ゲイ術手帖其の六

「モーリス」(E.M.フォースター・扶桑社文庫)


 わたしは自分でも嫌になるほどひねくれ者で心が狭い。愛も信じられない、人間も信じられないので、時々本当に、自分は生きている価値などないのではないかと思う。そんなことを考えさせてくれる世の中も恨めしい。しかし、『モーリス』を読んだ(あるいは観た)時だけは、不思議と素直な気持ちで人生を祝福することができる。わたしにとって『モーリス』は不可侵で神聖な、この世で唯一の慰安である。

 『モーリス』を知ったのは大学1年の時で、映画の方だった。よく云われるのが、「いかにもゲイ好きの女が好みそうな映画」という批評で、確かにそういう一面 はあるかも知れない。二十世紀初頭のイギリス、ケンブリッジ大学、スーツの似合う美男子たち、ビクトリア朝の豪奢に彩 られたディテール。あらすじも、ケンブリッジ大学の学生であるモーリスが、クライブという親友に出会い、同性愛に目覚める。しかし、卒業後クライブはモーリスを捨て女性と結婚。傷ついたモーリスはクライブの家の猟場番アレックと一夜をともにするが……と、書いてて悲しくなるくらいやおいっぽい(笑)。しかしそれは、あくまでも表面的なことなのだ。そんなことでモーリスの魅力は語れない。映画と合わせて原作を読むとよく分かる。原作には、冷静な筆致ながらも実に細やかにモーリスの感情が描かれていて、個人的には映画よりも感情移入できた。特にクライブと別 れた直後の絶望と、アレックとの第2夜の章を読むと、わたしにもそんなものがあったかと思うほど清らかな感情が沸き出てくる。

 これは人間の苦闘の物語だ。一人間として生きるための苦闘。それは、本文の言葉で云えば「天国に関するどのような伝説も凌駕する、最高の偉業」である。やや詭弁的ではあるが、結局人間の成功とは人間らしく生きることなのではないかと、モーリスの生き方を見ていると思う。愛とは、信仰とは、そして生きるとは何か。彼は真っ向からこんなシンプルだが究極の問いに挑み、そして自ら答えを出した。普通は結末を云うのははばかられるが、今回に関しては敢えて云う。モーリスは、すべてを捨ててアレックとともに在ることを選んだ。つまり、同性愛がまだ犯罪だった時代に、同性愛者として生きることを選んだ。そしてそれを、作者であるフォースターは「ハッピーエンド」として描いた。『薔薇色の星』のゲイ作家ドミニク・フェルナンデスはこのハッピーエンドを「精神の見事な成功であるにとどまらず、生への信頼の貴重な証でもある」と絶賛している。
 『モーリス』は多分にロマン的ではあるが、決して甘い幻想ではない。何故なら、フォースター自身が同性愛者であり、モーリスの苦悩はそのままフォースターの苦悩として置き換えることができるからだ。結局『モーリス』は、当時の時代背景から、フォースターの生前には出版することができなかった。おそらく出版するつもりもなく、自分のために書いたのだろう。しかし、ゲイであるモーリスを神格化することなく、もちろん貶めることもなく、きわめて真っ当に描いた功績は大きい。その公正な精神は、映画監督ジェームズ・アイヴォリーに受け継がれ、やがてゲイ映画の名作『モーリス』を生むこととなる。

 ちなみに、モーリスは今のわたしと同じ24歳である。久しぶりに小説を読み返してみて、まずそのことに気がついた。これはちょっとしたショックだった。何故なら、わたしにとってモーリスは英雄だったから。いざその英雄と同じ年齢になってみて、何の真実も見出せないわたしの24年間って、ほんと、紙くずみたいな人生だなあと思う。


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