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++旅先恋愛其の四〜疲れる恋愛〜++


実は、でもなんでもないが、たまに読者の方から感想のメールをいただくことがあり、「むだ話を楽しみにしている」と書いて下さる方々が、意外と多かったりする。わたしとしては、むだ話は、あくまでむだ話、風信の方がよほど時間を費やしており、こちらは片手間と思いつきのみで運営されているコーナーなので、何となく複雑な気分であるが、まあ、楽しみにしてくれている人がいるというのは、うれしいことである。

そして、そんなむだ話の中でも、この”恋愛話”が一番おもしろい、最も楽しみにしている、というご感想をいただくことが多い。おもしろいと云われれば単純にうれしい反面、衝撃的な暴露話とか期待されていたらどうしよう・・・と心配になってしまう。このHPはよく「セキララな内容ですね」と云われるが、一応常識的な範囲での”セキララ”であり、何でもかんでも喋っちゃうもんね、などとは露ほども思っていない。やっぱ人間、喋っていいこととそうでないことがあるだろうから、その辺は、自分の物差しで一応計ってはいるつもりである。

さて、今回わざわざ、しばらく休んでいたこのシリーズを書く気になったのは、何も、「ついに彼氏ができた」とか、「ついにゴルゴを使用した」とか、そういう浮かれた話があるからではない。相変わらず、モテないわが身を嘆いている毎日であり、最近は、自分が本当に霊長類オンナ科に属するのかどうかが疑わしいくらいである。
ただ、最近、人と話したり本を読んだりして、恋愛について思うところが色々とあったので、それをまとめてみようかと思った次第である。恋愛についてもの思ふヒマがあったら、実際の恋愛をしろよ!というツッコミが聞こえてきそうだが、こればかりは相手の要ることなので、わたしにはどうする術もありゃしません。

みなさんもご存知のように、恋愛というのは、人生における重要な何かであり、人によっては、生きる糧になっているとすら云えるものである。古今東西、恋愛はあらゆる芸術のテーマとなっていることからも、恋愛がいかに人生の重大事になっているかが伺えよう。

でも、わたしは最近思うのだ。”恋愛は、マジでしんどい。だから、出来ることならやらない方がいい”と。
普段、モテないモテない何故モテないのだわたしは・・・と呪文のように繰り返しているわたしだが、本当のところは、恋愛なんてしたくないのだ。いや、したくないというよりも、「”恋愛をしたい”と思う自分を抹殺したい」というのが正しい。

「恋愛でキレイになる(セックスでキレイになる、てのもある)」だの「恋をしていない女は枯れる」だの「恋するために生まれた」・・・といったコピーが、特に女性雑誌や女性向けエッセイに、安易にも氾濫している。
わたしは、こういう記述を見るたび、そこはかとなくイヤな気持ちになり、「あんまり恋愛恋愛って煽るんじゃねーよ」と悪態をつき、ついでに唾も吐いてやりたくなってしまうのである。
あのなあ、恋愛ってのはな、そんなにカンタンな、その辺に掃いて捨てるほどあるラブソングみたいなもんじゃねーんだよ。下手したら、人生とか人格ってものが、崩壊してしまうことだってあんだよ。それをそんな、さも恋愛は素晴らしい!ってなコトを得々と謳いあげて、素直な読者たちを”恋愛教”に洗脳していいのかよ?え?

しかし、恋愛が、”掃いて捨てるほど”その辺に転がっているのもまた、事実である。
わたしはかねがね、クリスマスになると、やたらとカップルどもが街中で幅をきかせ、クリスマスに一緒に過ごす人(この場合、家族ではなくて恋人って意味である)がいないことに、コンプレックスすら抱かせかねないことに、憤怒ともいうべき感情を覚えている。クリスマス前に浮かれている友人どもにも何度か云ったことがあるが、「クリスマスは、キリストの生誕日であって、セックスをする日ではない」のである。
クリスマスに恋人がいないと人間じゃないのか?と聞きたくなるほど、あの時期、恋愛が氾濫していることに、わたしはいたく不愉快な気持ちになる。ヒガんでんじゃねーよ、って?(笑)すみません・・・。

クリスマスのときは格別としても、世の中を見ていると、恋愛はどこにでもあり、誰でも恋愛をしているような錯覚にとらわれる。わたしには、それが不思議でならない。恋人って、そんなにお手軽に、インスタントラーメンのように出来るものなの?じゃ、何でわたしには出来ないの?・・・てのはまあ置いておくとしても、世の中、あまりにも恋愛が氾濫しすぎている。ヒットチャートに上る歌は、ほとんどすべてがラブソング。「ずっと僕の側にいて」だの「貴方はわたしの生きる理由だ」だの、わたしは一度も云われたことのないような愛の言葉が、これでもかというくらい、並べ立てられている。そして、それを聞いてみんな、ロマンチックな気分に浸ったりしているのだ。みんな、ラブソング、ひいては恋愛が大好きなのだ。

わたしの周囲を見ても、年頃だからか、いともカンタンに結婚している人々が後をたたず、わたしを戦慄させるのである。君はまだ若いのに、そんなにカンタンに、一生の相手を決めてしまっていいのかっ、君はそのヒトと結婚したら、一生他の相手とは恋愛できないんだぞ、万一妻(夫)以外のヒトと恋愛してしまったら、不倫だ何だと世間様から非難轟々なのだぞ・・・と、まるで老婆のように忠告したくなる(嫌われるのでやりませんが)。

旅先で、山本文緒の『恋愛中毒』という本を読んだことがある。これは、タイトルからも想像できるように、恋愛に狂った一人の中年女性の悲劇の物語である(この人の恋愛小説は、どれを読んでも上手いなあと思う)。
恋は人を壊す、とかいう書き出しで始まるのだが、ホント、その通りだよ。恋愛は毒ですよ。みなさん甘く見ているようですけどね、あれは、人を死に至らしめることだってできる、恐ろしい麻薬なのですよ。

そりゃあ、恋愛したての頃は、世の中がバラ色に見えて、その人が生きているっていう事実だけで幸せな気分になり、その人にふさわしい人間であろうと前向きな努力もするさ。そういうときは、生きててよかった、恋愛してよかった、てな殊勝な気持ちにもなろうさ。しかし、それは、氷山の一角に過ぎないのだ。恋愛は、その”いいところ”で終わってはくれないし、バラ色な時代は、青春と同様、いつまでも続くわけではないのである(いや、青春の方がまだしも、心のもちようで続いていく可能性が高いかも知れない)。

そして、恋愛は、それそのものだけでは完結しない。必ずと云っていいほどつきまとうのが、@嫉妬A独占欲B不自由C自己嫌悪D執着心。これ以外にも色々あるだろうが、とりあえず今思いついたのはその5つである。
どれかひとつでも、取りつかれるとすこぶる厄介なものであるのに、恋愛においては、同時に、あるいは交互にこれらが襲ってくる。はっきり云って、サイアクである。

わりと人間の出来た人がよく云うのが、「独占欲は愛ではない」というセリフである。
うむ、確かにそうであろう。「嫉妬」も「独占欲」からくるものだから、すなわち、相手にやきもちを焼いたり、束縛しようとしたりするのは、アイではない、のである。うむうむ、ごもっとも。やっぱアイってのはさ、「相手の幸福を一番に考えるコト」であって、自分の欲を満たすことではないんだよね。うむうむうむうむ・・・。

・・・なーんて。今、書いてて、あまりの白々しさに、背筋に寒気が走ってしまったぜ(苦笑)。
もっとも。今書いたことは、確かに正論である。愛していると云いながら、例えばストーカーなんかは、相手の嫌がることをしまくってますます嫌われているわけだし、愛という名のもとに(ってドラマあったね)暴力をふるったりする男なんてのは、サイテーである。ちなみにわたしも、以前、ストーカー的な男に求愛されたことがあり、心底の恐怖を味わったことがある。ストーカーはいけないよ、やっぱ。

とか云いつつも、わたしには、ストーカーの気持ちもよく分かるのである。わたしも、自分についていたストーカーが、ときどき哀れにもなったし、自分もまた、いつなんどきストーカーになるか分からないという不安もある。
「この人が欲しい」「自分のものにしたい」という気持ちは、人を好きになったら、必ず芽生えてくる。―例えば、
ショーウインドウに、とてもステキな服が飾ってあったとする。「あ、これ欲しい!」と思う。しかし、それは未だ、わたしのものではない。もしかすると、10分後に他の誰かが買っていってしまうかも知れない。それはイヤだ。何としても自分のものにしたい。―
日常の、どこにでもある心情である。それではこの、服(物)が「欲しい」という気持ちと、恋した相手が「欲しい」という気持ちとは、一体どの程度の差があるのだろうか?好きになったら、自分だけのものにしたくなるのが、普通の感情だと思うのだが、それはアイではないのだそうだ。そりゃ、服とか本とかってのは”物”であり、恋した相手は”生身の人間”であるから、同じようにはいかないだろう。”人”を”物”扱いすることは、間違っているとは思う。でも、そこの境界ってのは、そんなにもキッパリと引かれているものなのだろうか?

少なくとも、わたしに関しては未だに、愛情と独占欲が、いともカンタンに結びついてしまう。
それでも、自分の精神状態に余裕があるときは、「彼に出会えただけでも奇跡であり、幸せなのだ」とか、「彼の幸福こそが自分の幸福なのだ」とか、聖人めいた気持ちになることもある。
しかし、そんなものは、ほんの一瞬の感情であり、ただの気の迷いと云ってもいいくらいの、実にはかないものである(苦笑)。ちょっとでも気分が下降すると、たちまち嫉妬心、猜疑心・・・といったドロドロしたものが頭をもたげてきて、精神の地獄みたいなところに、あっけなく落ちてしまう。嫉妬の地獄も猜疑の地獄も、本当に本当にキリのない、まさに無間地獄。「ダメだ、こんな醜い嫉妬(猜疑)は捨てなければ・・・」と思えば思うほど、ドツボにはまってしまうのがまた、これらの怖いところである。

「その人の気持ちがあればじゅうぶんって思えないところがつらいですよね。付き合っている、結婚してるってことが愛してるってコトの証明にはならないのに、気持ちを表現しようと思ったら、結局そういう形で社会的な認証を得るって方法しかないですもんねー。(中略)相手のことを好きなら好き、それだけで充分っていられるのが一番謙虚でいいんですけれど。誰かのことを好きになったら、どうしても気持ちに対しても、肉体に対しても支配欲がわいてしまいますねー。それは、つきつめて考えると自分が気持ちよくなりたいという自分が可愛いだけなんじゃないかと思えてくるし。」

と、その昔、ドイツにてお世話になったKさんが、メールで書き送ってくれたことがあった(勝手に引用してすみません)。
彼女は2つ年下なのに、わたしよりもずっと、恋愛とか人生とかに対する洞察が深い人なのだが、このメールを読んだときは、「うーん、分かる分かる。痛いほどよく分かる」と、目からぼろぼろウロコが落ちたものであった。

一体、恋愛において、正論なんてものは、どこまで役に立つものなのだろうか。
恋愛にまつわる、さまざまな事件、犯罪は古今東西、あとをたたない。ストーカーもそうだし、不倫の泥沼の果てに相手の家族を殺したとか、相手の男のチン○ンを切っちゃったとか(阿部サダですな)、歴史をひもとけば、陰惨な、あるいは珍妙なそのテの事件はいくらでもあるだろう。ちょっと近くを見渡したって、エゲつない話はあちこちに転がっているのだ。
わたしは、そのような、恋愛ゆえに犯罪を犯した人たちを、格別擁護する気はないが、多少の同情は覚える。殺人はいくら何でもやっちゃいかんけれども、恋愛というのは、人をそこまで追いつめるものなのであり、ちょっとタガが外れたら、そういうことも充分に起きうるだろうと思うからだ。

今の話と少しかぶるが、わたしが恋愛において、もっとも恐れていることは、自分を見失うことである。いつも見失ってんじゃねーか(すぐブチキレたりな)という意見もあるだろうが、ま、それは置いておいて。不倫の果ての殺人、振り向いてくれない相手への執拗なストーカーも、つまるところ、自分を見失ってしまった結果であろう。もともと困った性格の人間だった、ってことも充分ありうるけれども。

一人でいた頃(恋愛していなかった頃)は、孤独でいるのにも慣れている。平気だとは云わないまでも、それはごく当たり前の、日常的なものである。ところが、恋愛すると、その孤独が平気ではなくなってしまうのだ。”彼(彼女)なしでは生きられない”というのは大げさにしても、一人で生きていることに耐えられなくなってしまう。もともとは”彼”なんてものはいなかったはずなのに、それはずっといたものなのだと錯覚する。そして、それが錯覚だと分かると、今までの、通常感じていた孤独の何倍も深い孤独に、叩き落されるのだ。
宇多田ヒカルはこう歌っていた、「一人じゃ孤独を感じられない」と。いくら天才とは云え、まだ10代の娘が、何故そんなことを知っているのだろうと驚愕した覚えがあるが、まさにこれである。一人で感じる孤独と、相手のある孤独とでは、後者の方が何倍もキツい。何でもそうだが、なければないでそれなりにやっていける。でも、いったんあったものを失うことは、時に耐えがたいほどの苦痛をともなうのだ。

”他人に期待しない”ということが、昨今のわたしのポリシーであるが、恋愛に関しては、なかなか自制がきかず、ついつい甘い期待を膨らませてしまう。「もっと一緒にいたい」とか「どこそこに一緒に行きたい」とか(ぎゃー恥ずかしー)・・・そして、それがあっさり裏切られると、逆恨みしてしまいそうになる。はっ、いかんいかん、よく考えたら、彼にそこまで期待する方が間違っているよな、うんうん・・・と、すぐに理性で自分を押さえるけれども、心のどこかでは、「期待を裏切られた」という思いがプスプスと燻っていたりする。結局は全部、一人相撲なのにね。
他人に期待しないってのは、ちょっと寂しくはあるけれども、生きていく上では、もちろん恋愛においても、それが一番いいやり方なんだと思う。自分がラクになれる方法とでも云うんだろうか。でも、これには或る程度の修行が必要だ。わたしはまだまだ、他人に過剰に期待してしまう部分が多くて、もっと鍛錬せねばのう、と反省することしきりである。

上記のような理由から、わたしは、恋愛などしんどいので出来ればやめておきたく、そして、世の中の人々が何故ああもカンタンに恋愛関係を築いているのか、という事実に、大いに疑問を感じるのである。

とは云ったって、恋愛というのは、交通事故のようなものであり、いつ何時やって来るか分からない。つくづく、メーワクな事象だと思う。せめて、「じゃ、明日から行きますんで」とかなんとか、告知しておいてくれれば、こちらとしても、それ相応の準備(って、何すんだ?)をしておけようものを、何の前触れもなく訪れやがって、本当に腹が立つ。

まあ、かと云って、頑なに「絶対に恋愛しない」と自分を制するのも、それはそれでしんどい話である。
一番いいのは、恋愛の美味しいところだけ取って(少ないけどな。ほとんど食べるところのない珍味のようだぜ全く)、あとはポイすることだ。しかし、どうやって???
わたしは、自分なりに解決策を考えてみた。
「そうだ。色んな人を好きになって、愛を分散させればいいのだ」

↑のどこが解決策やねん!と即座にツッコミが返ってきそうであるが(苦笑)、まあ聞いてくれ。
元来
わたしは、相当な浮気性の人間で、好みの顔の男性がいれば、すぐに目がハート(スパンクみたいだな)になってしまうし、ちょっと優しくされたり誉められたりしたら、すっかりその気になって舞い上がり、あげくの果ては「このヒトがわたしの王子様かもっ!?」と、実に勝手な思い込みまでする始末である。こんなに頭が軽くていいのかわたし!?と思うのだが、少し立ち止まって考えてみると、実はこの”浮気性”が、わたしの精神的安定(恋愛における)を支えているのではなかろうか?ということに、思い至るのである。

愛情を分散させることで、自分の精神の均衡を保つ。何だか卑怯にも見えるが、それはそんなに責められることなのだろうか?むしろ、そうすることで、相手に対する負担をやわらげ、ストーカーだの刃傷沙汰だのといった厄介ごとを回避しているとも云えるのである。
経験したことないので分からないが、わたしは多分、専業主婦になったら、ジメジメと夫の帰りを待っているタイプであり、ちょっとでも遅くなったりすると「もしかして他の女のところに?」とこれまたジメジメと考えてしまうタイプである(笑)。だからわたしは、ゼッタイに専業主婦にはならないと、固く決心している。要は、夫にすべての愛が向かってしまったら、こういう、ちょっとアブない主婦になってしまいかねないということであり、ゆえにやはり、愛情を分散させるということは、自分にとっても夫(恋人)にとっても、よりよい関係を築くためのひとつの策なのである。

そもそも、何故人は、音楽や書物や映画を愛するように、人を愛せないのであろうか?ロック音楽とクラシック音楽を同時に愛することも、ソクラテスと中村うさぎを同時に愛読することもできるのに、何故、AくんとBくんを同時に愛せないのか。いや、愛してはならないのか。
ぶっちゃけわたしは、AくんとBくんと、さらにはCくんも、同時に愛することができる(・・・あああ、こんなこと書くと、ますます男が寄ってこなくなるなー・・・)。相手がそれで、愛されていると思うかどうかは別として、自分の中ではそのつもりである。
ただ、それは相手も世間も許しちゃくれないし、逆に自分が、つきあっている男に「野ぎくちゃんのことも好きだけど、野うさぎちゃんのことも好きなんだ」なんて云われたら、「このヤリチン男!」と云ってブチ切れるであろう。ううむ、自分のことは棚にあげて、とはまさにこれ。しかし、恋愛において、”自分のことを棚にあげる”やつって、非常に多くないですか?(すみません、わたしもその一人です)

寺山修司は、『青女論』の中で、2人の男(女)を同時に愛せない、愛してはならない理由を、「嫉妬の問題である」と書いている。
そうなのだ。物を愛するのも、人を愛するのも、根本的には同じはずなのだが、物と人の最大の違いは、嫉妬するかしないか、なのである。もっと平たく云えば、感情を有するか有さないか、ということか。
彼もやはり、「所有(私有)し、意のままにする、という関係の持続は、実は愛とは全くべつの、人間関係のエゴイズムではないのかな」と書いている。寺山にそう云われると、そうですねと納得するしかないのだけれど(笑)、現実には、嫉妬の問題というのは、そんなにカンタンに解決されるものではないだろう。本当は、嫉妬も独占欲もなく、誰もが誰もを愛せる自由がある(誰とでもヤれる、とかな(笑))、そういう世界が理想郷なのかも知れないけれど。

少し補足しておくと、わたしの”浮気性”は、あくまでも精神のレベルに留まっているものである。何度も云うようにわたしはモテないので、浮気性ったって、現実には誰も相手にしてくれない。おかげさまで、幸か不幸か、他人(男)に迷惑はかけないで済んでいる。もし、わたしが「モテる女」や「魔性の女」あるいは単純に「美人」だったら、本当に身の破滅を招いていたかも知れない。ああ、そうか、だから神様が、わたしをモテなくしてくれているのね・・・どうもありがとう、神様(・・・って、そりゃ違うだろ)。
わたしの親友の一人が、まさにこのタイプで、浮気性な上にモテるので、かなり大変な目に遭っていた。恋愛が、生活の支障となっているようにすら見えた。そういうのは、さすがにうらやましいと思わない。いくらモテたって、恋愛に人生を支配されるようになってはオワリである。少なくとも、わたしのポリシーとしてはね。
しかしまあ、彼女の魔性ぶりは、もはや病気なので一生治らないだろう。この女にだけは、自分の彼氏を紹介したくないです(笑)。

しかし、そうかと思えば、別の友人は、今すぐ結婚してもいいと云ってくれる男性が、4人いるのだそうだ。4人ーっ!!!頼む、1人でいいから分けてくれ(笑)。
彼らは「結婚したい」と云っているくらいだから、少なくとも彼女のことを一番好きなのだろうと思う。が、彼女は誰とも結婚する気はないらしい。それでも、その4人は、彼女のことを愛しており、ゆえに、他の3人の男がいることにも納得し、目をつぶっている(のか?)である。ううーむ、信じられん。わたしが彼女のように、4人の男に愛されることは、未来永劫ありえないけれども、彼女のような状態というのは、意外と幸せなのだろうなあと思う。それは”モテているから”という意味ではなくて。4人の男が彼女を愛しているのはもちろんだが、彼女も彼らのことを、それぞれに愛しているのだ。わたしのように、ケチくさい理由から愛を分配しているのではなく、多分、一人一人を十二分に愛しているのだろう。具体的に云えば、わたしが100しか持っている愛を25ずつ4人に分け与えるのではなくて、彼女は400、もしかすると無限に持っており、だから、いくらでも愛を与えられるのである。彼女こそは、もしかすると、上記に書いたような”理想郷”の住人なのかも知れないな(笑)。

彼女のような人を見ていると、一体”浮気”とは何なのか?と首をかしげてしまう。
わたしはかねがね、”妻”はともかく、”彼女”という地位が不思議でならず、彼女というだけでやたらエラソーにしている女などを見ると、「何様だ、オマエは」とか思ってしまうのである。ハッキリ云って、彼女なんてのは、吹けば飛ぶような立場である。結婚を考えているならばともかく、結婚するワケでもない”彼女”なんて、そんなの身分でもなんでもない。男が他の女を好きになったからって、それを「浮気だ!」と云って責める権利は、厳密にはないのである。もちろん、責めるのは勝手だけれども。
なのでわたしも、誰かの”彼女”にしてもらっても、そんなものは明日になれば白紙になるかも知れないのだという覚悟は、常に持っていようとは思う。そりゃあ、捨てられたら悲しいし、悔しいし、傷つくし、「何でなのよー!」と怒り狂ってついでに暴れるかも知れない。理性と感情は、しばしば大きく乖離しているからね。
妻ってのもまあ、そう大差はないのであるが、妻の場合、「一生お互い以外の異性は愛しません」という契約書に判ついているので、もし夫がほかの女に走ったら、大いに怒ればよろしい、「契約違反じゃねーかヴォケ!」と。ただ、ほかの女に走ってしまった夫を、責めることはできても、その心を縛ることは、いくら契約書を盾に取ったって、できやしないのである。上記のKさんのメールにあったように、「結婚してること、つきあっていることが、愛していることの証明にはならない」
のである。だからみんな、恋愛で苦しんだり、傷ついたりするんだろうな、と思う。結婚すらも、愛の証明にはならないなら、一体、何を拠り所にすればいいのだろう??

・・・はあー、ここまで語って、何だか疲れてきちゃったよ。この話、キリないんだもんなー。もともと期待してはいなかったけれど、何の結論も出てないし、結局わたしは、何が云いたかったんだろう?
ただひとつ分かっていることは、わたしは恋愛しても、キレイにもなれないし、疲れるだけだってこと。要するに、向いていないのだ。音楽や料理に才能があるように、恋愛だって才能ってものがある。愛し愛される才能、とでも云うのかな。才能のない人間が、それをやったって、ドツボにはまるだけである。
だから、モテなくても、恋愛に縁がなくても、それはそれでいい人生なのかもな、と、最近は思うのであった。おしまい。

(2004年8月)


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