ゲイ術手帖其の壱拾参

「無花果少年と瓜売小僧」(橋本治・講談社文庫)


 誰かを好きになるって、一体何なのでしょう? 面食いなのは幼少の頃から変わりませんが、昔はもっと、ごく自然に人を好きになっていたような気がします。でも、年を取るにつれて、確固たる気持ちで誰かを好きになれなくなってしまった。何の疑いもなく好き、という気持ちになれない。それは、相手を信じられないのではなく、自分の"この人を好き"だという気持ちに自信がないのです。

 「無花果少年と瓜売小僧」及び続編の「帰って来た桃尻娘」は、橋本治の青春大河小説「桃尻娘」シリーズの第4部と第5部に当たります。全6巻を実はまだ読んでいないのですが、あらすじさえ分かれば、この部分だけ読んでも全然大丈夫だと思います(少なくともわたしはこれで満足してしまいました)。簡単な紹介をしますと、都立高校の同級生である榊原玲奈(桃尻娘)、磯村薫(無花果少年)、木川田源一(瓜売小僧)、醒井涼子(温州蜜柑姫)の4人の青春を描いた大河小説です。登場人物の特徴については、「ゲイ文学・耽美小説ブックガイド」の解説が秀逸なので、勝手に引用しますと、榊原さんは自立を願うちゃきちゃきのオテンバ少女、磯村くんは美少年ゆえに、周囲から余計な期待を押しつけられて憤っている、不器用な普通の少年。木川田くんは王子様を待っている一途なオカマ少年、醒井さんは王子様を待っている古風な箱入り娘……という具合です。

 「無花果少年と瓜売小僧」は、磯村くんと木川田くんの同棲物語です。中央大学の大学生になった磯村くんは、「何もかもがメンドくさくなっちゃって」ある日突然一人暮らしを決意します。そこへ、親とケンカして家を飛び出した浪人生の木川田くんがやって来て、何となく一緒に暮らし始めるのです。
 シリーズ中唯一の三人称で、男の子二人のああでもないこうでもない心の動きが、実にねちっこく語られます。作者も登場人物も何となくしゃべりが女の子っぽい(というよりオネエっぽい?)ので違和感を感じるかも知れませんが、そこはひたすらガマンのコで読み進めて下さい。その内にパーッと視界が開けますから。

 磯村くんも、木川田くんも、お互いが好きなんだけど、でも「そんな風に好きなわけじゃないんだ」とか、「何となくこわい」とか、延々とやっていて、そこがじれったいと云えばそうだけれど、どきどきする部分でもある。でも、人を好きになることが未だに分からないわたしには、20歳と21歳の少年がああでもない、こうでもないと悶々と悩む姿に、どうしても共感してしまうのです。大人の恋愛とやらをやっている大人の人達なら、間違ってもこんなヘマはしないだろうと思われるし、すぱんすぱんと回答を出してしまうでしょう。
 ゲイだからとか、そうじゃないとか、少なくとも磯村くんにはそれほど問題でもないみたいで、木川田くんは、思春期に自ら「オカマ」であることを認識していて、二丁目に通ってオジさんとやりまくったり、バスケ部の先輩を盲目的に愛したりしているのだけれど、磯村くんは別に男が好きなわけじゃない。所謂バイセクシュアルなのかも知れませんが、その辺の性の垣根には、そんなにこだわってないみたいな気がします。彼らの関係は幼いかも知れないけれど、「男と女」とか「ゲイとバイ」だとか、そんな枠はとっくに超越して、「そんなことより、好きって何なのよ?」というレベルでtry and errorを繰り返しているのです。ここで冒頭部分に戻っていただいて、皆さんにも「人を好きになるとは何か」を一緒に考えていただきたいと思います。

 わたしが一番好きなのは、第5部の「赤い夕陽の無花果少年たち」です。第4部の最後で、自分から別れるようなことを云い出した磯村くんですが、自分の云ったことに混乱して木川田くんの学校に押しかけ、公衆の面前で「僕、木川田のことが好きなんだよォ!」と愛の告白をしてしまいます。木川田くんはどうしていいか分からずに、しかし、折りからの雨に降られてびしょ濡れになった磯村くんを放っておけずに、学校をサボって磯村くんの家に一緒に帰ります。甲斐甲斐しく世話を焼く木川田くんを、磯村くんは熱に浮かされるままに誘うのです…。
 何だか分からないまま、磯村くんを抱く木川田くんは、途方もなく切ないです。「分かったよ。愛してあげる。君が今誰を愛しているかなんて分からないけど」。セックスの後、ぐったりして眠ってしまった磯村くんに、「薬を買って来ます」と書き置きして出て行くシーンなんて、涙なしでは読めません。また、この場面が雨というのがいいんですよねー。
 世の皆さんは、ここまで切実な気持ちでセックスしているんでしょうか?セックスはスポーツだ、なんて云っている人は論外ですけど、少なくともそのような気持ちでセックスをしたことがないわたしには、こんな恋愛をしてしまっている磯村くんと木川田くんが、ただただ眩しいばかりです。

 榊原志保美著『やおい幻論』という本がありますが、やおい作家でもある筆者は、FTMゲイという観念を持ち出して、やおいにハマる女性たちを分析しています。FTM=Famale To Male――つまり、女性が男性になる(なりたい)という一種の性的倒錯ですが、ここで注目したいのは、FTMゲイとは、単純に女性が男性になりたいというだけではなく、なおかつ男性として男性を愛したいという、二重の倒錯であるということです。これについては、別の章で論を改めるつもりですが、わたしは磯村くんと木川田くんの、数十頁にもわたる(笑)セックスの場面を読むたびに、ああ、もしかしてわたしは男になって男を愛したいのではないか、と思うのです。全く偏狭な意見であることは承知の上で敢えて云いますが、男同士でなければ、ここまで切実にお互いを好きになれない、好きという気持ちだけでぶつかって行けないような気がするのです。或いは、桃尻娘の玲奈ちゃんが磯村くんに対して「あたしさァ、ずっと仲間はずれにされるかも知れないって、考えてたのね。(中略)誰かにじゃなくて、男の子全部に」と云う場面があって、わたしはこの気持ちが、とてもよく分かるのです。ああ、それでわたしはやおいなのかも知れない、って。一応、世の中の大義名分では、愛し合うのは男と女ですが、本当は違うんじゃないか、本当は男は男が好きなんじゃないか。それが悔しくてわたしは、男になって男を愛したいと考えてしまうのかも知れない。よく、男同士の友情に女の子が入り込めないという話があるけれど、あれは友情というよりも本当のところは男女の恋愛よりも強い愛情だからであって、女の子にはそれが何となく分かってしまうんじゃないでしょうか。そんなわけで、磯村くんも木川田くんも、最後には別れてしまうけれど、二人の関係にはとてつもなく絶対的な、純粋な何かが在るような気がして、やっぱり男同士っていいよね、って思うのです。

 いつもに増してとりとめなく書き散らかしてしまいましたが(しかも長えよ)、色々な示唆を含んでいる小説なので仕方ない。ということで、最後は、磯村くんの素的な独白で締めておきましょう。わたしのような穿った読み方はさておき、本作が優れた青春小説であることは間違いないと思います。

「またね」って、すごく好きだ。「またね」「またね」「またね」って、濃密に、夕焼け空みたいに明日が一杯ある。明日も明日も明日も、ズーッと「またね」っていう言葉でつながって行って、「またね」って言葉の数だけ、僕達には未来があるんだって、そう思う。(『無花果少年と桃尻娘』所存「振り返れば無花果の森」)


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