IKUMOP.GIF - 1,393BYTES旅先むだ話IKUMOP.GIF - 1,393BYTES


++うるるんツーリスティック滞在記(ツーリスティック編)++
”ツーリスティック(観光地化)”をめぐる複雑な感情を、旅人なら、誰しも抱いたことがあるのではないだろうか。
今回は、ツーリズムをめぐるむだ話です。

「昔のどこそこはよかった」
「3年前に来たときはこんなにツーリストがいなかった」
「○△は、ツーリスティックすぎておもしろくない」

・・・といった言葉は、旅人の間でしょっちゅう聞かれるセリフである(わたしも云う)。
とりわけバックパッカーには、ツーリスティックな場所を好まない人が多い。
確かに、ピラミッドでもマチュピチュでも、世界に名だたる観光地には、うんざりするほどの数のツーリストがいて、古代の神秘を求めて来たはずが、そこにあふれているのはTシャツ+半ズボン+カメラの外人と、そいつら相手のみやげもの屋ばっか・・・ってことになると、まあげんなりしたくもなるよな。何だよ、ここはテーマパークなのか!?って。

それで、ツーリスティックではない、よりピュアなもの(笑)を求めて、田舎の素朴な村、観光的には何にもない場所に行ったりするのだが、そこにもツーリズムの魔の手はばっちり及んでいて、テレビや本では”田舎の素朴な村”のイメージだったはずが、みやげもの屋は腐るほどあるわ、宿の客引きはしつこいわ、何だよ日本語の看板まであるじゃねーか・・・てなことは、世界中にいくらでもある。”地元民のためのマーケット”と聞いていたはずの市場が、半数以上がみやげもの屋であることも、いくらでもある。

ツーリズムに侵食された場所では、外人と見れば、チョコレート1つ買うのでもぼったくってくる。
当然のように「金くれ」「バクシーシ」と手を出してくる。
外人というだけの理由で、石を投げられることもあるし、東洋人というだけの理由で、ジャッキー・チェンだと思われることもある。よくあるが、それはあまりツーリズムとは関係ないかも知れない。

そしてツーリストたちは、ふたたび失望する。
「素朴な村なんて、いったいどこにあるんだ???」
「地元の人との純粋なふれあいを求めてきたのに、ここもみやげもの屋ばっかり・・・がっかり・・・」(※毎度ながら、ふれあいという言葉を使うのは気恥ずかしくてしょうがないです)
「こんなところにまで、ツーリストがあふれているとは・・・」
「馬鹿野郎、俺はジャッキー・チェンじゃねえ!

・・・でも、果たして、ツーリストにそんな文句を云う資格なんてあるのか。
胸に手を当てて考えるまでもない、自分は誰なのか。
・・・そう。そうですよ。われわれこそが、その場所をツーリスティックにしている”ツーリスト”なのです。

ツーリズムは、ある意味では、オゾン層破壊なみの、地球規模の大きな病かも知れないと思うことがある。
世界にはもう秘境はないと云われるし、本当の意味での旅は終わった・・・なんて言葉もあるくらい、旅行者たちは、どこにでも出かけて行く。ぶっちゃけ、69カ国旅してきて、日本人旅行者を見なかった国は、1カ国だけである(ルワンダ。ま、2日しか滞在してないしね)。今や、辺境の地といえども、よほど観光的にマイナーかよほどアクセスの悪い奥地でない限りは、ちゃんとゲストハウスが存在するのだ。

ツーリストが足を踏み入れることで、それまでそこにあった何かが汚れてしまう―と云って云い過ぎなら、変わってしまう―ことは否めない。
ツーリストという異物は、突然変異を起こし、その土地の生態系を多かれ少なかれ変えてしまう。もともとあった美しさをゆがめてしまう。ツーリストがもたらす外貨の利益は、彼らの生活や人生観まで変えてしまいかねない。
田畑を耕して暮らしていた人たちが、実入りのいい観光客相手の商売に鞍替えする。それまで機能していたサイクルは根元から崩れていく。今や、観光が倒れたら、町もろとも倒れてしまう場所すらあるのだ。
そのことを今さら嘆き、一概に”害悪”と決め付けてももう遅い。現に今、彼らは観光で食べているのだから。

旅が素敵なものだというのは、旅する側の勝手な云い分である。
どんな場所にでも、カメラ片手にずかずかと出かけていくツーリストたち。それは単に、己の好奇心を満たすための、エゴイスティックな行為である。
特殊な服装や風習を持つ民族は、すべて見世物としてツーリズムの餌食になる。われわれは、それを知っていて、それでも金を払って見に行く(こともある)。
彼らはいつの間にか、われわれツーリストよりも流暢な英語を話し、ときにはフランス語やスペイン語や日本語まで操る。英語はともかく、辺境の村で日本語なんか聞くと何だか脱力してしまうが、向こうにしてみれば、金になるんだから当然である。

ツーリズムの洗礼(汚染?)を受けた世界では、われわれは基本的に、どこに行っても”ツーリスト”であり、”外人”である。
ツーリストとローカルの間には、越え切れない溝がある。
(もちろん、それをやすやすと飛び越えてしまう人もいる。わたしは、飛び越えられない)
言葉、文化、民族、習慣・・・溝をつくるものは色々とあるが、多くの場合、それは、「金」だったりする。結局。
わかり易い例を上げれば、発展途上国の観光地においてよくある、「外国人料金」。
先進国と途上国の間に経済格差がある以上、やむを得ないとは思う。思うけど、「外人さん、あんたら金持ってるんだから、オレらの100倍払いな」と、トーゼンのように強いられると、はっきり云って気分が悪い。のみならず、その辺の商店でも勝手に外国人料金を設けていたりするので、さらに気分が悪くなる。そのようにしてツーリストは、金銭によって、ことあるごとに地元民と隔てられる。

わたしが、本当に貧しく、行き倒れかけている旅人であったら、彼らはどんな風に接してくれるだろうか(それは「けいの無銭旅行記」に描かれているかも知れない)。少なくとも、金づるとしては扱われないだろう・・・。
貧乏旅行者は、その名のとおり、基本的に金がないのだが、現地の貧しい人間からしたら「オレよりは持っとるやろーが」てなもんで、やっぱり金づると見なされる。ていうか、日本人というだけで全員金持ちだと思われるのだから、これはもう、どうしようもない。

貧しい国の観光地で、やたらにチップをふるまったり、ペンやキャンディーを予め用意して来てばらまく旅行者たち(主に欧米人)を見るたびに、いたたまれない気持ちになる。あんたはボランティアをしに来たのか?そういう態度が、ますますわれわれと地元人たちの溝を深めるんじゃないのか?
でも、そういう”ギフト”で、一時的にせよ現地人は喜んでしまうのである。あっちからしてみれば、何もくれてやらないわたしの方が”いけすかない奴”に見えることだろう。一瞬そこを通り過ぎるだけのツーリストが、彼らを喜ばせようと思ったら、そんなことくらいしかできないのかも知れない。
それに、何でもかんでも地元人と同じようにしようというので、無理やり地元バスに割り込んで乗ったり、地元プライスでものを買ったりというのもまた、別種の横柄さであると云えるワケで・・・(これに関しては、わたしは大いに反省いたさねばならない)。

ツーリスティックだと文句を垂れたところで、そのツーリスティックさに助けられることは、多々ある。
ツーリスティックな場所にいると、うんざりする気持ちとは裏腹に、何気にかなり居心地がよかったりする(笑)。何故なら、ツーリスティックな場所は、ツーリストが居心地よく過ごせるようにつくられたものだからである。
何だかんだで、ついついツーリスト向けのレストランに行ってしまったり、カプチーノなんてスカした飲み物を頼んでしまったり、のみならず日本食レストランでトンカツ定食を食べたあげくマンガまで読んでしまったり、どうせみやげもの屋に連れ回されるんだろ、と思いながらも楽ちんなツアーに参加する。
困ったらツーリストインフォメーションに行くし、ゲストハウスの情報ノートは熟読するし(笑)・・・何よりも、ある程度の数のツーリストがそこにいるというのは、安心感がある。

ツーリスト慣れ(ずれ?)している人たちは、見方を変えれば、ツーリストという存在に慣れた人たちであり、われわれの希望や困惑を汲んでくれる人たちである。美しい云い方をするならば、彼らは、”ツーリストとローカルの架け橋”。もっとも、4分の1くらいはワルモノ(場所によっては2分の1、いや全員(笑))だったりするので、やっぱり今のは云いすぎだが、それでも、われわれの旅は、彼らに負うところが大きい。
わたしは、ツーリスト相手のみやげもの売りなんかも、そんなに嫌いじゃない。気色悪い日本語を使うな!何やこのがらくたは!あんたどんだけガメついねんな!・・・とか苦笑しながらも、彼ら相手に熾烈な値段交渉を繰り広げるのは、ボクシングみたいでなかなか楽しかったりする。彼らはわれわれの相手なんて手馴れたもんだし、高く売りたい彼らと、安く買いたいわたしというとてもわかり易い構図があらかじめ出来ているので、あんまり肩肘はる必要がないのだ。そういう意味では、とても正直なコミュニケーションである・・・と思うのはわたしだけか?

・・・ああ、しかし。どちらにしたって、われわれが旅をすればするほど、全世界のツーリスティック化は進むのだ。ツーリストは、ツーリズムの病を運んでいる張本人のウイルス。ピラミッドに入る行列に並びながら、「くそっ、何でこんなにツーリストだらけやねん!」と悪態をついているこのわたしこそが、今すぐ旅をやめるべきなのだ。
そうして、一人一人が旅をやめていけば、やがてはこの世からツーリズムがなくなって、ツーリスティックな場所もなくなり、そういう場所が嫌いなパッカーも大喜び・・・って、ちょっと待て。ツーリズムの消滅とともに、パッカーも消えてなくなるじゃねえか(苦笑)。

でも、旅をやめるなんて、この世から旅をなくすなんて、無理だ。だって、やっぱり旅は素敵なんだもの。エゴイスティックでも、ウイルスでもさ・・・。
世界を見てみたい、自分のいる場所とは違う世界を知りたい。その気持ちは、責められるべきものじゃない(と思いたい)。そして旅は、その、誰もがおそらく持っている知的好奇心を満たす、絶好の手段と機会なのだ。
ツーリスティックであろうとなかろうと、そこは決してテーマパークなんかではなく(それっぽいとしても)、ピラミッドは本物に違いないし、そこにいる人間は生身の人間だ。観光地化によって変わってしまったものはあっても、やっぱりそこは、現実の、生きた土地であり、旅をするということは、それらにじかに触れることである。

世界がどんどんツーリスティックになっていくのは、世界の文明化・経済的発展に似ている。いったんそれで走り出したら、もう元の場所には戻れない、という点で。多分、ツーリスティック化は今後も止まらないだろう。元あった観光地が、さびれていくことはあるにしても・・・。
ツーリスティック化を嘆いても、仕方ない。心情としてはそうでも、われわれの行動は、まったくの裏腹なのだから。
われわれツーリストにできることは、節度を持って旅するということだけだ。
自分、一人の旅人に過ぎない自分もまた、その町や人々に何らかの作用を及ぼしていることを自覚して旅するということ。
・・・なんて、エラソーなことを云っている張本人こそが、世界各地で害悪を垂れ流しているのであり、まことに面目ないことでござりまする・・・(汗;)。

次回は、”うるるん編”です(ほんとに次回はあるのか・・・)。

(2005年5月 ラオス)


ICONMARUP1.GIF - 108BYTES 画面TOPむだ話INDEXHOME ICONMARUP1.GIF - 108BYTES
inserted by FC2 system