旅先風信77「ボリビア・パラグアイ」


先風信 vol.77

 


 

**アスンシオンまでの長い道**

 

一時的だったとは云え、旅の道連れと分かれて1人になったことに、わたしは少なからぬ寂寥感を覚えていました。
これからは―と云っても元に戻るだけの話なんだけど―食事も1人、観光も移動も1人。話したり、相談したりする相手もいないんだ。「どうします?」といちいち聞くのは少し面倒ではあるけれど、いざ離れてみると、1人で何でも決められる―決めなくてはならない―ことに、解放感よりも味気なさを覚えるばかりです。

スクレ行きの夜行バスは、筆舌に尽くしがたいほどの極寒で、あやうく凍死しかけるところでした。1人になって早々これですから、弱音のひとつやふたつ、吐きたくもなるってもんです。

バスの中で、別れの感傷に浸っていたのは、ごくわずかな時間のことでした。
初めの内こそ大して感じませんでしたが、夜がふけるにつれ、寒さはみるみる増していきます。ありったけの服を着込んでいるものの、とてもとても足りません。
それでも何とかウトウトしかけていた夜中2時、バスは経由地ポトシに到着。半数以上の乗客が降りて行きました。それはいいのですが、バスは何故か停車したまま。待てど暮らせど動く気配はありません。
何?このバスここ止まりなの?と不安になりつつも、やはり10人くらいはバスの中に居残っているので彼らの1人に聞いたところ、「6時過ぎになったら、スクレ行きのバスに乗り換えなくてはいけないのだが、それまではここで待機だ」とのこと。
待機???待機ってアンタ、すっげー寒いよここ?しかも、乗り換えって、何でわざわざ?このバス、スクレ行じゃなかったのかよーーー!?

バス内は、乗客の減ったせいか、ますます気温が下がっていくようでした。
寒い。本当に寒い。本当に本当に寒い。本当に本当に本当に寒い。
身体中がムズムズするほど寒い。絶叫したくなるほど寒い。死んだ方がマシだと思うくらい、とにかく寒い。
膝を折り曲げてだんご虫のような姿勢になって寒さを凌いでいましたが、我ながら「何て惨めな格好なんだ…」と、思わず涙が出てきました。
こんな格好したって、特に温かくなるわけでもなく、何度も姿勢を変えながら、やはり1ミリも温かくならないことに気づき、惨めな気持ちはどんどん増していきます。

カイロなども取り出してみますが、こんなものでは全くダメ。もはや身体が芯まで凍りきって、ちょっとやそっとじゃ体温は回復しそうにありません。時計をちらっと見ると、まだ3時…。あと3時間もこのままここで待てと云うのか…。
これって、人間扱いされてなくない?こんなところで、もちろん暖房とか毛布とかなしで、バスが来るのを待てっていうわけ?お金払って、何でこんな思いしなきゃなんないの?…何だか、アウシュビッツ行きの列車にでも乗っているような気分でした。

せめて、こんなとき、寝袋があればいいのに…と、思い出すのは、一時帰国の際のロストバゲージした寝袋のこと。
帰国の数週間前に、ギリシャのテッサロニキで買ったものでした。値段のわりにしっかりしていて、これからの旅のお供に…と思っていた矢先、あっさりロストバゲージ。問い合わせも頼みましたが、見つからず、紛失証明書のみ発行され「あとはご自身で入っている保険会社に請求して下さい」。
そのときは大人しくそのようにしました。もちろん、値段もちょっとだけ上乗せして請求しました。
しかし今、そのやり取りを思い出して、わたしは怒りに打ち震えました。あの寝袋さえあれば、今こんなところで涙が出るほどの寒さを味わうこともなかった…そして、ロストバゲージした非はどー考えても航空会社(ちなみにKLM)にあるのに、ほとんど無責任で請求は自分の保険会社にしろだなんて、ちょっとナメてんのとちゃうんか?あれからずっと、安くて小さな寝袋を探しているのに、今に至るまで見つからず、そしてわたしは今ここで凍死しかかっているのだ…。

寒さのあまり、ウトウトしかかってもすぐに目が覚め、また凍えながら何とか眠ろうとする…その繰り返しの、地獄のような夜でした。
それでも、明けない夜はないらしく、空は白み始め、われわれ乗客はスクレ行きのバスに移動しました。もちろん、早朝のことですから寒さは変わらず、重い荷物を自分で担いでバスを引越しせねばならない理不尽には、またしても涙が出そうになりましたが。

そんな長い夜を経て、やっとのことでスクレに到着し、早速パラグアイ行きのバスを探したところ、これだけたくさんバス会社があるのに「パラグアイ?サンタ・クルスまで行かなければバスはない」と云うではありませんか。
ちょ、ちょっと待ってくれ、サンタ・クルスって、ここからどんだけ離れてると思ってんの?バスで16時間だよ?何でそんな辺境の地(ではなくて、ボリビア第2の街なんですが)にバスがあって、首都スクレからは出てないワケ?
少なくとも地図上では、スクレから入った方が近いように思えますが、道がないということなのでしょうか…。仕方ないので、この日の夜行バスでサンタクルスに行くことにしました。スクレでは、スーラを拾った韓国人の写真屋さんに荷物を預かってもらって(スーラがハングルでメッセージを書いてくれたのだ。感謝!)、忙しく観光に明け暮れていました。

SUCRE2.JPG - 20,690BYTES スクレ郊外にある謎の城(スーラに教えてもらった)の内部。ビッグ・ベンとアラブ風ミナレットとビザンチン風の塔が並んで建っている、実にヘンな城だった。

サンタ・クルスは、ウユニやポトシと同じボリビアとは思えないほど暖かく、いやむしろ暑いと云ってもいいくらいの気候でした。暖かい気候に飢えていたわたしは、それだけでも来た価値があった、とすら思えるほどでした。
最も、朝から、パラグアイ行きのバスチケットを買うのに、バス会社と1時間くらい揉め(一度、ホテル代と込みで○○ドルと云われて手を打ち、そいつの案内するホテルについて行ったところ、ホテル代の半分はお前が出せなどと云い出し、約束が違うと云い返すと、そいつは突然キレて、いきなり立ち去って行ったんだよ!ふざけんなっつーの)、やっとのことでちょっと安いチケットを入手し、セントロに着いた頃にはもう正午…てなことを相変わらずやっていましたが…。

とりあえず、有名な「キボン」のアイスを食べに行き、ついでに「けんの店」という日本人経営のレストランに行こうとしたら、ガイドブックに「日曜休」との記述が…ついてない。
代わりに、「スーパーオキナワ」という、どう見ても日本人経営らしいスーパーに行ったところ、わかめやら春雨やら、もちろんしょうゆ、みりんなど、日本食がずらり。高いので買いませんでしたが、見ているだけで何だか幸せな気分になります。日本人なんだよねー。

サンタクルスの公園にある、ヘンな電話ボックス。

せっかくサンタ・クルスまで来たのだから、と、わたしは、ふとある場所を思い出して、行ってみることにしました。
その場所、コロニア・オキナワは、Gさんがラ・パスにいたとき、「サンタ・クルスにオキナワっていう地名の日本人居留地があるんだけど、オキナワって名前がちゃんとボリビアの地名になってるなんてすごいよね。行ってみたいなあ」と話していた場所でした。そのクセ、ラ・パスからバスで22時間かかると聞いて、あっさりやめてしまったワケですが(笑)、わたしの方がここに来ることになるなんて、思ってもみませんでした。

オキナワは、サンタ・クルスの近郊にあるのかと思いきや、バスで2時間以上かかる場所にありました。
2本ほどバスを乗り継いで行くのですが、乗り換えのとき、ミニバスに「OKINAWA(行き)」と書いてあるのが妙に新鮮に映りました。
風景は、ウユニあたりで見ていたひたすら続く砂地とは一変し、同じボリビアかと疑いたくなるほど緑豊かな田園地帯が広がっています。そうか、もうこの辺りはアマゾンに近い、ジャングル地帯なのだなあ…と実感。
コロニアオキナワは、そんな田園地帯の中にあります。セントロと云うのも戸惑うほど静かな通りに入ると、左手にコロニアオキナワ日本ボリビア協会(略して日ボ協会)と書かれた大きな、しかし簡素なゲートが立っています。ここが、コロニアオキナワ第一移住地です(※オキナワは第3移住地まである)。

オキナワへようこそ。

とりあえず、お腹がすいたので、インフォメーションらしき建物で聞いて、ペンション比嘉という食堂に行ってみました。
比嘉、という名前からしていかにもオキナワらしく、ソーキそばとかゴーヤチャンプルなんか食べられるかも…と淡い期待を抱くも、出て来たのはでっかいトンカツのような揚げ物でした。
食堂にいるのはほとんどボリビア人でしたが、2人ほど、日本人ぽい顔をした男性がいて、「ああ、この人たちが日系2世なのかな…」と考えていると、先に向うから「旅行者の方ですか?」と話しかけてくれました。

その内の1人、Oさんは、在住日系人ではなく、コロニアオキナワ50周年の記念誌編纂のため(来年が移住50周年なのです)、日ボ協会に雇われて日本から来た人でした。
彼は、町や日ボ会館を案内してくれたあと、車でも少し遠出してくれました。車窓から見るオキナワは、開墾された緑の田畑がどこまでもどこまでも広がっていて、日本の田舎にやって来たような錯覚を覚えるのでした。
日ボ協会の副会長というおじさんに「わたしウユニから来たんですけど、ここ、同じボリビア国内とは思えないですねえ」と云うと、「あんな砂地だけがボリビアと思っちゃ困るよ。こっちが本当のボリビアなんだよ」と答えていたのが興味深かったですね。

ここの歴史や背景について、パンフレットからの抜書きで説明しますと、第二次世界大戦前からボリビアに入植していた日本人たちが、戦争で廃墟と化した沖縄を救援する活動の一環として計画されたのがコロニアオキナワでした。
移住が始まったのは1954年、それから90年代に至るまで移住は続き、現在は230世帯、870名前後がここで暮らしています。当初は原生林だったこの地ですが、日系人たちの手で何十年もかけて開拓してきた結果、現在ではボリビア国内の模範的な農村地域として称えられるまでになりました。おしまい。

日系人というのは不思議な存在ですよね。
何百年もずっと鎖国を続けてきたせいか、今でもどこか世界から浮いた感のあるわが国日本。日本人たちは、何だかんだ文句を云っても心の中では「住むなら日本が一番」と思っているだろうし、旅していても、「日本ってどっかやっぱり閉鎖的なんだよなあ…」と思うこともしばしばです。
だから、たかだか何十年前というそう遠くない昔に、自ら異国の地(それも日本の裏側!)に移り住んで、そこで根を張って生きていこうと決心した人たちがいたという事実には、身体が震えるような驚きを覚えるのです。日本人にもフロンティア精神ってものがあって、今の日本人が知らないような国(旅にでも出なければボリビアなんて何処?それ国?って感じだよねえ)の国民になって暮らしていて、でもやっぱり日本人のココロってのは忘れていなくて、ちゃんと日本語も勉強していて、南米各地に暮らす日系人の集まるスポーツ大会なんかもあって…ああ、何だかすごいなあ。

でも、日本に暮らす日本人の大半は、そんな人たちの存在なんてほとんど知らないわけでして(わたしも知らなかった)、それはちょっと寂しい話だなあ、と思いますね。そんな中でも、皇室はしっかり訪問していて、日ボ会館の庭には、サーヤ(紀宮さま)来訪の記念樹が植えられていました。
一般日本人が、日系人の存在を認識したのって、アルベルト・フジモリが、ペルーの大統領になったときくらいじゃないかしら?あのときはわたしも、「へえー、日本人の子孫が、日本人の顔して日本の苗字を持つ人が、南米の国の大統領だなんてねえー」とやはり驚いたものでした。

帰り際、ゲートボールをする日系人のおじいちゃんたちを見て、やっぱり不思議な気分になりながら、わたしはオキナワを後にしたのでした。聞けば、次の目的地パラグアイは、ここよりももっと大きな日系人社会があるそうです。そして、その先のブラジルには、有名なサンパウロの日本人街。何やら楽しみになってきました。

OKINAWA11.JPG - 19,695BYTES ゲートボールに興じる日系一世のおじいちゃんたち。どー見ても日本の風景(笑)。

サンタ・クルス近郊には、もうひとつ、コロニア・サンファンという日本人居留地があり、そこは九州出身者が多いということで、何と長崎ちゃんぽんを出す食堂があると聞いていたのですが、時間がなくて断念。残念。

ここからいよいよパラグアイの首都アスンシオンに向かいます。本当なら、とっくに到着しているハズだったのによー…。
30時間かかると聞いて、乗る前からげんなりしていましたが、一応食事も付いているのでそれなりに快適ではあるのだろうと、自分を慰めながら乗り込みます。

しかし、30時間の移動というのは、当然ながら、おっそろしくヒマなものです。
車内では映画の上映があるので、それを何となく観ているものの…。
バスはずっと未舗装の道を走っているらしく、絶えず揺れ続けているので、書き物も出来ませんし、本も持っていないし…。
また、車窓風景が見事なほどずーーーっと同じ!テープ巻き戻したんか?っていうくらい同じ。木と草原。終了。ここまで変化のない風景も珍しい。家らしき家もほとんど見なかった気がするなあ…。
救いがあるとしたら、ウユニ→スクレ間のバスと違って暖かいこと。気がつくとウトウトしており、大半の時間は泥のように眠りこけていました。あとは、出される食事だけが唯一の楽しみ(と云っても大したものは出ない)。
そう云えば、香港のカレン・モク主演らしい、女性もののアクション映画を観たのですが、あれは何という映画なのか気になります。カレン・モクとスー・チーともう1人、ゴマキとあゆを足して2で割ったような美少女が主役で出ていました。『チャーリーズ・エンジェル』じゃないけれど、腕っ節のいい女の子が出てくる映画は観ていて気持ちがいいもんですね。

この間、とっくにボリビア⇔パラグアイ国境は越えているのですが、パラグアイのイミグレーションは、何と国境を越えてから10時間以上走った砂漠みたいなところにあるのでした。何故国境にイミグレがないのか、そして、こんな辺鄙なイミグレなのに、荷物チェックがやたら厳しいのも謎。とっくに国境越えてんのに、今さら入念な荷物チェックをしてどうするのやら。これで引っかかって国外退去とかになったら、どーやって戻るんだろう???

…そうしてようやく、アスンシオンに着いたのはいいのですが、時刻は何と、夜中の2時30分!
ウユニからのバスもそうでしたが、何故ボリビアのバスはこうも人をナメた時間に到着するのでしょうか?!
一応バスターミナルで雨風は凌げるというものの…。こんな時間に見知らぬ国にホッポリ出される旅行者の身にもなってくれ!!!

全く、さすがはボリビアです。最後までやってくれます。
そう云えば、前々回、大事な(?)ことを書き忘れていました。TOYOTAならぬTOYOSAの車や、TOSHIBAならぬPANASHIBAの電池のことはご紹介しましたが、ボリビア最大(?)のヒット商品は、やはりこちら↓
”POLY STATION”(ポリーステーション)。…何のパクリかもうお分かりですね。プレステです。プレステならぬポリステなのです(笑)。
しかもこのゲーム機、一見あの形なのですが、円形の部分(CDを入れる部分)を開けると、何とそこには懐かしのファミコンカセットの端末が…CDちゃうんかい!あ、そっか、プレステじゃなくて、ポリステだもんね。これがポリステオリジナル。そして、ポリステ用のカセットは、何と”80in1”などと書いてある。80種類のゲームが1つのカセットに!ホンマかいな!?

ともかく、一刻も早く「ホテル内山田」に行きたい。
ホテル内山田とは、アスンシオンにある日本人経営のビジネスホテルで、安宿でもパッカー宿でもありません。しかし、バスタブ付、和食の朝食付、さらにインターネット無料という素晴らしい環境で1泊10ドルという魅力的なお値段、もちろん普段泊っている宿よりは高いのですが、1泊くらいしてもバチは当たらんだろう、と前々から目をつけていたのでした。しかも、30時間のバス旅の後とあっては、これくらいの贅沢はして当然。さらにウユニからの極寒バスなど、これまでの過酷な移動を考えれば、これは泊らない方がおかしい。

と、何やらむちゃくちゃなことを云ってますが、ウユニを出た辺りから、わたしの目標は「ホテル内山田」、と云うかそこにあるバスタブでした。この数日、バスタブに浸かることだけを夢見て(?)移動に明け暮れていたのです。
しかし、時刻はまだ夜中の3時前。タクシーくらいは走っているのでしょうが、パラグアイのお金を全く持っておらず、カンビオ(両替屋)もトーゼン閉まっているため、身動きが取れません。仕方なく、バックパックを抱えたまま、ベンチで眠ることにしました。バスの中であれだけ眠ったにもかかわらず、また椅子が固いにもかかわらず、空が明るくなるまでそのまま眠りこけていました。

朝7時過ぎになり、5ドルほど両替もして、いよいよ内山田へ移動です。
さくっとタクシーで行きたいところですが、値段を聞けば3ドルくらいするというのであっさりあきらめ、朝のラッシュで満員すし詰めのローカルバスに20分近く揺られて行くことに。
降りてからも、人に聞きながら10分ほど歩くと……あった。「ホテル内山田」って、日本語で書いてあるよ!

チェックインし、部屋に入った瞬間、あまりの嬉しさと安堵に、「ゴールだ〜〜〜っ!」と(小さく)叫んで、ガッツポーズまで決めてしまいました。
そして、嗚呼、ウワサに聞いていたバスタブが、目の前にあるではないですか…。迷うことなく蛇口をひねって、お湯をためました。もちろんばっちり熱いお湯。もうすぐバスタブに浸かれるのね…夢にまで見たバスタブに…。
置いてあった週刊誌を読みながら、お湯のたまるのを待つこと10分。誰も見ていないのをいいことに、服を脱ぎ散らかしてバスタブに飛び込みました。
この時の感動と云ったら…もしかするとマチュピチュを見たときより感動したかも知れない(笑)。さすがに涙は流さないまでも、心身ともに安心感で蕩けそうでした。よくよく考えたら、日本では毎日のように、当たり前に入っていたバスタブ。それが、旅に出てからは、バスタブに浸かったのは、アジスアベバ(エチオピア)の温泉くらいでしたから…。

しずかちゃんなみに長風呂した後は、冷房の効いた部屋でしばらく週刊誌読み漁り大会(参加者1名)。
旅に出てから、すっかり週刊誌中毒になっているなあわたし…。
女の子のグラビアオンリーの『フライデー』増刊号すら、隅から隅まで読んでしまいました。長谷川京子って可愛いなあ、とかどうでもいいことをつぶやきながら。オッサンですな…。
またここ、ネット無料かつ日本語OKってことで、久々のネットライフ満喫。目、血走るくらい満喫。
タダなので、迷惑メールが満載でも、今日は気にならない!どーぞどーぞ、いくらでも送ってくりゃいいっすよ!(ウソ)

午前中はこのようにして、ホテルから一歩も出ずに過ごしてしまいましたが、さすがに気が引けて、アスンシオンの街を散策することにしました。
が、この街って、本当に見るとこないんだよねー(笑)。ラ・パスもそうだったけれど、こっちの方がさらに見どころなくって、さらに情報もないので、おかげさまで頑張る必要もなく、ただただプラプラしていただけでした。
それに、「何か、向うの方に川が見えるなあ…」と、特に何も考えずにその方向へ歩いていたところ、地元のおねーちゃんから「どこ行くの?あっちの方は危ないよ。荷物引ったくられちゃうよ」と忠告を受け、慌てて引き返したこともありました。初めての、しかもガイドブックもない土地では、むやみに散歩するのも考えものということで、あまり遠くまでは行けません。

パラグアイ国旗を売る?おっさん。

治安がいいのか悪いのかもよく分からないため、夕食を食べに出るのもそれなりの覚悟で臨まなくてはなりません。田舎首都とは云え(失礼)、都会は都会。人気のない道などはやはり怖いものです。
こういうとき、連れが居ればなあ…ってまた、云っても仕方のないことを思いますね。1人というのはどうしても立場が弱いです。
ちなみに今日の夕食は、セビッチェでした。セビッチェというのは、ペルー名物の魚介料理なんですが、ペルーで食べ逃してしまい、何故かパラグアイで初賞味ということに(笑)。酢の酸味がビールとよく合って、とても美味しかったです。

(2003年8月14日 アスンシオン)

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