ゲイ術手帖其の弐

「太陽と月に背いて」(1995年イギリス・フランス・ベルギー/監督=アニエスカ・ホーランド/出演=レオナルド・ディカプリオ、デイヴィッド・シューリス、ロマーヌ・ボーランジェ)


 前回は、このHP用に書いたものではなかったため、原稿の量が多すぎたことを勘弁して下さい。さぞかし読みづらかったことでしょう(でも今回も多い)。

 さて、『太陽と月に背いて』は、ご存知レオナルド・ディカプリオ主演の、あまり知られていない映画である。ディカプリオは『ギルバート・グレイプ』が良かったとぬ かす輩が多くて辟易してしまう。あんな演技の上手いガキというだけのディカプリオよりもこっちの方がどんだけエロくて毒があってミリョク的か。しかしホモ映画であるせいか、あまり評判がよろしくない。

 本作品でのディカプリオは天才詩人アルチュール・ランボーだ。舞台は19世紀フランス、シャルルヴィルの田舎に住む16歳のランボーが、パリですでに流行詩人となっていた27歳のポール・ヴェルレーヌに自らの詩を送ったことから物語は始まる。ランボーの才能に感激したヴェルレーヌは彼を家に呼び寄せ、やがて妻子を置き去りにして2人で放浪するのだが、2年後、世に云うブリュッセル事件を起こして破局を迎える。ヴェルレーヌは監獄に送られ、ランボーは詩作を捨てアフリカへ行き商人となる。……

 この2人の詩人が同性愛の関係にあったことはわりと有名な話である。君を愛していると云いながら美人で財産のある妻マチルドを捨てられないヴェルレーヌ、1人になりたくないと云いながらヴェルレーヌを罵倒するランボー。傷つけ、愛し、また傷つける。その繰り返しの末、ヴェルレーヌが自分の元を去ろうとするランボーの手を銃で撃ってしまう。

 昔ある男性(ノンケです)に「自分の(男女の)恋愛は下等で、ホモの恋愛が理想の恋愛だ」と云って大いにヒンシュクを買ったことがある。この映画を観て思い出すのはそのことだ。男女の恋愛は殆どの場合社会的に約束され得る。 つまり、愛だけでなく社会的契約や物的利益など様々な付属物によって成り立つ関係だ。男同士の恋愛にはそれがない。ランボーとヴェルレーヌの関係もまた、愛と詩作のみに支えられた極めて純粋な関係だったと云える。故にその愛は常に激しく、お互いが擦り切れるまで傷つけ合わなければならなかった。実際、彼らは純度の高い何かを求めていたのだ。それは愛だったのか、詩作によってたどり着くことのできる真理だったのか…。彼らは同志であり、戦友であった。例えそれが永続的なものでなくとも、ランボーにはヴェルレーヌ、ヴェルレーヌにはランボーしか有り得なかったのだ。ランボーの死を聞いたヴェルレーヌが、ランボーの幻とともに「私たちは幸福だった。確かに」と回想するラストシーンは切ない。

 それはさておき、ディカプリオ=ランボーというキャスティングは実に絶妙だ。ランボーの悪魔のような不遜さ、激しさ、無邪気さ、そして少年特有の色気は彼にしか演じられなかっただろう。特に最初のキスシーンは何とも艶めかしかった(セックスシーンもちゃんと有)。残念なのは、後に「男同士のラブシーンは2度と演じたくない」とコメントしていたこと。そんなツレないこと云うなよー。ヴェルレーヌ役のデヴィット・シューリスは、気持ち悪いとかただのヘンタイ中年にしか見えないとか云われてあまり評判が良くなかったけど、わたしはそうは思わなかった。てゆーか、ヘンタイ、大いに結構だっつーの!


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