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++旅先恋愛其の伍〜フツーのしあわせの青い鳥〜++
勤めていた頃、わたしには、1年下の後輩が二人いた。
先日、そのうちの一人からメールをもらったのだが、何とそこには、「おれ、この春結婚するんスよ」と書いてあった。のみならず、もう一人の後輩は、とっくに結婚済みだという話なのである。
うーむ、めでたい。何というめでたい話であろーか。
・・・なんて、わたしが素直に祝福していると思ったら大間違いであるぞ、後輩よ(笑)。

わたしはそのメールを読んだとき、思いっっっきり、脱力してしまったのであった。
この2人の後輩たちは、いずれも男子である。
一緒に勤めていた頃は、まだ大学生感の抜け切らない若輩者(笑。わたしもだが)で、働いているときも、どっちかというと、会社の後輩というより、サークルの後輩みたいな感じであったのだ。
そんな彼らが、こともあろうに結婚である。所帯持ちである!ひとつ下だから、今27歳だ。昨今の男性にしては、わりと早い結婚と云えるのではないだろうか?

われわれが、ほぼ時期を同じくして会社を辞めたのが、2001年の春から夏にかけてのことであった。
今は2005年である。あれからもう4年!わたしは、時の流れを痛く感じ入った。
なるほど・・・いつまでも若者気分でフラフラしているのは、わたしだけっていうことかい。そして、気がつけば、28歳になっちまった。もう三十路は目の前。仕事なし、彼氏なし、金なし・・・未来なし(笑)。アリとキリギリス、ウサギとカメ・・・ああ、色んな教訓童話が浮かんでくるぞ〜・・・。

でも、思うんだけどさ〜、自分も含めた最近の若者(含めていいのか?)は、意外と真面目だし、保守的だよねえ?
わたしは、後輩2人の結婚相手も、両方知っている(顔を知っているという程度だが)。会社にいた当時からつきあっていたのである。
2人とも、それを実らせての結婚だ。すげーよなあ。
マスコミじゃ、若者の性は乱れている、なんて、まあそれは昔っから云われているけれども、実はそうでもないんじゃないの?と思う。少なくとも、みんながみんな、次から次へと相手をとっかえひっかえしているワケではないのだ。みんながみんな、援助交際をしているワケではないのと同じく(笑)。

既婚者たちは、口をそろえて「結婚なんて、ばら色でも何でもないのよ〜。ただの生活なのよ〜」とウンザリしたように云うけれど、あれは多分、本心ではない。結婚していない(できそうにもない)わたしを、ヒガませないように気を遣っているだけなのだ。そりゃまあ、「結婚サイコ〜!あたしたち、ホント幸せ!」なんてヌケヌケと云われたら、ふざけんなっ!と張り倒したくなるけどさ(笑)。
何だかんだいっても、結婚しない<結婚する、という図式が、まだまだ世の主流なんじゃないのかな(旅してても、夫婦(同然)パッカーの多いことに、目を見張りますね実際)。
結婚生活は、確かにばら色ではなかろう。でも、たいていの人は結婚する。ということは、ばら色なんかじゃなくても、何かイイことがあるに違いない。
そうでなければ、一人ででも充分生きていけそうな”自立した”女の人たちがことごとく、あえて結婚している理由が、まるっきり分からないではないか!

かく云うわたしも、こんな長旅に出たからには、とっくに人生捨てて、フツーの幸福などあきらめているのかと思いきや、結婚して幸せになりたいなどと未だに望んでいる、悲しいほどに保守的なオンナである(笑)。
かと云って、じゃあ、何が何でも結婚するぜ!という強い意志があるのかと云えば、そういうワケでもなくて、棚から牡丹餅式に、結婚(相手)が振って湧いてこないかなー、なんて、すこぶる他力本願なのであるが・・・。
ともかく、結婚したいかしたくないか、と聞かれれば、間違いなく「したい」。この際、臆面もなく、そのように断言する(笑)。
ほらー、やっぱさー、昔っから結婚っていうのは、人生の一大イベントじゃないですか。特に女子にとっては。夢見る乙女(←こらっ)としては、これを外すワケには参りませんでしょ。

結婚までの道のりは、いかなるものであろうか。
頭の中で、結婚までに要する時間を計算してみることにする。
まず、帰国した時点で28歳も半ばを過ぎている。そこから就職(できるのか?(笑))し、最低でも3年は働くとすると、31〜2歳。
ひとところで3年働けば、それなりの仕事を任されているだろうし、面白くなってもいるだろう。
そんなときに、結婚しようと思うだろうか??ていうか、できるだろうか?

まあ、それでも、結婚は、仕事の邪魔にはさほどならない、と考えよう(相手によるが・・・)。
問題は出産である。おー、これまた人生の一大イベント。
わたしは、子どもが欲しい。子どものクセに子どもを欲しがるな!と云われそうだが、本人も育てる自信などひとかけらもないが、それでもやっぱ、欲しいか欲しくないか、って云われたら、欲しいと答える。
何故なら、中学生で生理になって以来、実に14年もの間、毎月あんなところから血を流し続け、そのたびに、耐えがたい腹痛にも襲われ続けてきたのである。
なのに、子どもを産まなかったら、つまり、子宮を活用しなかったら、もったいないではないか!
もしかすると、実は子どもが産めない身体である可能性だって、ないとは云えない。
だが、産めるんなら、やっぱ産んどいた方がいいかなあ、と思うのだ。少子化に悩む世の中に貢献する意味でも(笑)。

・・・どんどん話が暴走しているが(笑)、そんなことよりずっと前に、結婚には相手が必要である。
世間一般では、わが後輩たちのように、数年同じ相手とつきあって、それから結婚というのがノーマルかつ、無難な方法であろう(ま、電撃婚ってのもアリなんだが・・・)。
そーなると、である。
今すぐ相手を見つけて、2年つきあったとしても、30歳を超えてしまうのである。
今すぐ相手が見つかるとはとても思えないし、まあたとえば相手を見つけるまでに、帰国から1年を要したとしよう。すると、その時点でもう30歳間近!そこから付き合いだしたとして・・・・・・。

だーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!

だめだ・・・結婚への道は遠すぎる・・・。
いったいわたしは、どこで人生設計を間違えたのだろう・・・って、旅に出てしまった時点でに決まってんだろっ!

こんなことをほざいていると、30をとっくに(?)超えた未婚のおねーさま方に、張り倒されるかも知れない。
何云ってんのよ!まだ充分若いでしょ!アンタが結婚できない年だったら、わたしたちはどーなるのっ!って(笑)。
しかし、今この”28歳”という年齢。実にビミョ〜な、”揺れるお年頃”ってやつではないだろうか?
同い年くらいの友人連中にも、結婚している人としていない人が、当然ながら混在するワケだが、未婚の女の友人たちは多かれ少なかれ、結婚に対してフクザツ〜な感情を抱いていることと思うぞ。

昨年(一昨年?すんません、浦島太郎なもんで・・・)の日本では、酒井順子著『負け犬の遠吠え』によって、”負け犬”という言葉が流行したそうな。
今さら説明するまでもないだろうが、”負け犬”とは、”30代、未婚、子ナシ”の女性のことである。
わたしも、この”負け犬”街道を、わき目もふらずにひた走っている女であるので(笑)、酒井氏の著作を、帰国したらぜひ後学のために読んでみたいと思っている。

しかし、当たり前だが、30代、未婚、子ナシの女が、決して人生においての”負け犬”であるはずはない(そんなことは、酒井氏も重々承知であろう)。
世の未婚女性たちの中には、結婚できない、んじゃなく、結婚しない・したくない派の人たちもたくさんいて、現に、わたしの尊敬するおねーさま方(有名無名問わず)は、結婚していない人が多い。あるいは、結婚したけど離婚している(笑)。
彼女らを、結婚できない・結婚でしあわせになれなかったかわいそーな人、とはつゆほども思わないし、むしろ一人であることがさらにカッコよさを増している人たちばかりである。

が、一方で、未婚の女が”負け犬”と呼ばれる理由も、分からなくはないのである。
何故なら、現にわたしが、「なんとなく負けてる」ような気がしているからだ。それこそ、”勝ち犬”である、同世代の友人たちに対して・・・。
わたしはまだ、負け犬の定義である30代にはなっていないが、未婚のまま30代に突入することは、火を見るより明らかである。わたしはそのことに、少なからぬ焦りを感じているのである。
それは、先ほども書いたように、28という微妙な年齢のせいかも知れない。
今ならまだ、間に合う・・・何だか知らないが、そんなことを思わせる年齢なのだ、28ってやつは(や、もう間に合わないんだけどさ、わたしの場合(笑))。
男性はどうだろう?少なくとも、女ほど気にしていないと思うし、気にする必要もないんだろうなあ・・・。

余談だが、「女の子はいいよねー。何だかんだいっても永久就職っつーテがあるからさ」という男性の意見について、わたしは、確かに・・・と納得する一方で、反論もある。
永久就職は、何も女全員に許されているものではないからだ。
たとえば、男性が40代で独身でも、「あの人、ホモなのかしら?」と思われる可能性は無きにしもあらずだが、特に奇異な目では見られないだろう。が、これが女性40代独身だったら、どうだろうか?
大昔のように”傷モノ”とまでは思われないにせよ、「何か理由があって結婚しない(できない)のだろうか?」という、世間の心無い推測にさらされる確率は高い(と思う)。ま、40越えたら、そんなこと気にしなくなるかも知れないけど(笑)。
女は永久就職に逃げられる・・・そういう一面も確かにある。だが、もし永久就職できなかったら・・・?独身の男より、独身の女の方が、まだまだ生きにくい世の中だと思うぞ、わたしは。

閑話休題。
では、わたしが負けてる、と思う理由は何であろうか?
まずわたしは、憧れのおねーさま方のように”一人でいても充分カッコいい”女性にはなれそうにもない、という致命的な問題である。
何しろ、自信というものがほとんどない人間であるから、一人でいる、い続けることが不安でしょうがないのだ。
もちろん、一人旅しているくらいだから、一人でいるのは大好きなのだが、もし一生一人身で生きていくことになったら、果たしてどうだろう?その覚悟が、わたしにあるだろうか?

結婚とか、年齢とか、男とか女とか、そーゆーの関係なしに、自分は自分じゃん!自分らしくあればいいじゃん!
そういう世間体を気にするなんて、バカバカしいよ!
・・・といったような、威勢のいい、高尚な(笑)反論もあろう。
だが、人は、まったくそうしたことを気にせずに生きていけるほど、強いものであろうか?少なくとも、わたしは違う。
慣習や常識にとらわれず、自分らしくあること・・・カンタンなように聞こえるが、これほど難しいことがあるだろうか?
仮にも社会の一員である以上、その社会が意識的にせよ無意識的にせよ強いてくる”常識”などから、完全に自由であることなんて、よほど意志の強い人か、頭のネジの飛んだ人(笑)でなければ、困難だと思われる。もちろん、できれば自由でありたいと思うが・・・。

「結婚できないんじゃないの!したくないだけなの」
と断言すればするほど、”いや、相手がいなかっただけでしょ”って思われるタイプなんだろうな、わたしって(笑)。
でも、こういう人って、たくさんいるのだろうな。だからこそ、”負け犬”という言葉が世間で受け入れられるんだろうと思う。、
そんな、”負け犬(一応、今んとこ候補生)”のわたしにとって、結婚するということは、何というんでしょう、自分の存在を保証してくれる人間を手に入れる、ってことなのだ。経済的な保証のことではない。自分の存在理由を、一生証明し続けてくれる他人がほしいのだ。もっとはっきり云えば、愛がほしいのさ(笑)。

だが、結婚したいと思う一方で、「わたしは果たして、結婚に向いている人間だろうか?」という疑問もたえず持ち続けている。
結婚するということは、他人と人生をともにするということだ。
喜びは2倍、苦しみは半分こ、なんて云うけれど(笑)、そんなイイことづくめでもないだろう。喜びは2倍になるかも知れないが、自由は間違いなく半分以下になる。わたしはそれが恐ろしい。恐ろしくてしょうがない。
それこそ、ひとり旅における、”自由と孤独”のたえざる葛藤と同じである。どちらかを取れば、どちらかがなくなるか、減少する。人生において、自由を取ろうと思う場合、結婚は足かせ以外の何ものでもなくなるだろう。

愛する男がずっとそばにいるという状態に激しく憧れつつも、愛する男といったって所詮他人だし(愛がいつまで続くかも分かんないし)、その他人がいつもそばにいるという状態は、現実的に考えてみると、窮屈に思えてしょうがない。
わたしは、自由でいることが、何よりも好きだ。何をもって自由と云うか、という問題はあろうが、自分が自由だなあと思えること、その実感は、何にも換えがたいものである。
そして、結婚(生活)は、その自由さを捨て去ってでもこの人といたい!という情熱がなければ、成り立たないであろう。

しかし、そのような男性、自分に完璧に合う男性、一生この人と生きていこうって思える男性が、この世に存在するとはとても思えない。まあ、あの世に存在するとも思わないけどさ(笑)。
みんな、何でそんな若い身空で、”運命の人”が見つかっちゃうわけぇ??と、本当に本当に本当に不思議でしょうがないのよあたしは!マジで、レクチャーしてほしいっす。あなた方にはあって、わたしに欠落している何か(あ、いっぱいあるか)・・・って、いったい何なの?これさえあれば、運命の人に会える(見分けられる)・・・そんなアイテムを、誰か教えてください(笑)。

結婚、そして家庭を築くことは、いわゆる”フツーのしあわせ””人並みのしあわせ”の代表的存在であると思う。
人から、「すごい旅をしてますね。うらやましいです」なんて云われると、”本当にそう思ってるか、あんた?”と、なめくじのように卑屈な気持ちになることもしばしばである。
人よりちょっと変わっていたり、アウトローだったり(笑)する生き方は、魅力的ではあろうが、所詮は他人事、「ドラマだからいいけどさ、現実だったら困るよね」っていう類のものである。
気ままに旅している人をうらやみつつも、「でもやっぱり家が一番ね」と、小旅行帰りのオカンのように思っている人が、大多数であろう。
同じように、「いいわね、独身は自由で」なんて云っている既婚者だって、「でもやっぱり独りもんなんてさびしーわよね」と思っているに違いない(笑)。だから結婚したんでしょ?そして、それゆえに、未婚女性は”負け犬”と定義されるのだ。

世の大多数がやすやすと手に入れている(かのように見える)しあわせを、自分だけがもらえないとなったら、何か悔しい。
わたしが結婚にこだわる理由のひとつが、それなんじゃないかと思う。
みんなが結婚しているってのに、何でわたしだけできないの!(いや、そんなはずない)
みんながもらっている福袋が、何でわたしだけもらえないの!(いや、もらってしかるべきだ)
・・・っていう、義憤ですね(笑)。

そんな”みんなと同じ中身の福袋”ではなくて、自分だけの、ステキな中身の入った、それ以外のしあわせってのも、ちゃんと存在すると思う。
そして、そういう類のしあわせを探求しようとしている、していた人は、いくらでもいる。
ただ、その道は、ほとんどの人が行かない道だから、険しいし、何の保障もない。
それで、多くの人は挫折して、過去にあった、世間でよしとされている、ステロタイプのしあわせに答えを求めようとする。
「結婚して家庭に入るなんて、バカバカしいと思ってたけど、本当はそれこそがしあわせなんじゃないのかしら?」
かく云うわたしも、そこのところで、揺れ動いている。ま、家庭に入らないまでも、結婚し、家族を持つということ、一般的なレールに従うこと、そこに本当のしあわせがあるのだろうか・・・と。

しあわせとは何であろうか?(おっと、いきなり大問題だなあ)
メリメの『青い鳥』は、しあわせというものの本質を、見事に云い当てた話である。すなわち、”しあわせとは、求めるものではなく、ただそこにあるもの”だということである。
または、平凡なものの中にこそ、しあわせは存在するというお話である。
こうも云えよう。”今あるものに満足し、(できれば)感謝できること、それがしあわせである”と。

しかし、そうは云っても、それで「そうですね」と納得できないのが、普通の人間であろう。
今よりも明日、明日よりも明後日が、よりよくなることを願う、それが一般的な人の考え方だと思う。
ゆえに、求めるタイプのしあわせというものもまた、確実に存在する。
たとえば、金、権力、名誉、美貌・・・といったもの。こういうものを求めてもがく人間を、どうしようもない俗物だとみなす風潮は、昔からあると思うが、それらをほしがる人間もあとを断たないのも事実である。それらは、しばしば人をしあわせにするどころか、のっぴきならぬ不幸に落とし込むこともある。だがそれは、あくまで分量の問題ではないか?何事も、過ぎたるは及ばざるがごとし、という・・・。
かくいうわたしも、権力はめんどくさそうなのでいらないが、金はあった方がいいに決まってるし、美貌はその金を積んででもほしい(笑)。名誉もまあ、あっても困らんだろう。それらが自分をしあわせにしてくれるかどうかは知らない。でも確かめてみたい。金や名誉で、どの程度しあわせになれるのかを。

旅もまた、求めるタイプのしあわせに分類できると思う。
わたしなんかは典型的だが、要するに、日本にいて、一応生活できているという”しあわせ”な状態を投げ捨てて、「わたしがほしいのはそれじゃない!」と叫んで出てきたワケだ。ま、結婚の予定は相変わらずなかったけどさ(苦笑)。
そして、今の状態はしあわせか否か?
わたしは、全面的にではないにしろ、しあわせだと思う。
ただ、これがずーっと続くとなるとどうだろうか・・・との疑問は残る。この生活が一生続くとして、わたしはそれでしあわせだろうか???
・・・そう考えたとき、今だ手にしていない別のタイプのしあわせが気になってしまうのである。飽き性なのか、単に強欲なのか・・・?(笑)
多分それが、いわゆる”フツーのしあわせ”ってやつなのだ。結婚とか、家庭とか、真っ当な仕事、に代表される・・・。

世界の大部分では、家庭のしあわせこそが一番のしあわせと信じられている、と思う。
いわゆる、”結婚して、子供持って、家庭を作って”というゴールデンコースですな(笑)。
特に発展途上国は、家族の絆が強い。
今どき日本じゃありえないような大家族が、小さな家の中で一緒に暮らしているのを見ると、大変そうだなあと思う反面、ちょっとうらやましくもある。
人のよさそうなお父さん、肝っ玉母ちゃん、兄ちゃん姉ちゃんがいっぱいいて、可愛い赤ん坊をみんなで面倒見て・・・そんな光景が、何だか泣きたくなるほど美しく見える。
しかし、それは、単にノスタルジーなのであろう。
われわれは、発展とともに、物質的豊かさと自由を得る一方で、それらを意図的に捨ててきたのだ。

わたしは一度、父親を、インドでもアフリカでも、昔ながらの大家族がつつましく暮らしているところへ連れて行って、どんな感想を持つか、聞いてみたい。
父親は、大家族で育った。戦後の食べ物の少ない中で、芋のツルなんか食って暮らしていたのである(笑)。父と伯母が、そのころの話を少ししてくれたことがあって、今からは考えられない貧乏っぷりに、笑ってしまった記憶があるが、、話している2人は、けっこう楽しそうで、少しうらやましかったりもした。
でも、父は果たして、今の豊かな暮らしを捨てて、その頃に戻りたいと思うだろうか?

貧しいけれどしあわせな家庭、それは一面的な見方であろう。
そういう社会では得てして、女の子は中学生やそこらの年齢で、顔も知らない人と結婚させられるというのも事実だ。
家が貧しく、親が働かせるので、学校に通えない子供たちもいっぱいいる。
何よりも、家に縛られて個人の自由がきかなくなる。これは、親の世代の日本でもそうだったと思う。うちの両親だって、田舎の親戚のしがらみがイヤで、大阪に出てきたクチである。
家族という名のもとに、さまざまな不幸が産まれるのは、何も発展途上国に限った話じゃない。日本だって同じだ。

・・・じゃあ、”しあわせ”って、いったい何?どこにあんの?

わたしは、その答えを、決して結婚に求めているわけじゃない。
ただ、結婚もまた、しあわせのひとつの形ではあるのだろうと思う。白いウェディングドレスとかさ、新婚家庭とかさ、しあわせそーじゃん、いかにも(笑)。
何たって、これだけ多くの人が結婚しているんだからねえ、何かあるんでしょーよ、と思うわけだ。
それに、世の中のたいていのことは、経験しないよりはした方がいい、と思っているクチであるから、結婚がしあわせをもたらそうがもたらしまいが、チャンスがあるなら、やってみたいやね、単純に。
”好きな人と、しあわせに暮らしたい”
いろんな欲望があるけれど、自分の一番の願いをひとことで表すなら、そんなところである。で、結婚っていうのは、まさにそれを実現するための、最適な(もっともマシな)手段だと思うのだけど、違うのかな?

その反面、まだ誰も見たことのないしあわせを探し求めて見たい、という気持ちもある。
誰も見たことのないしあわせなんて、しあわせとは云えないものかも知れないけれども。
もしそんなものがあるなら、探してみてもいいかなーと思ったりするのだ。ははは、つくづく天邪鬼だのう(笑)。

(2005年2月)


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