旅先風信99「メキシコ」


先風信 vol.99

 


 

**再始動**

 

それでも旅を続ける理由って、何なんだろうな。

メキシコシティでの謎の沈没(笑)からようやく足を洗って、旅を再開しました。
今回は、メキシコを出国するまでのお話です。
(※メキシコの原稿については、もはや追いつかないくらいたまっているので、時系列でアップすることは今のところ無理っぽいです。テーマ別で、徐々に上げていきます。)

シティを出たのは、クリスマスの日でした。
クリスマスイブは、ペンションアミーゴでクリスマスパーティーを催し、長く馴染んだシティ最後の夜としては申し分のないひとときでした。
しかし、その前からずっと、悪質な風邪に冒されており、毎日喘息持ちのように咳いていました。本当にひどい風邪で、めったに出さない熱もしばらく続きました。最後の方はもう、入院患者の如く生気のない身なりをしており、周りからも「こいつ、死ぬんじゃないのか?」と思われていたかも知れません(笑)。つねに寒気がするので、ありったけの服を着込み、シェア飯を作るときはマスク(がないので、アイマスクをつけてた)着用。
そんな状態で無理にシティを出ることはない。病院に行った方がいい。周りにそう云う人はいたけれど、出なけりゃいけない理由があったんです。
それについては、いずれメキシコ編のどこかでお話ししたいと思いますが、とにかくわたしは、死んでもここを出るつもりでした。

目指すはメキシコ南部の町、サンクリストバル・デ・ラス・カサス(長いので以下サンクリと記述)。
一度行ったことはありますが、前回見られなかった日曜マーケットを見たいのと、カサギTシャツ(カサコスのページ参照)を、サンクリにいるカサギさんに届けるという任務を仰せつかっていたので、二度目の訪問をすることにしたのです。
あと、年末年始は、多少なりとも勝手知ったるところで過ごしたいという気持ちもありました。せわしない時期にあまりむやみに動くと、犯罪やトラブルに巻き込まれる可能性があるからです。

サンクリまではオアハカを経由すると安くなるというので、まずオアハカで1泊しました。
死者の日以来、約2ヶ月ぶりのオアハカの町。それくらいの期間では、当たり前だけど、何も変わってはいませんでした。
バスターミナルを降りると、地図を見なくても、足は勝手にセントロの方を目指して歩いていました。アバストス市場。ソカロ。サントドミンゴ寺院。安宿までの道。見たことのある雑貨屋。吉田夫婦と一緒に朝食を食べた食堂。相変わらず殺風景な12人ドミトリー。

何ひとつ変わってない。クリスマスの飾りつけで彩られたソカロ、夜遅くまで人々でにぎわう様子も、死者の日と同じ。
わたしはそのことに、愕然としました。
何故、わたしはまたここに居るんだろう。死者の日をともに過ごした吉田夫婦も野村夫婦も、もういない。わたしだけがまた、ここに戻って来てしまった。
この2ヶ月、わたしは何をしていたんだろう。ピーターパンよろしく、年月に置いて行かれたような孤独と物悲しさ。わたしだけが前に進んでいない…。

シティで沈没している間に、旅を続ける自信と気力は、これまでにないほど落ちていました。
この先の中米旅は、消化試合でしかない。もちろん、見たいものはたくさんあるけれど、この大陸を離れて、まったく違う環境に身を置きでもしなければ、旅への活力が湧いてこない…。
ただ、ここでやめるわけにはいかないという闇雲な気持ちだけが、わたしを前に進ませる。それだけ。

憂鬱な気分のところに、さらにダメージを与える出来事が起こりました。
ケニアで買ったピンク色のマサイキコイ(布)をオアハカの宿に置き忘れてしまったのです。
気づいたのが、サンクリ行きの夜行バスに乗る5分前。もはやどうしようもありませんでした。
Tシャツや下着なら、すぐにあきらめもつきます。しかし、この布だけは…。
ずっと持ち歩いてきた、大事な大事な布でした。絶妙の大きさと、ケニアのほかのお店では見かけなかった恰好いい織が気に入っていた布。寒いときにはこれで身を包み、ビーチに行くときは巻きスカートにし、浜辺で寝転ぶときの敷物にしていた布。
たかが布くらいで大げさかも知れないけれど、片腕をもぎ取られたような気持ちになり、ショックと自己嫌悪で胸が張り裂けそうでした。

バスに乗ってからがまた最悪でした。このバス、一等バスのくせに、やけに寒いのです。この時期、北半球のメキシコはしっかり冬。にもかかわらず、どうやら車内には冷房がガンガン…頭おかしいんじゃねーのか。
おかげで、夜中じゅう咳き込みまくって眠れませんでした。ほんと、腹筋がちぎれるんじゃないかってほど、咳が止まらなくて…。自分の意思で出てきたくせに、自分がかわいそうでなりませんでした(わはは)。

ようやくサンクリのカサギさんの宿に着くと、宿の世話人である”先生”が、驚きながら出迎えてくれました。
「野ぎくちゃんが帰って来たよー!」とカサギさんに報告する先生を見ながら、何だか我が家に帰って来たような、ひどく平和な気持ちになりました。
何しろわたしは、この宿の記念すべき3番目の客。しかも、カサTまで作ったということで、ここの宿とは浅からぬ縁なのです(多分)。
日本人宿らしく、大晦日とお正月は年越しそばやお雑煮を作って食卓を囲もうというプランになっており、下降する一方だった気持ちも、少しだけ掬い上げられました。

ここでは、もうひとつ再会がありました。
グアナファトで会い、数日間メキシコ北部の町をともに回った、日本語が恐ろしくペラペーラのオランダ人ミデマさんが、この宿に泊っていたのです。
彼は沈没などするタイプではないので、まさかまだメキシコにいるとは思いも寄りませんでした。しかも、日本人宿に泊ってるし(笑)。

到着した翌日は日曜日だったので、近郊の村の日曜市に行って来ました。
どこに行くのも億劫で、何を見ても心が反応しないような気がしていたけれど、それでも観光はする。ある種の病気かも知れない。
サンクリと周辺の村々のマーケットについては、「私家版・極彩色メキシコ巡礼《おみやげ編》」に稿を改めます。

CHAMURA16.JPG サン・ファン・チャムラの日曜マーケット。

マーケットの観光が終わるとしかし、折からの風邪のせいもあって、あまり動かなくなってしまいました。
町に出かけるのはいつも昼から。それも、何の目的もなくただぶらぶらするだけ。そして、夕方にはもう宿に帰っちゃうという、シティでの生活そのまんま延長みたいな感じです。
それでも、サンクリの町の素朴な雰囲気と、カサギ宿のこれまたのんびりした空気の中で、心穏やかに過ごすことができたのはよかったですね。まるで、実家に帰ったようにくつろげました。
風邪は、山は越したものの、咳だけがどうしても取れず、一度咳き込みだすと、このまま死ぬんじゃないかと思うくらい止まりません。食後に突然猛烈な咳き込みに襲われ、食べたものを全部吐いてしまうことも、何回かありました。危ない病気じゃないといいんだけど…。

そして、2003年も終わりの日がやって来ました。
何とまあ、この1年というもの、1度も日本に帰ることなく、旅ばかりしてきたことか。
それでもまだ旅を続けようというのだから、わたしってやつは…何なんだ?

写真を撮りに町に出かけたあと、夕方からは年越し料理の仕込みです。
宿に帰って来ると、先生や他の宿泊者たちがすでに作業を始めていました。ちなみにメニューは、ちらしずし、コロッケ、かきあげ、黒豆、デザートには羊羹(先生が日本から持って来てもらったもの)。ちらしずしは、酢がないのでレモンを代用というシロモノでしたが、これがけっこう美味しく仕上がり、黒豆も前日から仕込んでいた努力の成果でつやつやになっているし、コロッケもかきあげもきれいに揚がりました。
カサギさんの音頭で、2003年最後の晩餐が始まりました。皆で談笑しながら、懐かしい日本の味に舌鼓を打つ年の暮れ。無理に移動しなくてよかった。寂しい大晦日にならなくてよかった。

夜になると、近所の子供たちが遊びに来て、みんなで外で花火をしました。その内大人たちも出てきて、何故か道ばたで焚き火を囲んで酒盛りに(笑)。ポンチェというフルーツの入った自家製のお酒がふるまわれ、「寒い〜寒い〜」と凍えながらも、しっかりいただいていました。
このクソ寒いのに、子供たちは信じがたいほど元気。写真を撮ると「もっともっと!」とはしゃぎ回って大変です。
がきんちょたちが、夜遅くまで外で遊んでいるのがまた、いかにも大晦日らしくていいですね。その横で、大人たちは酒を片手に談笑して。昔の日本の田舎にいるような、何とも素朴でほんのり幸せな年末の光景。わたしの人生のどこかにも、こんな風な大晦日があったような気がするな。

さらに夜中の12時を過ぎてから、もしかするとソカロ(中央広場)で何か催しがあるかも、というカサギさんの提案に従って、寒い中、ぞろぞろとみんなで出動。しかし、当のカサギさんはすっかり眠りこけていたという(笑)。
いざ着いてみると、特に催しなどはなく、何故か白人ツーリストばかりが集まって、酒を呑んでテキトーに踊ったりしているというだけでした。
それでも何となくうろついていると、カサコス契約社員・次元にばったり出くわし(彼はカサギ宿を見つけられずほかの宿に泊っていたのでした)、「あけましておめでとう」なんてあいさつしたりして。メキシコで、というか外国でこの言葉を聞くと、何だかとっても不思議な気分になりますね。

SANCRI67.JPG 年越しを祝って乾杯する面々。右から2番目が宿主・カサギさん。とっくに顔赤いです(笑)。

さて、話は前後しますが、この宿の主であるカサギさんのことを少し書きましょう。
カサコスの方でもご紹介しましたが、あれではまともな紹介になっていない気もするので、ここで正しくおさらいしますと、カサギさんは、全共闘で戦った革命家。なんて云うと、何となく胡散臭い感じだけど(笑)、本当にそうなのです。

最初、カサTの撮影のためにカサギさんに会いに来たとき、実はかなり緊張していました。
何しろ革命家だからな、こっちもそれなりの覚悟で臨まねば、なんて。戦いに行くんじゃないっつーの(笑)。
実際のカサギさんは、全くコワモテの人ではなくて、いつも酒で顔を赤くしている酔いどれ天使といった印象です。撮影のときも、写真をチェックしながら「うーん、目に光が足りない…これではただの好々爺ではないか…」と悩んでいましたっけ(笑)。好々爺と云うよりは、仙人と云った方がしっくり来るかな。言動も何となく浮世離れしているしね。
カサコスに書いたとおり、ラム酒以外の水分は本当に採りません。朝から晩まで、酒の入ったコップを手にしています。が、これも、会う前は「とんでもない酒飲みなのだな」と警戒していたけれど、確かに酒飲みなんだけど、酔っ払いではない。ご飯もまともに食べています。

まあでも、普通の人かって云うと、普通じゃあないですね(笑)。
全共闘のことはよく知らないけれど、戦後の歴史の中では異彩を放っている事象だという印象があります。
そう遠くない時代に、本気で革命を夢見ていた人々が、この日本にいたというのは、それこそ夢物語のように思えます。
しかし、多くの運動家たちは、世界を変えられなかったという挫折感を抱いたまま、何事もなかったかのようにカタギに戻って(あるいはそういうのを転向と云うのだろうか)、”平凡だけど幸せな”生活を送っているのかも知れません。
そんな中で、カサギさんは未だに革命家なのですよ。ただの酒飲みじゃないんですよ(笑)。
この宿も、サパティスタ(※インディヘナの権利回復を訴えるゲリラ集団)に共感したカサギさんが、その本拠地であるチヤパス州で、彼らのために何か出来ることはないかと考え、日本人旅行者にサパティスタのことをもっと知ってもらおうという理由でオープンしたのだそうです。
悪く云えば、理想家なのかも知れない。でも、一貫した生き方をしているなあとは思う。それは、いいか悪いかではなく、単純にすごいことだと思う。
この人が、うちの父親と1つ違いなんて、どうしても信じられない。そう云えば、父親から学生運動の話なんていっぺんも聞いたことないな。何やってたんだろ?(笑)

お正月は、朝からお雑煮もどき(何故もどきかと云うと、餅ではなく水団だったから)を食したのち、宿から一歩も出ずに過ごしてしまいました。それも、わたしだけではなく、「やっぱり日本の正月は寝正月でしょ」ってことで宿にいる誰1人として外に出ていなかったわ(笑)。さすがにお正月はお店も閉まっているので仕方ないのですが、旅人が寝正月してどーすんだ?って話ですね…。

ここに泊っていたアルテサノのMさんも、この日は休業。
アルテサノとは、スペイン語で芸術家とかものを作る人といった意味。あ、女性だとアルテサナになるのか?
彼女は、ここサンクリの民芸品市場で、毎日インディヘナのおばちゃんに混じって、自分で作ったアクセサリーを路上売りしているのですが、お正月ってことで本日はお休み。
しかし、働き者のMさんは、せっせと新作づくりに励んでいました。彼女が作っているのは、主にイロセラードという固めの化繊糸で編んだネックレスやブレスレッド。
よくヒッピーがその辺の道ばたで手作りのアクセサリーを売っているのを見かけますが、今までは「まあ大したもんじゃないだろう」と、まともに見たこともありませんでした。しかし、Mさんの作るアクセサリーは実にセンスがよく、道売りなのがもったいないくらい。わたしも1つ買っちゃいました。本当は3つくらい欲しいのがあったんだけど…。

このMさんの影響で、わたしの前途に、にわかに”手作ラー”への道が開けることになりました。
っても、ちょっとドアを開けたくらいのことなんですが。
もともと、”手に職”でもないけれど、何か作れるようになりたいなあとは思っていたのです。シティのアミーゴにいるときも、わりとたくさんの人が、石を削ったり、アクセサリーを作ったりしていたのを遠目に眺めていて、けっこうウズウズしていました。しかし、怠惰なのと、恐ろしく手先が不器用なのとで(高校の家庭科で、学年で1人だけ赤点を取ったという輝かしい経歴があります♪)、なかなか実行に移せずに時が経ちました。
でも、Mさん曰く「わたしも日本にいるときは全然こんなのやってなかったし、不器用だったけど、出来るようになるもんですよ」とのこと。ホントに?不器用でも大丈夫なの?

…そんなわけで、今すぐにでも材料を揃えたくなったわたしは、やはりMさんに影響されて創作魂に火が点いた(?)Kさん、Hさん、そしてにわかに師匠にされてしまったMさんとともに、アルテサニアグッズの買出しに行くことに。思い立ったが吉日とはまさにその通りなのです。
シティでも、ウルグアイ通りというパーツの卸し屋街のようなところがあって、ちょくちょく覗きに行っていたので、大体どんなものがあるのかは分かります。シティで見て「かわいいなあ」と思っていた絵入りのビーズや、陶器のチェ・ゲバラビーズなどがこちらにも置いてあり、値段も同じ。
12個で100円とかそんなレベルなので、ついあれもこれもと欲しくなってしまいます。そんなに買って、ちゃんと作るんか?!と自分でツッコみたくもなりますが、いやー、パーツを選ぶというのは、その行為だけでもう充分楽しいのです。

とりどりのビーズ。選んでいるだけですっかり出来上がった気分になってしまう(いかんいかん)。

この日仕入れたものは以下の通り。
・ナイロン糸(×2)、色は茶、紫と白のグラデーション
・イロセラード(×1)、色は黒
・木のビーズ(1袋)、色はピンク
・ゲバラビーズ、模様の入ったプラスチックビーズなど(2ダース)
・セロハンテープ

材料を仕入れたあとは、Mさん直々の講習会です。
まずは、最も簡単な編み方、ツイストから。
これ、いっぺん覚えてしまえば本当に楽勝で、何でこんなやり方であんな素敵なものが出来上がるのか?と不思議でなりません。うむ、これなら家庭科赤点でも大丈夫だぞ。
ツイストの応用で、平編みというのもマスターしました。応用なので少しだけややこしいけど、これも簡単。
自分で云うのも何ですが、けっこうきれいに編めているんですよ。で、周りにいる人たちも「初心者とは思えないねー」なんておだてるので、ついうれしくなって(バカだ)、この日は夕食も取らずにせっせとブレスレッドの作成に励んでいました。調子こいて6本も編んでしまった。アルテサノって楽しいねー(笑)。

実は、この買出し&講習のために、サンクリ出発を1日遅らせたわたしなのでした。
出発当日も、バスターミナルに向かう道すがら、パーツの追加買出しに行ってますから(苦笑)。
でも、何かに夢中になるってのはいいもんです。それが、何の役にも立たないブレスレッド作りでも。明日も生きていこうって気持ちになれるから。

そして、パレンケまで来ました。
パレンケはジャングルの中にある小さな町。なので、恐ろしく蒸し暑い。寒いサンクリから来ると、あまりの気温差にぶっ倒れそうになります。
パレンケの見どころは、パレンケ遺跡(そのまんま)。というか、この遺跡がなければ、パレンケに来るツーリストは皆無と云っていいでしょう。
正月のバケーションシーズンとあってか、遺跡は観光客でごった返し、情緒もへったくれもありませんでしたが、どうせもう消化試合だ。とりあえず見られればそれでよし。

パレンケ観光は、わたしにとってメキシコ最後の”仕事”と云ってもよく、これが終わったらすぐにでもグアテマラに入りたいと思っていました。
パレンケから、グアテマラのティカル遺跡へ抜けるコースは旅行者にも人気が高く、パレンケとグアテマラ側のフローレスという町から双方シャトルバスが出ています。大体20ドルくらいと聞いていたのが、今はお正月のシーズンだからかどこも30ドル以上。しかし、自力で乗り継ぎ乗り継ぎで行くとなると、かなり手間だし、金額もどこまで押さえられるか分からない。シャトルバスで行った方がいいと、旅人の誰かも云っていたような…。

どうしたものかと悩みながら町をぶらついていると、サンクリで会ったミデマさんとばったり出くわしました。
遅い昼食をともにしながら、話題になるのはお互いの今後のルート。彼もわたしも、パナマまで行くのがとりあえずのゴールですから、進む道も大体同じです。
わたしが、シャトルバスで行くか否か考えているのだけど、行くなら明日には出たい、という話をすると、
「うーん…ツアーバスは確かにラクだけど、自力でだって行く方法はあるはずだよ。その方が冒険的で楽しいんじゃない?」
とミデマさんは云いました。
何でも、国境に向かう道すがら、ボナンパック遺跡というのがあり、どうせ途中にあるものなんだし見て行きたい、でもシャトルバスだとダイレクトにフローレスまで行ってしまうから見られない…というのがミデマさんの意見。

一緒に行こうよ、と彼は云います。
ボナンパックに行く途中には、マヤの先住民の村もあり、そこでホームステイしたという話を、2人ともグアナファトの宿の情報ノートで読んでいました。わたしは遺跡はどっちでもよかったけれど、その村には興味を惹かれていました。それに、バックパッカーの基本姿勢として、ツアーに頼らず自力で行ける方法を考えるべきなのではないかという気持ちも。
自力で行くのをためらっているのは、メキシコペソがギリギリしかないということもありました。それをミデマさんに告げると、自分はまだペソがたくさんあるから、もし足りなくなったらそこでドルと両替してくれればいい、と云ってくれるのですが…。

わたしは旅に疲れているのかも知れない。冒険心や好奇心といったものが、摩滅しているのかも知れない。
それは旅人として、一番悲しいことだと思う。
でも、ラクしてでも何でも、メキシコを出たい。前に進みたい。1日でも、1秒でも早く。
たとえこの先の旅が消化試合でしかなく、旅が何も与えてくれなくても、わたしはもうこの旅をやめることは出来ない。後戻りも、中断も出来ないんだ。進むこと自体が、旅を続ける理由なんだ。

一緒に行けたらよかったんだけど…と、寂しそうな顔でつぶやくミデマさんに、またどこかで会えるよ、とわたしは答え、欧米式に抱き合ってお別れしました。
長身のミデマさんの後姿を見送りながら、ああ、これでついにメキシコともさよならなんだ…と思いました。
死者の日のために、南米旅行を切り上げてやって来たメキシコ。シティの空港に着いていきなり野宿した夜。あのときのことを思い出すと、ずいぶん遠い日のことのように思える。その間、一体どれだけのことが起こっただろうか…。数え切れないほどの出会いと思い出。この旅で、一番長く居座った国。

でも、もう明日の今ごろはグアテマラだ。
なかなか出られなかったメキシコなのに、いざチケットを買ってしまえば、そんなに早く簡単に、国境を越えて新しい国に入れるんだ。簡単なことだったんだ。
そう思うと、何だか胸がすっとしました。
グアテマラ、この先の中米諸国。何も待っていないかも知れないし、何かまた意外なことが起こるかも知れない(強盗関係は勘弁だが)。とにかく明日になれば、わたしはグアテマラにいるのです。

PALENQUE24.JPG - 21,546BYTES パレンケ遺跡の象徴・”碑文のピラミッド”。

(2004年1月4日 パレンケ)

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