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++昆湖飯店306号室の思ゐ出(散文)++
中国は雲南省の省都・昆明に、昆湖飯店という安宿がある。
6年前の春、わたしはそこにいた。わたしは22歳で、大学を卒業する直前だった。いわゆる卒業旅行で、女の友人と2人、バックパックを担いで昆明へとやって来たのであった。
昆湖飯店の306号室は、4人ドミトリーであった。部屋の真ん中奥に、いつも点けっぱなしのテレビがあり、それが、昼間でも薄暗い部屋の灯り代わりだった。
そこに集ったのは、わたしと友人のほかに、1年の長期旅行に出ている31歳の気孔の先生、アメリカ人パッカーのS、壮大な虚言癖のタイ人の女の子A(そもそもタイ人かどうかも怪しかった)、老板(ラオパン)と呼ばれていた初老の日本人男性、それから、Mさんという5ヶ国語ペラペラの50歳前のこれまた日本人男性。ほかにも、入れ替わり立ち代わりで、色んな旅人がそこには居た。

・・・いきなり何の話かって?
急に昆湖飯店での思い出を書く気になったのは、何故だか自分でもよく分からない。6年ぶりに、雲南ではないが中国の地を踏んだせいかも知れない。
あの旅がなければ、今のわたしはなかった。それ以前から、ずっとずっと長旅への憧れはあったけれども、長旅をする運命を決定づけたのは、おそらく昆湖飯店での日々だったと思う。

・・・・・・

上海から列車で、4日3晩かけて昆明に着いたとき、わたしと友人はすっかり生気を失っていた。
本来なら安宿を探すはずが、この日ばかりは「ちょっとくらい金出しても、いいホテルに泊りたい!」という意見の一致を見、パッカーのくせに3つ星ホテルに泊った。3つ星とは云え、あくまでも中国の3つ星、ソファーの足が折れていたり、部屋の隅に埃がたまっていたりするのは悲しいが、ふかふかのツインベッド、テレビ付き、お風呂はバスタブで当然お湯もガンガン出る。
一度快適さを味わうと、ランクを落とすのがイヤになってくる。われわれも、貧乏旅行とは云え、3週間のお気楽卒業旅行である。ここ昆明くらいはずっと、このクラスのホテルに泊ってもいいかな・・・と思い始めていた。

それが何故、昆明でもっとも安いクラスの昆湖飯店にわざわざ移ることになったかというと、中国旅行社で知り合った日本人が昆湖飯店に泊っており、何となく遊びに行ったのがきっかけだった。
それこそが、昆湖飯店306号室の4人ドミトリーであった。

昼間、まだお天道様も高い時間というのに、そこには数人の泊り客が、お茶を飲みながらとりとめもない話をしていた。
その、ちょっとタイハイ的とも思える雰囲気に、わたしは即座に違和感を感じた。当時はまだまだ旅慣れない学生パッカーであったわたしは、「昼間っから何してるんだろ、この人たち・・・」という、実にまっとうな(笑)感想を抱いたのであった。

これが、いわゆる”長期旅行者”という存在との初めての出会いであった。
話を聞けば、彼らは皆、半年だか1年だか、とにかく、当時のわたしからは考えられない長旅をしているという。そして、そのありあまる時間を、”昼間っから雑談”に費やしていたのであった。

今思えば、彼らはいわゆる”沈没者”であった(笑)。気孔の先生は、毎日のように「明日こそは石林(昆明から行ける名勝地)に行く」と云ってはザセツしていたし、アメリカ人パッカーSは、わたしの友人と恋におちて、毎日何やってたんだか知らん。ラオパンとMさんは、少し前まで中国に留学していて、そのときの同級生だったらしく、一緒に昆明でパン屋を開く計画を立てていたのだが、少なくともわたしが昆湖飯店にいた当時は、ぶらぶらしているおっさんたちにしか見えなかった(笑)。

そんな彼らに違和感を感じたはずのわたしと友人であったが、いつの間にやら、この空間にすっかり馴染んでいった。
どういうワケか、われわれと長期旅行者たちは仲良くなり、毎日あてもない散歩に出かけたり、ご飯を食べに行ったり、気がつくとわれわれもすっかり沈没者への道を歩んでいたのである(笑)。
ところがこれが、すこぶる楽しかった。毎日、明日のことなんて何も考えずに、ただその日何を食べようか、何をしようか、それだけしか考えていなかった。それだけしか、考えなくてよかったのだ。わたしは、人生のうちでこんなに安心できる時間があっただろうか・・・と思うほどに、日々幸せを感じ、その日その日を愛しんで過ごしていた。

その一方で、ちょっと困ったことも起きていた。
わたしと友人は最初、306号室には泊らずに、ツインの部屋を取っていた。306号室は常に満室だったのである。
それが、306号室に泊っていたアメリカ人Sが友人と出来てしまったので、わたしは部屋を替えてやることにしたのである。しかも勝手にな(笑)。わたしは、友人が風呂に入っているスキに荷物をまとめ、Sとベッドをチェンジしたのであった。まるで、平安時代の貴族の娘に仕える女房のようである。男を手引きする悪者女房ってワケだね(笑)。後から友人にはさんざん責められたが、知ったこっちゃない。むしろ彼女はそれを望んでいたハズだ(断言)。
しかし、そんなことをしておきながら、わたしがSと友人の恋を温かく見守っていたのかというと、そうではなかった。わざわざ2人で旅に出てきて、一方に男(女)が出来るというのは、あまり芳しくない話である。両方がそうなれば、お互いハッピーでよかったね、って話で終わるけれども、残念ながら、わたしには男は出来なかった。友人をナゾの外人に盗られた(?)敗北感と、”何故あの女だけが?”という醜い嫉妬心がミックスされて、わたしは友人に対して、どーしても寛大な気持ちになれなかったのである。そして、ことある毎にひやかしたり、イヤミを云ったりするのであった。ホント、昔から性格が悪いわたしなのである。わはっ。

・・・・・・

306号室のメンバーは、大体固定していた。
一番長いのがMさんで、次が気孔の先生、そしてアメリカ人S。そのSとチェンジしたわたしも、期間は短いのにすっかり沈没者の雰囲気をかもし出していた(笑)。残りの1ベッドは、わりとくるくる人が替わっていた。学生パッカーもいれば、社会人パッカーもいた。

あのとき、あそこには、さまざまな人間模様がうごめいていた。
友人とアメリカ人Sの激しい恋(笑)をはじめ、気孔の先生は、上の階のシングルに泊っているナゾの日本人女性に恋をしていたよう(に見えた)だし、タイ人の女の子は日本人の若いパッカーに言い寄られていた。
そんなディープな(?)空間で、唯一、わたしとMさんは、清らかなる友情を育んでいた(笑)。

Mさんは50歳前、つまり、自分の親とそう変わらない年齢なわけだが、まったくそれを感じさせない人だった。
放浪者というのは、どことなく若いものなのかも知れない。
わたしのような世間知らずの学生ともむだ話が出来るかと思えば、もっとハイレベルな話も出来る人で、わたしは分からないなりにも「頭のいい人なんだなあ」という印象を持った。
頭がいいと云えば、彼は、冒頭にも書いたように、5ヶ国語が話せるのであった。日本語、英語、中国語、フランス語、スペイン語。これだけ話せたら、世界中何処でもやっていけるだろう。

こんな人が何故、この安宿のドミトリーに長期滞在しているのか、わたしは素朴に疑問だった。
世間的な幸福や成功を捨てて(或いはあきらめて)旅に生きる人が、本の中ではなく実際に存在している・・・。わたしは、当時から長旅に憧れ、いつか実現させたいと願っていたけれども、それとてあくまでも半年とか1年の旅で、一生旅を続けるなんてことは考えたこともなかった。それは今もそうだ。
一生を、彷徨い続けて生きる、というのはどんなものなのだろう?

Mさんは、年齢のせいもあってか、306号室のちょっとしたヌシ的存在であった。
とは云っても、ときどき日本人宿にいる”我者顔したヌシ”では全然なくって、みんなの相談役みたいな感じだった。当時一番問題になっていたのは、友人とSの恋愛沙汰(笑)で、友人もSも、何かあるとMさんに相談していた。Mさんが言葉が出来るということもあっただろう。先の方でわたしはふざけて書いたが、実際はこの恋愛は、かなりシリアスなものだった。下手したら、友人の人生を変えてしまったかも知れないくらいの大事件だったのである(笑)。

話し好きなMさんだったが、自分のことはほとんど語ったことがなかった。
それが、いつだったか、どんなきっかけだったか、ぽつぽつと話し出したことがあった。
詳しいことはもう覚えていないけれど(当時の日記を見れば分かるかも知れないが)、ただ一言、強烈に印象に残っているのが「もう帰る場所なんかないんだよ」という言葉だった。
そして、わたしは彼の話を聞きながら、何故だか涙が止まらなかったこともまた、よく覚えている。

帰るところのない旅人。
この2年半の旅の中で、そんな悲壮な旅人には、会ったことがない。皆、帰る場所があり、そこにちゃんと帰っていった人たちばかりだ。
本当の放浪者というのは、Mさんのような人のことを云うのだろうと思う。そういう意味では、わたしなんて、”放浪乙女”なんて名乗っているものの、カンペキにエセ放浪者だ。

昆湖飯店に滞在していたのは、結局1週間だか10日だか、それほど長い期間ではなかった。
一度、友人と離れたくなったこともあって、一人で大理に行き、そこでも軽く沈没しかけていた(笑)。大理での日々は、昆明のそれより短かったが、これまた、頭の中が常に空っぽ状態で、実に幸せな日々であった(※ドラッグやってたワケじゃないです、念のため)。大理は昔から、沈没地として有名だが、あそこで沈没する理由は、とてもよく分かる。

昆明に戻って来た頃には、もう帰国日がすぐそこに迫っていた。
基本的にケチなわれわれは、昆明から上海まで、ふたたびあの長距離列車で帰るつもりであった。しかし、友人の”Sと少しでも一緒にいたい”という希望と、わたしも何となく昆湖飯店を離れるのが寂しく、帰国日ギリギリまで昆明にいて、昆明→上海間は飛行機で飛ぶことにした。

・・・・・・

わたしが大理に発つ前と、わたしと友人が上海に発つ前、306号室にいたみんなで、記念写真を撮った。
今、旅先なのでもちろん手元にはないのだが、どんな構図だったか、誰が映っていたか、はっきりと覚えている。そして、その写真の中のわたしは、とても自然に笑っていた。

アメリカ人Sは、いつか友人にこう云っていたそうだ。
「306号室のメンバーは、家族じゃないけれど、家族みたいな感じがするよ」。
Sはかなり複雑な家庭環境に育っていることを、あとから知った。

出会いというものがそもそも、不思議なものではあるのだが、旅の中の出会いは、とりわけそうであるように思う。
年齢も、国籍も、仕事も、何もかも違う人々が、たまたまレセプションに決められたというだけの理由で、同じ空間に集う。その中のある人とは、一言も話さないまま別れてしまうかも知れないし、ある人とは、一生の友人になりうるかも知れない。
306号室のメンバーも、まさに、偶然の集まりでしかない。それが、一時的にせよ、”家族のような”共同体になったということに、わたしは今でも、ある種の奇跡を見るような思いがする。

旅先風信の方でもときどき書いているが、わたしはこういった空間、つまり”居心地のいい共同体”への憧れをずっと持ち続けている。306号室のメンバーとは、今はすっかり音信不通ではあるが(友人は別ね)、あのときのことは、一生忘れることはない。そして、あの306号室の再来が、いつかどこかで訪れないものかと、ひそかに夢見ながら、旅を、あるいは人生を続けているような気がする。

・・・・・・

帰国してから一度、Mさんから電話をもらった。Mさんも帰国していたのだ。
そのときわたしは、確か梅田の地下街を歩いていた。電波が悪くて、あまりちゃんと話が出来ないまま、電話が切れてしまった。

そう云えば、彼が昆明からくれた1通目の手紙には、不可思議なことがいろいろと書いてあった。
覚えているのは、ナゾの日本人女性から、何故か10万円を手渡された、という話。わたしも友人も、彼女とはほとんど話したことがなく、一体どういう事情でそんなことに?と首をひねった。
さらに、虚言癖のタイ人の女の子と日本人の若いパッカーの話。これは複雑というか、大事になっている様子だった。手紙が今手元に無いから、どんな話だったか詳しくは思い出せない(帰国したら読み返してみようと思う)。
ラオパンとパン屋を開業する話は無くなった、とも書いてあった。

それから、何度か手紙のやりとりがあったあと、いつのまにか音信普通になってしまった。
あれから6年、彼は今も、世界の何処かを彷徨い続けているのだろうか?帰るところのない彼は、一体何処にいるのだろう??

・・・・・・

友人は当時、ああした長期バックパッカーの存在にかなり衝撃を受けていたようだったが、わたしは、驚きはあったにせよ、彼らが自分とそう遠くないところにいる人たちだということを、うっすらと認識していた。友人は、彼らにある種の憧れを抱いていた。しかしわたしは、憧れよりも親近感の方が強かったのだ。
わたしはきっと、いつの日か長い旅に出るだろう、その気になればいつだって出られるのだ・・・あの旅で、それを確認したとも云える。
そして、あれから6つ歳を取って(正確には来月なんだけど)、あのときからは想像もつかなかった長旅をして、また中国に戻って来た。

何故長い旅をするのか?という疑問について、最近はすっかり考えなくなった。
別に答えなんてなくていいじゃないか、と大方の人は思うかも知れない。わたしもそう思うし、だから他の旅人にそういう質問はなるべくしないのだが(長期旅行者はたいてい、「そういう質問されても答えに困る」とため息を漏らすのである)、それでも、何故わたしは、そして彼らは旅をするのか?もし答えがあるなら、素朴に知りたいと思う。
306号室の彼らは、何と答えてくれるだろう?今となっては知りえないけれども、少なくとも彼らには、それぞれの切なる理由があったように思えるのだ。

(2004年8月)


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