・。
それらの仕事(?)を進める一方で、家族に云っていない、という最大のガンが取り除かれないために、どうにも動きが鈍ってしまう。


しかし、とりあえずバイトは辞める旨を告げた。
けっこう昔から世話になっていたバイト先なので、これまた云い出しづらかったのである。
加えて、そこの店長(女性)は、専門学校に通ったりしているわたしを見て、真面目に就職を考えていると思っており、親しいお客に頼んで就職先を紹介してくれようともしていた。
ところが、わたしときたら「旅に出たいので、辞めさせて下さい」などと云い出す始末である。店長の反応は、予想以上の不評だった。正直に云ったわたしがバカであった・・・。
店が終わってから、説教部屋よろしく、近くの別の居酒屋でこんこんと「そんなアホなことしてどうすんの?命が惜しくないの?親が何て思うと思うの?それが25にもなる大人の云うことか?」と云い含められた。わたしはそれに対して、何も云い返すことができなかった。旅に出るのが(人として)正しい道かどうかなんて、自分でも分からないんだもの。だからと云って、旅に出ないという選択は、もはやありえない。


そんなこんなで、心はとっくに旅の空の下にいるのに、実質的なことがさっぱり進まなかった。以上、2001年10月までの話である。【下】に続く。

(2002年


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