旅先風信74「ペルー」


先風信 vol.74

 


 

**お楽しみはこれからだ?!(マチュピチュ・チチカカ湖編)**

 

マチュピチュ、という響きに憧れを抱くのは、おそらく旅人だけではないと思います。
インカ帝国の忘れられた空中都市。そのコピーだけでもそそりますが、『世界遺産』辺りのテレビ番組で、その姿を目にしたことのある人は、「何という壮大かつロマンあふれる遺跡だろうか…」と感嘆のため息をついたことでしょう。わたしもご多分にもれません。
そんなマチュピチュへ、ついに行って参りました。

マチュピチュまでの道は、クスコからの直通電車で行くとか、あるいはツアーに参加とかいろいろあるんですが、貧乏パッカーは当然、一番安い方法で行かなくてはなりません。安い、かつ盛りだくさんな内容で。このセコさこそが、バックパッカーの、バックパッカーたるゆえん(ホンマか?)
マチュピチュへは、わたしのほかに、元会社員のMさん(男性)、ワーホリ帰りのKくん、大学生Aちゃんという4人組で繰り出すことになりました。Aちゃんとは途中のオリャンタイタンボで合流で、あとの3人は八幡から一緒です。

というわけで、まず、クスコからローカルバスでチンチェーロという村へ。ここで週2回の市が立っているというので見に行きました。ガイドブックには、「あまりツーリスティックではない、地元民のための市」なんて書いてありますが、商品の7割くらいがお土産物で(笑)、ツーリストも満載でした。小さな村なのに、観光バスが4.5台乗り付けて来てますからねー。
その後、マラスという村にある塩田へ。バスで30分、さらに歩いて1時間弱という遠い道のりでしたが、これは見る価値大!でした。何故ガイドブックに載っていないのか、本当に不思議。塩田、とひと口に云ってしまうとしょぼそうな印象ですけど、とんでもない、塩水の段々畑がかなりの広域にわたってモザイク画のように連なっており、ちょっとやそっとじゃ見られない、圧巻の光景です…なんて口で云っても分からないでしょうから、写真のっけます。

MARAS7.JPG - 32,359BYTES こんな感じ(これもごく一部)。

それから、オリャンタイタンボまで、これまたローカルバスを乗り継いで行きます。
オリャンタイタンボにも同名の遺跡があるのですが、帰りにも寄るので、この日は却下。はっきり云ってめっちゃ疲れました。。。
それよりも、アグアス・カリエンテス行きの列車のチケットを買わなくてはなりません。列車は8時前発なのですが、夕方4時半ごろ駅に行くと、すでにツーリストの列が…。さすがはマチュピチュっす。
列車は片道12ドルもするシロモノで、一体何処に12ドルの価値があるのか分からないほどフツーの、てかボロいとすら云える列車でした。夜なので、景色も見られないし…。

この日はアグアス・カリエンテスで1泊。情報ノートには「いくらでも宿がある」と書いてあったにもかかわらず、気がつくとわれわれは宿にあぶれていました。
列車到着時、広場にあふれていた客引きもいつの間にかいなくなり、バックパックを背負ったツーリストの影すらありません。とっくに宿を確保して、今ごろはビールの1杯でも飲んでいるのでしょう…くっそー。
小さな町なので、しらみつぶしに宿を当たってみるも全て「フル」。予想外の出来事でした。また、部屋があっても3人部屋とか、高い部屋しかなく、1時間くらいさまよったあげく、やっと駅前に1軒、4人用ドミのある宿を見つけることができたのでした…はああ疲れた。

翌日は、早起きしてもちろんマチュピチュへ向かいます。
アグアスからマチュピチュまではツーリストバスが出ていますが、何しろ節約第一のバックパッカー、たった20分やそこらで片道4.5ドルなんていう乗り物には乗れませんので、トーゼン歩いて上ります。
しかし…これが予想以上にハードだった…。こりゃ立派な登山だ登山。段差のきっつい階段を、一体何段上ったことでしょう。高度のあるせいもあって、ゼーゼー息が上がり、口もきけないほどです。最初の方は、”頂上まで、現時点で30パーセント”みたいなメーターの書かれた看板がところどころで現れていたのですが、いつの間にかそれもなくなり、先が見えなくなったことでますます疲れは倍増。ときどき休憩を挟みつつ、1時間近くは上ったでしょうか…。

看板が現れました。メーターはいきなり90パーセントくらいになっており(笑)、どうやらあと少しらしい。全身の力をふりしぼるようにして上り切りましたが、チケット売り場からもまだしつこく上りがあり、「もういいかげんにしろよマチュピチュ(怒)」と思った、そのときでした。

マチュピチュの全景、テレビで、本で、何度も見たことのあるあの風景が、そのまま目の前に広がっていました。
一瞬ぞわっと感動の波が襲って来て、「これかー…これがマチュピチュか…」と、感想とも云えない感想を抱きながら、しばしそこに立ち尽くしました。安堵と達成感で、全身の力が抜けていくようでした。

見晴台になっている小高い場所では、リャマやアルパカが草を食み、人目も気にせずおしっこなんかしています。われわれはそこで、贅沢にもマチュピチュを足元に見下ろして、「やっぱ、ここはおにぎりじゃないと気分が出ないっすよね」などと云いつつ、朝食のパンをかじっていました。

MACHU-PICHU1.JPG - 29,197BYTES とりあえずお約束のこの写真。やっぱこの角度が絶景です。

しかし、いざ遺跡に下り立ってよく見てみると、遺跡そのものはそこまで大したことはなかったりします…って、そりゃちょっと云い過ぎかも知れませんが。
石組みも、クスコの町とか、後述するピサック遺跡の方がキレイだし、エジプトのピラミッドとどっちが凄いかって云われたら、やっぱピラミッドだよ。ブツ自体は。
マチュピチュの素晴らしさは、ワイナピチュ(山)を背にしたロケーションに尽きるでしょう。神の頂に抱かれて在るようなこの場所は、宇宙と交信できるチャネリングスポットでもあるらしい。何となく納得できるものはあります。
そしてやはり、この遺跡の背景にあるインカの物語が否応なしにロマンを掻き立てますね。クスコを追われ、マチュピチュに都市を築いたインカ帝国の人々は、その後この都市さえも捨ててさらに奥地のどこかへ姿を消したといいます。彼らは一体何処に…なんて、何やら『ムー』の世界っぽいな(笑)。

マチュピチュをひとしきり見たあとは、遺跡の後ろにそびえる山(写真参照)ワイナピチュの登山です。
もう登山はいらねー、って感じなのですが、”マチュピチュを上から見る”体験も、ここまで来たからには一応やっておかねばなるまいと、残り少ない体力をふりしぼって1時間弱の登山。しかも上りがチョーきつい…。
頂上は岩が無造作に積み重なっているだけで、足場というものがなく、かなり危ないのですが、ツーリストはみんな一生懸命記念撮影に励んでいました。もちろんわたしたちも…。しかし、マチュピチュはやはり、上から見るよりも、ワイナピチュを背にした例の眺めが一番美しいです。

別角度から、マチュピチュもう一丁。

ワイナピチュを下り、もう一度見晴台に行って、ひとしきり昼寝などしたあとは(ああ、贅沢〜)、町まで当然歩いて戻ります。
マチュピチュ名物グッバイボーイ(※観光バスがカーブを曲がる度に現れ「グッバーイ」と手を振って見送る少年)を見たかったのですが、夕方遅い時間だったせいか、カゲもカタチもありませんでした。残念。下っている内にどんどん日が落ちてきて、町に着いたときには星がまたたいていました。
夕食のあと、町なかにある温泉に浸かって1日の疲れを癒し、みんなでビールを飲みに行きました。温泉→ビールてのは、いかにも日本人だなあ(笑)。

翌朝、行きしなにナゼか片道切符しか買わなかったわれわれは、朝いちで列車の切符を買いに行かねばなりませんでした。そして、男子2名VS女子2名でじゃんけんをしたところ、われわれ女子が負けてしまい、まだ暗い早朝4時半から窓口に並びに行くことに…眠い…。
しかし、何ということでしょうか、せっかく早起きした結果が、あえなく「売り切れ」…。
でもペルー人車両が空いてるだろう、とか、立っていくからさー、とか色々ごねてみるのですが、この人たちはまったく融通がききません。こういうときの伝家の宝刀、ワイロすら効き目がなく、しまいには半泣きで”ポルファボール(=please)”を連呼してみるもやはりダメ。もめている間に列車は容赦なく出発し、われわれ4人と、同じく切符を買えなかったスペイン人らしきグループがそこに取り残されたのでした。

さて、どうしたものか。朝からああでもないこうでもない、オリャンタイタンボまで28キロの道を歩くか、逆方向に歩いてサンタエレナからバスを拾うか…などなど、その後の進路について議論し合い、喧嘩になるんちゃうかという寸前で、「ここで1泊して明日の朝帰る」案が可決されました。
1泊延ばす、と決まった途端、全員ホテルで昼寝をきめこみ、「せっかく1泊延ばしたのだから、プトゥクシ山(同じく頂上からマチュピチュが見える)に上ろうかな」なんて優等生的発言をしていたわたしも、気がついたら夕方近くまで眠りこけていました。
そして、夜は夜とて、Mさんが市場で調達してきたトランプで大富豪大会。大富豪、「八幡」で流行ってんだよねーナゼか…。しかも、南米ルールみたいなのがあって、「8を出すとその回は流れる『8切り』」だの「11を出すとその回だけ数字の高い順から出す」だの、聞いたこともないような決まりごとだらけで、最初は本気でむかつきそうになりました(笑)。新ルールを把握するのに精一杯で、全然勝てないし、やっぱ勝てないと面白くないのがゲームですからね。でも何だかんだで20回くらいやってたけど(笑)。

翌朝は、当たり前ですがちゃんと列車に乗ることができ、オリャンタイタンボでは念願の”セビッチェ茶漬け”を食することができました。これは、マチュピチュに行った旅行者が全員オススメするくらいの逸品なので、ぜひとも食べてみたかったのです。本当はお茶漬けでも何でもなくて、ご飯にセビッチェの具を載せ、スープをかけただけなんですが、このシンプルさがあっさり好みの日本人の口に合うのか、かなり美味しく、4人ともしっかりお替りしていました。

オリャンタイタンボ遺跡を見学し(Aちゃんは先に帰宿)、いよいよ大人しく帰るのかと思いきや、ピサックという遺跡に立ち寄る、勤勉な旅行者のわたしたち。
ピサックは、”ミニマチュピチュ”などと云われる遺跡で、規模こそ小さいものの、石組みはマチュピチュよりもずっと精巧で美しいのです。クスコの街みたいに、12角とか16角とかの石はないけれど(笑)、本当にぴっちりと隙間のない組み方で、たかが石組みなのに大いに感動してしまいました。コンピューターもなしで、よくここまでカンペキに作られたものです。

クスコに戻ったあとは、休む間もなく、周遊券で入れる近郊の遺跡などを片っ端から潰し回りました。いやー、セコい。周遊券とか買うと、絶対こうなるんだよねわたし…。しかも、幸か不幸か回数券は何と16枚つづり!つまり16箇所も行けてしまうのです。
そんなわけでまーいろいろと行きましたが、中でひとつオススメなのが、アンダワイリャスという村にあるSAINT PETER APOSTLE教会。インカとは何のカンケーもないんですけど(さらには周遊券ともカンケーない)、何とも味のある幻想的な教会で、壁のいたるところにフレスコ画が描かれ、金色の祭壇もいい感じに古びています。
そして、祭壇の手前に立つ小さなキリスト像。これが何と、アンデス風の赤いポンチョをはおっているのだ(笑)。顔は例のアレなんですけど、服装がすっかりインディヘナなのです。

教会の入り口。近所の子供たち。

この辺りは、元々の土俗信仰とスペインの侵略によってもたらされたキリスト教が融合していて、なかなか面白いですね。
クスコのカテドラルにも、「最後の晩餐」の絵が飾られているのですが、肝心の皿の上に乗っかっているのが、何と、クイなのです。クイというのは、ネズミの一種で、こちらでは地元料理として食べられている動物でして、わたくしもバッチリ食べてまいりました。ちょっとクセのある味でしかも食べにくいのですが、足(もも)の辺りなどは脂が載っていて、美味しかったです。

怒涛のような観光ライフを終えてクスコを後にし、ペルー観光の最後の地、チチカカ湖にやって来ました。
標高3800メートル、富士山より高い場所にある湖、チチカカ湖。インカ帝国初代皇帝マンコ・カパックが、妹ママ・オクリョ(兄妹そろってすげー名前だな)とともにこの湖に降臨した、という伝説も神秘的な美しい湖です。
観光の拠点となるのはプーノ。到着後早速、町の旅行会社で、チチカカ湖上の3つの島をボートでめぐる1泊2日ツアーに申し込むことにしました。最近、何するのもツアーに頼ってしまう怠惰なわたし…。

チチカカ湖に浮かぶ島の中で、最も有名なのがウロス島でしょう。
何故有名かと云うと、ここは、”トトラ”という葦を積み重ねて作られた、人工の浮島なのです。ちなみにウロス島、とひと口に云いますが、実際は大小40あまりの島の総称です。
島の作り方(笑)は、トトラを切って3メートルほど積み、水が浸かっている部分が腐ってくると新しいトトラを上から重ねるという、チョー簡単なもの。そんなんで島になんのかっ?と思いきや、しっかり家も建ち(と云ってもこれもトトラ製)、人が住んでいるのです。
島に到着し、わくわくしつつ第一歩を踏み入れた瞬間……おおーっ、何じゃこりゃー!ふかふかじゃねーか!すっげー!
この感触は、今までに味わったことのないものでした。当たり前ですが、めちゃくちゃ地盤がゆるい(笑)。でも沈まない。不思議だ。とっても不思議だぞ。

トトラをつぶさに見てみると、直径1〜2センチくらいの茎の中が、スポンジ状になっています。つまり、この島はスポンジで出来ているというわけですね。
さらにこのトトラ、食糧にもなるのでした。一応食べてみたけど、別に何の味もしなかった…美味しいとかそういうレベルのもんじゃないですね。湿ったスポンジ食ってるみたいでした(そのまんまやな)。
それにしたって、トトラで何もかも済ませる(?)ここの生活ってすごくないですか?家もトトラ、地面もトトラ、船もトトラ、食べ物もトトラ…って、トトラ使いすぎやろ!(いや、別にいーんですけど…)

UROS6.JPG - 38,733BYTES トトラの上に座って仕事をするおじいちゃん。おじいちゃん(と石臼)以外はすべてトトラ製(笑)。おじいちゃんもトトラで出来ていたら笑います。。。

次なる島、アマンタニ島では、アレキパ以来の高山病に急に冒されたらしく、ウロス島での元気はどこへやら、夕方の観光の途中で真っ青になってしまい、1人リタイアして宿に戻り、そのままぶっ倒れていました。
高山病だけではなく、風邪のような症状も出て来て、そんな寒くないはずなのに、悪寒が止まらず、重たい毛布を5枚くらいひっかけて寝てもまだ足りないくらいでした。他のツアー客が夜、ダンスパーティーか何かを見に行くのを尻目に、真っ暗な部屋で(電気が通っていないのだ)ぶるぶる震えながら一夜を明かしたのでした……悲しい。

ずっと横になって休んでいたのがよかったのか、翌日は、何とか体調も持ち直し、普通に歩けるようになりました。
この日はタキーレ島の観光です。タキーレ島は、男も女も色鮮やかな民族衣装を着ていて、男も女も編物しているの(笑)。それも、歩きながら、会話しながら、手はずっと編み編み。そんなにいっぱい編んでどーすんだろ?と思っていたら、彼らが編んだ手袋や帽子が、ツーリスト向けにばんばん売られていました。ペルー全土でよく見かけるニット製品とは違って、模様も独自のものできめ細かいのですが、値段も倍くらいするのでわたしは断念。
代わりと云っちゃなんですが、民族衣装の人々の写真を隠し撮りしまくってました。何で隠し撮りかっていうと、面と向かって頼むとお金取られるんだもん(涙)。白人はそうやって、お金をすぐにあげちゃうんだもん。だから、ビデオ回しているフリして、望遠使ってシャッターを切る、とか姑息な手段を駆使していたのでした。

糸をつむぐ女(盗撮)。

そう云えば、ペルー全土で思っていたのですが、女性の、と云うかおばちゃんたちの民族衣装、あれはロリータじゃないのかい?!
あのスカートのふくらみ具合は、どう考えてもロリだよロリ!
ロリータのスタイルってのは、マリー・アントワネットあたりの時代のドレスから来ているのかと思いきや、実はアンデスのおばちゃんがルーツなんじゃないか?(笑)
タキーレ島とアマンタニ島のおばちゃんの衣装は、中でもとりわけロリっぽくて、「そのスカート、いくら?どこの店?」と思わず聞きたくなるような可愛さでした。日本では26にもなってロリ服なんか着ていると、ともすればキ○ガイとさえ思われかねませんが、ここでは50歳以上と思われるおばちゃんが、堂々とロリ服みたいなふわふわスカートを履いているのだよ!膝下ばっちり見せてんのよ!カッコいいー!おばちゃんパワー全開!

AMANTANI9.JPG - 28,315BYTES これをロリータと云わずして何と云うのだ!?(笑)

このチチカカ湖ツアーで知り合ったのが、韓国人パッカー・スーラでした。
初め、「日本人かな?でもちょっと違う気もするな…」と半信半疑で、写真を頼むときもやや遠慮がちに、英語で話しかけました。その後彼が、「アレ?ニホンジン?」と明らかに妙な日本語で質問してきたので、日本人ではないと分かったのです(笑)。向うもどうやら、「韓国人かな?どうかな?」と思っていたらしく、しばらく声をかけるのをためらっていたようでした。

彼は何と、2年10ヶ月も旅をしているツワモノバックパッカー。
旅先でよく会う韓国人パッカーと云えば、長くても1,2ヶ月の短期旅行者(いや、短期じゃないんだけどさ…2ヶ月で短期とか云ってしまう自分がちょっとコワイ)がほとんどです。いくら韓国が先進国と云っても、日本ほどの収入はないはずで、われわれのように、何年か働いて貯金したお金を切り崩しながら1年、2年と旅をするのは難しいと思うし、そういう人も未だ少ないのではないでしょうか。何しろ、日本でだって、こんな長旅していたら「変人?」と思われかねないのですから、日本よりも保守的に見える韓国では、変人どころか狂人では?(笑)。
聞けば、スーラも、旅先で撮った写真をいくつかの新聞社や雑誌社に売ったり、現在はペルーの首都リマの旅行会社で働いて収入を得ているとのこと。それもあと1年は働かないと…と云っていました。

この旅の間、日本にも3ヶ月くらい来ていたようです。
日本のビザなるものを初めて見せてもらいました。韓国人はビザ代タダなのだとか。
大阪に友人がいて、しばらく滞在していたようで、時々怪しい関西弁を喋るのには苦笑してしまいました。ノープロブレムのことを「かまへん」なんて、うちらでもあんまり使わへんで!と正しい(?)関西弁で説教しておきました。
さらに聞くと、どうやらお祖父ちゃんが日本人とのこと。彼が生まれたのも実は神戸だったらしい。今はお祖父ちゃんは亡くなっていて、日本での身内の知り合いはいないようでしたが。

相変わらず下手な英語に苦労しながらも、同じアジア人、しかもお隣さんの韓国人という安心感があるせいか、けっこう色んなことを話しました。歳も近いし(彼が1つ上)、長旅同士というのもあって、上手に話せなくても、感覚的に理解できる気がするんですよね。
(ちなみに、スーラという名前は本名ではなく、韓国名だと発音が難しいので、ナゼかヒンディー語で「太陽」という意味のスーラと名乗っているのでした。インド好きらしいです)

後々日本人の女性と話していたときに話題になったのですが、韓国の男って、女子にやさしいのよねー。紳士的っていうか何ていうか。
彼もご多分にもれず、そうでした。わたしがアマンタニ島で倒れていた際も、いろいろ声をかけてくれ、わたしの重すぎるバックパックを替わりに持ってくれ、薬も飲ませてくれましたっけ。さらに、プーノからボリビアに向かうバスに乗っていたとき、少し咳をしていると、「大丈夫?寒い?これかけときな」って云って、自分の着ているジャケットを、身体にかけてくれたんだよー!信じられない!そんなことされたら、フツーにうれしいだろう!(笑)

そのワケを考えるに、彼らが軍隊を経験しているからではないでしょうか?スーラ曰く「軍隊に行かない方法もあるけれど、行かなかった奴は世間から男としてみなされなくなる」とのこと。いいか悪いかは別にして、だから彼らには女性を守ろうっていう気概が自然とあるんでしょうね。日本の男にそんなもんないだろ?そのクセ「守ってあげたくなるような女性がいい」とか云って、バカじゃねーの?(笑)

ま、そんな悪態はさておき、スーラとはボリビアのラ・パスまで一緒に行くことになりました。
ボリビア入国の際、スーラはビザ代何と50ドルも払わされていて、ちょっと気の毒でした。日本人はその点、南米旅行は本当にラクチン。ブラジル以外の国はすべてノービザなのですから。韓国人は、ナゼかブラジルはノービザで、他の国はほとんど必要らしいです。
ラ・パス以降のお話は、また次回。

(2003年7月30日 ラ・パス)

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