旅先風信76「ボリビア」


先風信 vol.76

 


 

**旅をする人**

 

ラ・パスのバスターミナルで別れるはずだったGさんとは、その後数日、またしばらく行動をともにすることになるのでした。

というのも、わたしが乗るはずだったウユニに行くバスが、夕方5時と聞いていたのに3時で終了しており、またGさんの方は目的地スクレ行きのバスが、その下のポトシ経由で遠回りになると分かって急にやる気がなくなり、それではというので2人ともポトシに向かうことになったのです。

ポトシは鉱山のある小さな田舎町ですが、何気に”世界最高所にある町”というギネス記録を持つ町でもあります。4200メートルとかそんな感じ。
ここでツーリストに人気を博しているのが、鉱山内を巡る探検ツアー。
朝、凍えながら(ラ・パスどころの話ではなく、本当に極寒なのです)とりあえずホテルにチェックインしたあとは、すぐさまツアー会社探しです。そして、その朝の内にツアーに参加することに。ラ・パスでだらだらしていたとは思えない行動の早さだわね(笑)。

鉱山ツアーは、上下作業着、ヘルメット、長靴、ヘッドライトという重装備で臨みます。
途中、鉱夫たちへのおみやげに、コカの葉やタバコ、ジュース、ダイナマイトなどを買い込んで行きます。ダイナマイトだなんて何やら物騒ですが、これは彼らの仕事に使うもの。
そしていよいよ入山。トンネルのような入り口から、トロッコを引くためのレールが奥の方まで延びており、それに沿って歩いていくのですが、足場が湿っており、何度も足を滑らせました。しかも、みんな歩くの速いし!こ、これは、思ったよりハードなツアーなのでは…。

鉱山入り口。

狭く、暗く、埃の舞う道を、ひたすら歩いていきます。
時々、トロッコを押す鉱夫とすれ違ったり、ダイナマイトを岩に埋め込んだりドリルで穴を開ける作業現場に行き当たります。ガイドは、新しい鉱夫に会うたびに、サンタクロースの如く、ズタ袋に入れたおみやげを手渡していきます。
そのような感じで、淡々とツアーは進んでいくのですが、あまりに埃っぽい空気とドリルなどの爆音に、頭がモーローとし、けっこうな体力を消耗しました。

…ていうか、この人たち(鉱夫)、めちゃくちゃ過酷な労働してない?
だって、ここの環境を簡単に云うと、閉所、暗闇、騒音、空気悪、危険(爆破や土砂崩れ)。いろんな災害がこの鉱山の中に凝縮されている感じなのです。
当然、早死にする人が多くて、ひどい場合は、ここで働き始めて1年くらいで死んでしまう人もいるとか…。彼らの賃金は、多い人で月130ドル。ボリビアの平均収入からすると多少はよいのでしょうが…でも、文字通り、命削って働いているんだよな…。
「俺はここでは働けない…悪いけど…」Gさんがぽつりと云いました。わたしも同感でした。

ガイドが、突然わたしたちのヘッドライトの灯りを切って「ここで一番必要なものは何か?ヘルメットか?長靴か?」と尋ねました。ヘッドライトのなくなったわたしたちの視界は、見事なほど真っ暗でした。目もなかなか慣れないのか、いつまで経っても、何かの輪郭すら見えてきません。これが、彼らの世界…。
約3時間後、ツアーが終わって外に出たときの太陽のまぶしさと云ったらありません。しばらく目が痛くて開けられないほどでした。
ギリシャでのビーチライフじゃないけれど、やっぱり人間には光が必要なんだと思いました。光の全く届かないところでずっと過酷な労働していたら、そりゃ生命力も弱って早死にするってもんです。でも、それでも彼らはここで働き続けるのですね…。

POTOSI1.JPG - 20,357BYTES かなりいい味出してる鉱夫のおっちゃん。ザ・男!って感じ。

ポトシからウユニまでは通常6時間ほどですが、ほぼその日1日を費やしての移動。
ウユニは、ポトシの寒さをさらに上回るとんでもない極寒で、辺境の田舎町特有のうら寂しさと相まって、身だけでなく心まで寒くなるような町でした。
貧乏なわれわれは、白人ツーリストがたむろする暖房の効いたレストランには入れないので、地元民のためのメルカドで食事。隙間風がぴゅーぴゅー入ってきて、哀しくなるほど寒かった。。。

ウユニ最大のイベント・塩湖ツアーは「当日の朝、ツアーが出る1時間前くらいがディスカウントの狙い目」と色んな人から聞いていたので、着いた日はあえて探さず、翌朝に賭けることにしました。
で、翌朝、これまたあまりの寒さに驚愕したわれわれは、ツアーを探す前に手袋を探しに行きました。しかし、これが誤算だった。手袋は全く値切りがきかず、店のおばはんも愛想ゼロで「くっそー、これだからボリビアは発展しないんだよ!この社会主義国め!」などと悪態つきながら帰って来ると、まず、目をつけていたツアー会社が「フル」。
まあしかし、ツアー会社は山ほどあるし、とタカを括って、とにかく片っ端から当たってみるのですが、われわれの希望する「1日ツアー」がなかったり、あっても全く値切れなかったりで、とりつく島がありません。

1軒、どうやらあと2人揃えばツアーが催行されそうな雰囲気の会社がありました。
2人といったら、われわれが入ればOKなワケです。しかしわれわれは、ディスカウント価格でなければ行きたくないので、「15ドルにしてくれ(張り紙には20ドルと書いてある)」と何度も交渉するのですが、ここのおばはんがまたチョー頑固者でして、明日地球が滅亡しても値下げはしない、くらいの勢いで「ノー!」と抜かしやがる。
そして、あと2人の確保のため、あちこちのツアー会社に電話をかけまくり、自らも町をウロついてツーリストを探しまくるという、ホンマエエ加減にせえよ!と云いたくなるような行動を1時間以上も繰り返しているのです。

そもそも、大人しく20ドル払って参加した旅行者など、少なくともわれわれの知り合いにはいないのでして、少なくとも15ドルまでは値切れるハズなのです。それが、このババアは…。最近めっきり温厚になった(?)わたしも、何度もブチ切れそうになりました。1人だったら間違いなくキレていただろう…。
しかし、ババアも頑固なら、われわれも相当頑固者。20ドルだったら絶対参加しない、と決意し、結局この日はツアー参加を見送ることに…。1泊して、明日もう一度臨むことにしたのです。それ、宿代とか考えたら、何もトクしてへんやん!…って、全くその通りなんですが、これはもう、貧乏パッカーの意地、ってやつでして。

そういうわけで、何もやることがなくなったわれわれは、とりあえず昼ご飯を食べ、しょうゆさしコーヒーで一服し、「チケットでも買いに行くか…」ということになったのでした。
チケット。そう、わたしとGさんは、ウユニで今度こそルートが分かれるのです。
彼は列車でアルゼンチンへ、わたしはバスでパラグアイへ。

Gさんが列車のチケットを買っている間、「ああ、ついに分かれるんだなあ…」とぼんやり考えました。
そして、これから旅先で二度と会うことはないのだろうな…と。
南に向かう彼と、北に向かうわたし。その後も、彼はアフリカ、わたしは中米と、もうどんなことがあってもルートが重なることはないでしょう。
旅先で二度と会うことがない人なんて、いくらでもいます。あれだけ思い入れのあるテレサのメンバーだって、再会したのはアクセルだけ。この広い世界を旅していたら、まあそれが当たり前です。

それにしても、1人の人と、ここまで行動を共にしたというのは、中東での”彼女”以来です…と、ブエノスの回でもTくんのことをそう書きましたが、彼の場合は行動を共にしたというより、たまたまルートが一緒だったということで、ちょっと違う気がします。
Gさんとは、ご飯はほぼ一緒に食べていたし、ヒマなときはメルカドやらカフェやらでお茶していたし、かなりの時間と行動を共にしていました。たった10日あまり、と云われればそうなんですが、旅の間の1日というのは、日本で普通に過ごす1日よりも濃いもの(旅を人生に例えるなら、まさにその通りではありませんか?)。
ともかく、一緒に行動することが、少しだけ当たり前になっていた昨今でした。その彼と離れるというのは、大げさですが、何かを削り取られるような気分でした。

1年以上も旅してきて、多くの人と出会い、別れるを繰り返してきたわたしなのに、どうしてこうも、毎回毎回別れに対して過剰にセンチメンタルになってしまうのでしょう?すべての出会いは単なる偶然にすぎない、と割り切れることができればいいのですが、わたしはどうしても、偶然ではなく、何か計り知れない力が働いているのだ、なんて思ってしまいます。
昔、かのドイツのKさんが、メールで書き送ってくれたことがありました。
「チェルシーの宣伝で『今までこの地球上に生きた人の数は600億人、そう考えると出会えたことはすごいことだ』みたいなのあったの知りませんか?」って。これ、確かわたしがモロッコでフラ君と会った話を書いたときにもらったメールでしたが、ふと思い出して引用させてもらいました。

その日の夕方、今度はわたしがバスチケットを買う番でした。行き先はスクレ。ボリビアの憲法上の首都です。ウユニからパラグアイに抜けるバスは存在しないため、スクレくらいの大きな街に行けばバスもあるだろう…という判断からでした。
チケットを手に入れ、来た道を戻ろうとしていたそのとき、誰かが背中を叩きました。
振り返ってみると、「…スーラ!何で?何でこんなとこにいるの!?」わたしもGさんも本気でビックリ。
そう。ラ・パスをひと足先に出て、スクレ→ポトシ→ウユニと回っているはずの韓国人パッカー・スーラは、彼の移動の早さから考えて、本来ならばとっくにチリにでも抜けているはずでした。
聞けば、スクレに4日間いたらしく「何で?スクレなんて、そんなに見るとこないでしょ?」と問うと、「在住の韓国人に会って、家に泊めてもらってたんだ。毎日キムチ食えてサイコーだったよ」とのこと。なるほど…ちょっとうらやましいぞ!
「とりあえず、夕食にでも行きますか」

夕食は、もう何連チャンかと思うくらいの「ポヨ」(スペイン語でチキンのこと)を食した後、あんまりにも寒いので、白人ツーリストでいっぱいになっている高そうなレストランへ、飲み物だけのつもりで入りました。
ここがまあ、暖かいの何のって!白人なんか、Tシャツ1枚になってやがる!道理で、窓に水滴がついていると思った!(※昨日は外から見て「水滴ついてるよこの窓…さぞあったかいんだろーねー」とつぶやきながら通り過ぎたのだった)

またぞろビールを注文し、暖かいテーブルでほくほくと、ほろ酔い加減で話をしました。
スーラが「明日で君とGさんもお別れだ。また1人になるね。寂しい?」と聞くので、ここで寂しいなんて云ったら2人ともにあらぬ誤解をされてしまう、とどーでもいいことが気になって(本当にどーでもいい)、
「今までは1人で旅してたんだから、元に戻るだけじゃん。1人には慣れてるもん」と実に可愛げのない返事をしてしまいました。でも、どちらかと云うとこれは、自分に云い聞かせているつもりでした。
その後、何を話していたか、あまり覚えていません。また酔っていたのでしょう(苦笑)。最後にスーラが「2人の(各々の)写真をスクレで焼いたのがあるから、明日そっちのホテルに届けるよ」と云って、その晩は別れました。

翌朝、シャワーを浴びて部屋に戻って来ると、ドアの前に写真が2枚、セロテープで留められていました。
昨日スーラが云っていた写真でした。1枚はわたしの顔のアップ、もうひとつは赤い滑り台が写った、どこかの公園の写真。
裏を見ると、英語でメッセージが書かれていました。
「初めて君に会ったとき、君も僕と同じように、1人を楽しんでいる人なんだと思った。でも、人は、1人で生きていくものじゃない…」
何てベタなことを云うのだろう…とヒネくれたことは、珍しく思わない代わりに、朝っぱらから涙がどっと出て来ました。
彼が撮ったわたしの写真は、自分で云うのも何ですが、実によく撮れていました。写真の中のわたしは、いつになく満面の笑みを浮かべていました。ラ・パスで一緒にビールを飲んでいたときのものでしょう。いつの間に撮ったんだ…。
「keep your smile, like this picture.」
メッセージの最後には、そう書かれていました。

わたしは1人泣きながら、「でもねスーラ、人は1人では生きられないけれど、1人で生きていくしかないんだよ。死ぬときは1人だし、今だってわたしたちは1人で旅をしているんじゃないの」と思いました。
1人では生きられない。でも1人で生きていくしかない。この矛盾は、ことある毎にわたしを苦しめます。誰かに助けてもらったり、親切にしてもらったり、仲良くなったりする。その瞬間は幸福だけれど、その人が自分にとって何か特別な存在のように思い始めた頃、やっぱり他人なんだと思い知らされることになる。その繰り返し。
そんなことなら、いっそ完全に1人で生きていければ、完全に自足して生きていければいいのに、と思うけれど、それもムリな話。山に篭って仙人みたいな生活でもしない限りは、学校やら家庭やら社内の人間関係の中で生きなければいけない。わたしの友人に1人、閉鎖的な職場の人間関係のためにノイローゼ気味になり、ずっとクリニックに通っている人がいる。こういうのは理不尽だと思う。いざというときには誰も助けてくれないのに、そんな人たちと”うまくやっていく”だけのために神経を病んでしまうなんて。すべてはバランスの問題なんだと思うけれど、そのバランスを取るのが実は一番難しい作業なわけで…。

1人で旅をしていて、ずっとわたしは思っていました。「自足して生きる方法を考えなければいけない」と。
わたしはもしかすると、誰とも結婚せず、子供も産まずに一生を終えるかも知れません。この歳になると、ぱらぱらと友人連中が結婚していきますが、わたしにはどうしても、結婚というものが、自分から最も遠いところにある何か、としか思えないのです(願望はあるんですけどね)。
父親はおそらくわたしより先に亡くなるでしょうから、いずれ1人で生きねばならない日が来るでしょう。経済的なことはもちろんですが、精神的に、誰にも頼ることなく生きていけるようにならなければ…。
何故1人で旅をしているのか?と人にも聞かれ、また自問自答もするのですが、自由気ままに行動できるという利点以外に、「1人で生きていくための訓練」という側面も少なからずあるような気がしています。毎度ながら大げさな物云いですけど…。

スーラは、わたしたちがツアー待ちしている間、再びホテルを訪ねて来てくれました。
「僕も今日のツアーでチリに行くことにしたよ」とスーラ。
彼ともこれで本当のお別れです。わたしたちは、欧米人ぽく抱き合って別れの挨拶をしました。云いたいことはいろいろあったのですが、口を開くと一緒に涙が出そうだったので、「元気でね。気をつけてね」とだけ云いました。

スーラの後ろ姿を見送りながら、わたしはまた、感傷的な思いにとらわれました。
何故、わたしも、スーラも、Gさんも、こんなに長い間、1人で旅をしているのだろう…。
いつかスーラは云っていました。「一生旅をしたいと思う。でも、自分の子供を肩車して、遊園地に連れて行きたい、っていうのも夢なんだ。どうしたらいいんだろうね」と。まったくベタな男ですが(笑)、わたしにもその気持ちは分かるのです。

そして、塩湖ツアーが始まりました。
ランクルでウユニの町から30分くらい走ると、白い大地が見えてきます。
今は乾季なので、湖の水は完全に干上がり、乾いた塩の大地だけが、えんえんと広がっています。雨季だと、うっすら水が張って、その上を車で走ると鏡のように空が水に映って、この世のものとは思えないほど美しい光景が見られるそうで非常に残念ですが、この360度ひたすら白い大地には、また違ったよさがあります。雪の白とは少し違う、独特の白。それが、5〜6角形にひび割れ、どこまでもどこまでも続いているのです。あ、ちょっとエレメンテイタ湖(※ケニア後編を参照)を思い出すな。あんな風に、身体がずっぽりはまったりはしないけど(苦笑)。

ENKO2.JPG - 15,975BYTES 塩の山々。

塩湖の見どころはいくつかありますが、どのツアーでも必ず行くのが「塩のホテル」と「イソラ・デ・ペスカド(魚の島)」です。
塩のホテルは、文字通り塩で出来ているホテル。壁から家具からすべて塩、というのがウリなのですが、残念ながら、汚水処理の問題が解決せず、今は宿泊はできません。

イソラ・デ・ペスカドは、塩湖ツアーのハイライトと云ってもいいでしょう。
この、そう大きくもない島には、何故かサボテンがみしみしと生えており、島じゅうがサボテンで覆い尽くされているのです。
白い塩の大地の上に、いきなりこの島が現れるのもすごいけれど、サボテンの量がハンパじゃない。それも、どいつもこいつもデカい。トゲが爪楊枝に使えそうだもんな。
サボテンの形がまたシュールで可笑しいので、イヤというほど写真を撮りまくりました。あまりにも写真ポイントが多いため、かえって「わたしとサボテン」のベストショットを何処で撮るか、でかなり頭を悩ませたほどです。いやー、こんな光景は世界中探してもここだけのような気がするな。

PESCADO13.JPG - 27,343BYTES 何じゃココは?!のイソラ・デ・ペスカド。写真見てもよく分かんないよな(笑)。

その後は、えんえんと白い塩の上を走りながら、ウユニに帰るだけです。
白い大地も、30分も見続けたら、ハッキリ云って飽きます。だって、ひたすら白いだけなんだもん!(笑)とか云いながら、何枚も写真撮ってましたけど…。それでも、塩の大地のはるか上空に、昼間の白い月がぼんやり浮かぶさまは、なかなか幻想的でした。

ツアーが終わり、いよいよGさんとも別れるときが来ました。
彼の列車より、わたしのバスの方が先に出発です。夕食を取るにもお茶をするにも中途半端な時間で、その辺でちょこちょこ食べ物やシャンプーなどを買い物しながら、出発までの時間は過ぎていきました。最近は、人に見送られる方が多いなあ…と思いながら、Gさんとともにバス停へ。

別れ際も、特に感傷的な言葉も交わさないまま、わたしはバスに乗り込みましたが、直前に、ちゃっかり用意していた簡単な手紙を渡しました。そして、ちょっとした餞別も同封したのですが、それが何なのかはここでは内緒です(ははは、イヤミったらしい)。ブエノスのTくんのときに引き続き、つくづくキザだなオレ…って感じ(苦笑)。
「また日本で」
「とか云って、もしかしたらバンコクくらいでばったり会うんじゃないの」
それが最後でした。振り返るのが何となく怖くて、そのままわたしはバスの一番奥の座席に引っ込み、二度とGさんの顔を見ることはありませんでした。

バスは満員でしたが、寒いので、隣に座っているインディヘナのおっちゃんの体温すらありがたく感じられました。
灯りもないバスの中、やることもないので、思いきり感傷にひたることにしました。
南米に来て、それまでアフリカなどで仲良くしていた人たちと完全に離れて、日本人宿に行ってすら知らない人ばかりで、もちろんそれはそれで楽しかったけれど、ここはもう、わたしの知らない旅人社会(?)なのだわ…と一抹の寂しさも覚えていました。
だから、クスコでGさんに会い、彼が昔テレサに居て、タケシさんやアクセルを知っていることが分かったときは、本当に嬉しかった。話していくうちに、彼がかなりのヨーロッパ好きであることが分かり、徐々に仲間意識のようなものを抱き始めたのです。そして、ラ・パスで再会し、ケーキを食べまくり(笑)、今に至る…と。

彼は、クスコでは宿の人たちから、「シャアの声に似てるよね」と云われていました。
シャアとは、そう、ガンダムのシャア・アズナブルのことですね。分かる人には分かるはずですが、渋くて男前な声ですよね。「坊やだからさ…」ってやつですよね(笑)。
あのまんまではないけれど、確かにGさんの声はいい声だった。ぶっちゃけ、あの声がもう聞けないのかと思うと、寂しい。別に、ガンダムおたくとかいうわけではなくて。

そのシャアの声で(笑)、いつか彼が話してくれた、「世界で一番美味しい」というバルセロナのピンクシャンパンや、南仏にあるマティスの白い教会や、アムステルダムの美しい運河沿いや、メキシコのバラガンの家と教会etc…未だ続くヨーロッパへの憧れと郷愁と相まって、胸がしめつけられそうでした。懐かしく、大好きなヨーロッパ。そのヨーロッパを同じく愛するGさん。思考はどんどんと、感傷的な方向へ押し流され、涙の一筋も流し…まったく、己の湿っぽさ・ベタさには呆れ返るばかりです。

それでも、ラ・パスでともに聴いていた、スピッツの『スピカ』のメロディを思い出すと、また涙腺が緩んでしまうわたしなのでした。

PESCADO11.JPG - 10,914BYTES イソラ・デ・ペスカドの頂上からウユニ塩湖を臨む。


(2003年8月8日 ウユニ)

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