旅先風信64「ジンバブエ・南アフリカ・ナミビア」


先風信 vol.64

 


 

**再会〜ナミブ砂漠まで**

 

永遠に続くかに思われたハラレでの日々に終止符を打ったのは、1通のメールでした。
バルセロナとチュニスで会ったYちゃんが、南アフリカのヨハネスブルグにいるというのです。
Yちゃんは、わたしより先駆けること5ヶ月前、やはりエジプトからアフリカ縦断を始めていました。もうとっくに縦断など終わっていそうなものですが、ナイロビで沈没、ハラレで大沈没、南アでさらに大沈没…と沈没を繰り返した結果、未だにアフリカ大陸にいるのでした(笑)。

ハラレに着いた頃から、「今ヨハネスにいるよー」とのメールはもらっていたのですが、この期に及んでまさかまだいるとは思っていませんでした。しかし「(4日後の)土曜日にカイロに飛ぶ」というのです。わたしはメールを読んで、叩き起こされた人のように飛び上がり、すぐに宿に帰りました。
せっかく近くに来ているんだから、久しぶりに会いたいのはやまやまです。ただ、4日後となると…かなりきついかも。
まず、ジンバブエ最大の見どころであるグレート・ジンバブエ遺跡の観光を済ませなければならず、それからヨハネスブルグに入るという計算でいくと、明日の昼間にはもうハラレを出てその日中にグレート・ジンバブエに着。翌日の午前中遺跡を見学し、そこからヨハネスブルグへ、なのですが…問題がひとつ。

南アフリカの大都市・ヨハネスブルグは、”世界一危険な都市””リアル北斗の拳”などの異名を持ち、街を歩けば100パーセント、いや120パーセントの確率で犯罪に遭う、というとんでもなく危ないな場所なのだそうです。
何故100ではなく120パーセントなのか?それは、1人の人間が2回犯罪に遭うから、ということらしい…。ウソかホントか知りませんが、腕時計を盗ろうとして腕ごと切り落とすのが彼らのやり方らしい…。嗚呼、何という恐ろしい街でしょうか。Yちゃんもよくそんなところで沈没こいてるなあ、と不思議でしょうがないのですが、バックパッカーズ(宿)のある地域は安全だということなので、そこで沈んでいるのでしょう。

各都市からバスでヨハネスに入る場合、大体のバスはパークステーションという大きなバスターミナルに到着します。
パークステーションの中は安全なので、いったんここに入ってしまえば問題はないのですが、そのまま宿探しなどといって1歩外に出たら最後、ソッコーでヤられてしまいます。大げさではなく、
1歩出たらアウトらしい(笑)。
なので、事前に”バスが必ずパークステーションの中に入るかどうか”を確認しなくてはなりません。もし間違って、パークステーションの外に着いてしまったら…タクシーランクと呼ばれるミニバスの発着所などに着いてしまったら…ただでさえ危ないのに、バックパックなんかしょった日にゃ、カモネギどころの話ではありません。
タクシーランクは、ヨハネスブルグの中でも1,2を争う危険度を誇る場所らしく(んなもん誇るなっつーの!)、「旅行人」HPの掲示板には「気絶するまでボコボコにされ、気がついたらタクシーランクに捨てられていた。われながらよく生きていたなと思った」などという、とんでもないカキコミがあったりします。まかり間違っても行きたくないところです。

長々とヨハネスの危険について語ったわけですが、当面のわたし自身の問題、それは、如何にしてヨハネスに入るかということでした。
ルート的に見れば、ハラレ→マシンゴ(グレート・ジンバブエ)→ベイトブリッジ(ジンバブエと南アの国境)→ヨハネスブルグと乗り継いで行くのが効率のよい行き方です。
しかし、ベイトブリッジ→ヨハネスブルグ間を、大型バス、つまり”確実にパークステーションに入るバス”が走っているかどうか…。もしミニバスしかなかったら、当然タクシーランクに到着し…あとは云わずもがなです。
それだけは避けたい…避けたいぞ。
大事をとって、マシンゴからハラレに引き返し、ハラレからバスに乗った方が確実は確実だ…しかしそれでは時間が間に合うかどうか…お金ももったいないし…。

ともあれ、メールを受け取った翌日、グレート・ジンバブエに行くことにしました。
散らかり放題の部屋を1時間くらいかけて片付け、パッキングし、まだ送っていなかった物を翌朝イチで郵送し…運のよいことに、カメラの件承諾しましたという編集部からのメールも来たので、急だったとは云え、思い残すことなくハラレを出発できました。
I さん夫婦もちょうど出るということで、3人でマシンゴ行きのバスに乗り、マシンゴからさらにバスでグレート・ジンバブエへ。
遺跡の中にある宿泊所が安いというので、この日の宿はそこに取ることにしました。安いだけあって、ベッド(シーツ・毛布なし)が置いてあるだけの独房みたいな部屋でしたが…。

翌朝は、昨晩から降り続いている雨がまだ止まず、仕方ないので雨の中凍えながら遺跡観光です。
雨にけぶる石の家、グレート・ジンバブエ遺跡は、なかなか風情がありました。が、実際には、寒すぎて風情を味わう余裕などは皆無でした。
ジンバブエの国名の由来になっているだけあって、また世界遺産に登録されているだけあって、素晴らしい遺跡でした、と云いたいところですが、…ま、アフリカの観光地というのは、自然系を抜きにすれば、こんなものかなという感じです。いや、悪くはないんですけどね、決して…。

そしていよいよ、ハラレに戻るか、ベイトブリッジに行くかの決断を下すときがやって来ました。
ブラワヨに向かうI さんたちと離れる寸前まで決めかねており、最後は「わたしがどっちのバスを選んだかは、メールでお知らせします!」と無謀なセリフを吐いてお別れしました。
しかし、悩みに悩んだわりには、3分後にはあっけなくベイトブリッジ行きのローカルバス(しかもボロバス)に乗っていました。手持ちのジンバブエドルもあとわずかしかなく、ハラレに戻るとまた余計な両替をしなくてはならないので、意を決したのです。
とは云えやはり心配なので、バスの客引きに「ヨハネスブルグに行くんだけど、このバスでOK?ちゃんと乗り継げる?」と尋ねると、彼の口からはお決まりのセリフ「ノープロブレム!」が飛び出しました。
わたしは胡散臭そうに彼を見つめ、「あのー…本っっっ当にノープロブレムなんでしょうか???」
「大丈夫だ。(運転手を指し)彼が君を助けてくれるから」
…本当かよ??? しかし、一度バスに乗り込んでしまうと、すっかり腰が重くなり、ぼんやりしているうちに、気がつくとバスは発車していました。いよいよ地獄行きかしらーーー…?

バスに乗っている5時間と少しの間、余計なことを考えないようにと、清涼院流水の『コズミック』(すんげー分厚い)を一心不乱に読んでいましたが、日が傾き始めるとともに不安が顔を出し始め、また、本の内容が殺人事件だったため、「わたし殺されるんじゃないのかしら…いよいよ討死なのかしら…」とさらに不安は増殖しました。おそらくわたしの顔には、『ちびまる子ちゃん』のキャラのように縦線が5、6本走っていたことでしょう。本当に、身体が震えていました。もちろん、武者震いではありません…。

バスは夕方5時半に、ベイトブリッジのガソリンスタンドに到着しました。
そこで「CITY TO CITY」(バス会社)のチケットブースを見つけたときは、ジーザス!とでも叫びたい衝動に駆られましたね。オッサン、あんたの云うとおり、今回は本当にノープロブレムだったよ…ありがとう。チケットも、ハラレに戻るより全然安く上がり、バスもちゃんとパークステーションに入るということでした。助かったよーーー……・。

…目が覚めると、バスはかなり大きな、しかしゴーストタウンのように人気のない街を走っていました。そして、午前6時を回ろうという頃、停車しました。
乗客がわらわらと降りていくのをみると、もしかして、ここがいよいよヨハネスブルグなのでしょうか?
わたしはかなり不安になりました。というのも、まだ空は真っ暗。そして、停まった場所は、どう考えてもパークステーションではなく、その辺のただのバス停です。
ちょ、ちょっと…まさかこのバス、タクシーランクにでも着いたんじゃないのっ!? しかも、ちょっと早すぎないか!? 人、歩いてないけど!?
額に汗をかきながら、しばし様子を見守っていると、どうやらここはヨハネスブルグではなく、首都プレトリアでした。一時は、ヨハネスを避けてプレトリアで降りる計画を練っていたわたしでしたが、やめてよかったぜ。。。
そして、空も明け切った朝7時過ぎ、バスは無事にヨハネスブルグのパークステーションに到着しました。ここまで来れば身の安全は保障されたようなもの。あとは、バックパッカーズ(宿)に電話をかけ、迎えに来てもらうだけです。

郊外の閑静な住宅地にある「イーストゲートバックパッカーズ」に着くと、Yちゃんはまだ寝ていました。
「久しぶりー」と云うと、寝起きの顔で、「あれ〜?何か早くない?」と眠そうな返事。こらー、もっと感動しろー(笑)。

約1年ぶりに会うYちゃんは、ハラレから一緒に旅行しているという男性と一緒でした。
ははア、沈没の原因は彼かな…と思いつつ(だって普通、3週間も1人でヨハネスにはいないでしょう^^;)、まあその辺は夜にでもじっくり聞かせてもらうことにして、早速3人で中華料理を食べに行きました。
何故中華?と思われるかも知れませんが、バックパッカーズにほど近いところに、小さなチャイナタウンがあるのです。
ワンタンスープや牛肉麺に舌鼓を打っていると、長く恐ろしかった1日を終えた安堵とも相まって、「ああ、幸せだなあ…」と心から思えましたね。帰りに、中華スーパーで青梗菜と「出前一丁」(期限切れだがたったの16円)を買い込んで、その日の仕事は終了(早い)。あとは宿でくっちゃべるのみです。

Yちゃんと話すと、図らずも封印されていた大阪弁が戻ってくるので楽しい。羽根が生えたように口が軽くなり、喋るテンポも1.5倍速くらいになって、まさにマシンガントークです(笑)。ジンバブエをひと足先に出ていたTくんも同じ宿に泊っていたのですが、東京出身の彼は、われわれのベタベタ大阪弁トークに唖然としておりました。。。

しかし、Yちゃんは、わたしとの再会に喜んではくれているものの、どうも、翌日に迫った彼との別れの方に心が落ち着かない様子でした。そりゃまあ、半年も一緒にいればねえ…。正式に(?)カップルじゃないとしても、男性と2人で旅することに一種のアコガレを抱いているわたしなので、うらやましく思いつつも、「1人は寂しいけど、別れるのはもっと辛いよなあ…」と、わが身の気楽さに少しだけ肯定的な気持ちになりました。

翌日、Yちゃんは彼と別れ、カイロに旅立って行きました。
彼はスワジランドへ、Tくんも夜行バスでケープタウンに行くというので、わたしはいきなり1人になってしまいました。
まさかセンターに観光しに行くわけにはいかないので(自殺行為です)、宿のすぐ近くにある、南アフリカ一大きいショッピングモール「イーストゲート」を物色しまくって時間を過ごしていました。
久々に物、物、物のあふれる空間で息をしていると、何だか身体に活力がみなぎってくるようでした(笑)。つくづく物欲の奴隷と云わざるをえません。

結局”世界一危ない”ヨハネスブルグは、イーストゲートと、中華街と、バックパッカーズの三角形で過ごしている分には、ほとんど危険は感じませんでした。
黒人居留区を訪ねる有名な”ソウェトツアー”にも行きましたが、そこまで荒んでいるという印象はなかったですね。もっと貧しくてどうしょうもないのかと思っていたら、そうでもなくて、家だけ見れば、エチオピアの方がよっぽどひどい(笑)。タウンシップという、町内会みたいな活動もしっかり機能していそうだし、少なくとも”暗い貧民街”といった風はありませんでした。
ただ、南ア国内の貧富の差を考えると、やはりここはスラムなのだなあ、と思わざるをえませんが…。
ソウェトはかのネルソン・マンデラの出身地でもあります。彼が住んでいたという家も残っており、観光客に公開されているのですが、わたしはお金をケチって外から眺めるに留めました。どうでもいいけど、マンデラって橋本治(作家)に似てないですか? いや、本当にどうでもいいことだけど。

ただ、これを読んで、「何だ、ヨハネスブルグ、口ほどにもないな」という印象を持たないでいただきたいな、と。
ハラレが贅沢三昧の極楽と聞いていそいそと出向き、その結果頭をかち割られたわたしとしては、「一般に危険だとされている場所はやはり危険である」と声を大に、いや、字を太字の3ポイントにして云いたい。
車から外を見る限り、黒人は普通に歩いているし、学校に行く子供もいるしで「いくらなんでも『北斗の拳』ってことはないだろー」と思いましたが、よく見てみると、白人の姿は皆無…。白い肌の人間がセンターなんか歩いた日には、何されるか分からん、ってことなのでしょうか…。

また、バックパッカーズの車でパークステーションに向かっていたときのこと、突然運転手のおねーさんが「窓ロックして!!」と小さく叫びました。一瞬何を云っているのか分からず、しかしとにかくロックをかけ窓の外を見ると、怪しげな黒人がわれわれの車にかなり近づいて来て、今まさに立ち去ろうとしていたところでした。
これは単なる偶然だったかも知れないのですが、”走っている車でも減速したとたん容赦なく襲ってくる”とどこかに書いていた話を思い出して、背筋が寒くなったのでした…。今後行かれる方は、充分気をつけて下さいね。

3日間ヨハネスブルグにいたあとは、夜行バスでケープタウンに向かいました。
南アフリカのバスは、これまでからは考えられないほど高額なのですが、それだけに快適で、コーヒー紅茶のサービスまである。こんなのはトルコ以来ですね。同じアフリカでも、エチオピアやタンザニアのバスは一体…???(笑)

ケープタウンに到着すると、ヨハネスブルグとはまた違った、しかし同じく大都会な街並に目を見張りました。
ピカピカに輝く高層ビル、整備された美しい道路…海沿いに位置するせいか、どことなく明るく、そして垢抜けした雰囲気です。
バスターミナルから、「キャット&ムース」というバックパッカーズまでは徒歩20分ちょっと。その際、ロングストリートという繁華街を歩いていくのですが、これがまあ、可愛いお店がそこら中にあって、重いバックパックにひーひー云いながらも、湧き上がる興奮を抑えるのに必死でした。これはどうもケープタウン、ちょっとヤバいんじゃないのか…。散財せずにここを去ることができるのだろうか…。

翌日、わたしはいきなりナミビアの首都ウイントフックに向かうことにしました。
というのは、ナミビアでのナミブ砂漠観光に、かなりお金がかかることが予想されており、ともかくもそれを済ませないことには買い物どころではないからです。どうせケープタウンには戻ってくるので、買い物はそれからでも遅くないでしょう。
Tくんも同じバスでナミビアへ行くことになっており、特に一緒に行こうと話したわけではないけれど、その後しばらく行動を共にすることになります。

ジンバブエで一緒だったUくん情報によると「今はツアーも満杯で、1週間待ちとかになってる」ということで、ただでさえ高額なツアーなのに、さらに1週間も待たされたら、一体いくらかかるんだ?!…とかなり危惧していました。
本当は、何人かで車をシェアして行くのがベストなのですが、わたしもTくんも免許がないので、誰か運転できる人を見つけなくては話になりません。
ウイントフックのバックパッカーズに着いて掲示板を見たところ、あいにくシェアの募集はかかっていませんでした。もしI さん夫婦とちょうど合流できたら、4人でシェアできるのになあ…と淡い期待を抱いてメールを打ってみるのですが、1日2日後の返信は期待できそうにありませんでした。

ぐずぐずしていても仕方ないので、われわれはツアーを探しにいくことにしました。
まず、インフォメーションで聞くと、やはり「ツアーはどこも満杯」との答え。インフォに置いてあるパンフレットを片っ端から当たってもらうのですが、それでもダメだというので、もしどこか空きができたらすぐにホテルに電話してくれるように云って、とりあえずその場を去りました。

すると、その日の午後、早速ある会社から電話がかかってきました。何だよ。ちゃんとあるじゃねーかよ。
4日後の日曜日まで待てば、今泊っているバックパッカーズで申し込めるツアーもあったのですが、その会社だと1日早く土曜日に出発でき、それならばツアーが終わったその足でケープタウンにも戻れるというので、明日の朝もしI さんたちがここに来なければ申し込もうという話になり、I さんたちは結局来なかったのでこのツアーに参加することにしました。
(※実は後から聞いた話、わたしたちがツアーに出発して1時間後くらいに、I さん夫婦がBPに到着していたのでした。すぐに携帯で連絡を取ってくれたらしいのですが、車はすでにウイントフックからかなり離れており、結局合流できなかった…残念)
それにしても、ジンバブエで、あれほど頭をひねって「何とか安く上がらないものか」と考えていたわりには、結局1300R(約170ドル)払ってツアー参加。。。あの時間は何だったんだーーー?!

ツアーまでの3日間は、本当にヒマでした。
世界一周ならぬ、世界制覇を目論む大阪のおばちゃんに会ったほかは、特に目新しい出来事はなく、毎日ただぷらぷらとセンターに出かけて、本屋で立ち読みしたり、本屋で立ち読みしたり、本屋で…あああっ、何にもやることがない!
ウイントフックのシティセンターは、ケープタウンと比べると、いかにも面白くないのです。こぎれいなんだけど、それだけ。
夕食の材料を買いにいくときだけ、多少なりとも「何かしている」という実感がありました。物価の高いナミビアでは、夕食は当然自炊。安く上げるため、Tくんとシェア飯していました。

そして、土曜日。
ツアーは3日間ですが、初日と最終日は移動のみということで、午後3時頃にはキャンプ場に到着しました。テントを張ったあとは、散歩したりプールで泳いだりして(プールが付いているキャンプ場ってすごいな)思い思いに時間を過ごし、夜はバーベキューで腹を満たし、明日の早朝起きに備えてさっさと就寝です。

ナミブ砂漠は、世界最古の砂漠と云われ、規模的にもサハラに次いでアフリカ第2位の大きさを誇ります。
世界最古とか云われても、どの辺に歴史があるのかは、見た目にはさっぱり分からないのですが(だって砂しかないんだもんな)、とにかくそういうことらしいです。

DUNE45は、ナミブ砂漠の写真集やガイドブックの表紙を飾る率が最も高い、まさにハイライトにあたる場所。
芸術的な曲線を描く巨大な砂丘は、われわれのイメージする砂漠をそのまま絵に描いたような光景です。
この日の予定はまず、ここから日の出を拝むことから始まります。
砂丘は高さ280メートル(?ちょっと曖昧)もあり、砂に足を取られて、上るのが大変。頂上に着くころには、すっかり息が切れてしまいました。

しかし、苦労して上っただけのことはあり、DUNE45から見る朝陽は、筆舌に尽くしがたいほどの光景でした。
何て云うんでしょう、本当に”生まれたて”の太陽なのです。白い光の玉が、ぷるぷるぷる…と小さく震えながら上っていくさまは、有無を云わせない圧倒的で荘厳な美しさ。自然の神秘、みたいなものを感じました。色んな朝陽を見てきたけれど、これ以上のものは見たことがないような気がするな。
難を云えば、DUNE45には100人くらいの観光客が大挙しており、それが見事に風情をぶち壊してくれました。上りながら後ろを見ると、アリの大群のように人が連なっていて、かなり興覚め…。ここはテーマパークかっつーの…。

朝食を済ませたあとは、車を降りて往復10キロのトレッキングです。
こういうときに限って日焼け止めを塗り忘れるわたしは、汗をダラダラ流しながら布で顔を覆って歩くハメになりました。ま、はっきり云ってそんなことしても、とっくに手遅れなんですけどね…(こないだ鏡で顔を見たら、ものすごいそばかすが出来ていて、絶叫しそうになったわよ)。

これまでに見たアラブ文化圏の砂漠と違い、ここは全く人のにおいがしません。
完全に人間から独立した自然という感じです。ガイドの話だと、コイサン族がたまに歩いているようですが、ここで暮らしているわけではなさそうです。
砂漠名物のラクダもいないし、生き物自体が存在しないのでは?と思うほどに静寂に満ちており、違う星にでも来たような錯覚を覚えます。
360度アプリコット色の砂漠、という謳い文句はやや大げさな気もしますが、確かにダイナミックで、正統派の砂漠といった感じはします。ただ、サハラやワディ・ラムで感じたような、砂漠特有の哀愁(何じゃそら)みたいなのはなかったかな。もっと宇宙的な雰囲気とでも云いましょうか。

印象的だったのは、写真集で見て「こりゃすげー」と思った”デッドフレイ”(死んだ池の意)でした。カンペキに干上がった白い土地に、枯れきった木々が立っているさまは、さながらシュールレアリスムの絵画のようです。池、というだけあって、昔は水が存在していたのですが、風に運ばれた砂が堆積して、水の通り道をふさいでしまい、このような状態となったわけです。嗚呼、写真をお見せしたいのですが、「写るんです」で撮ってあるので、今すぐ公開できないのが残念です。
ちなみに、もうひとつの見どころ、砂漠の中の唯一の池という”ソススフレイ”は、すっかり水が枯れており、単なる干からびた大地でした。。。

総論としては、ツアーだったのと、観光客が多すぎるのと、あまりに期待がでかすぎたのとで、”これまでの旅で見たものNO.1”争いに食い込むまでの感動には至りませんでした。
個人的には、モロッコで見たサハラ砂漠の方がよかったような…と云うかわたし好みだったかな。170ドルも払ってそんなこと云っちゃいけませんけど。

この辺―南アフリカ・ナミビア・ボツワナあたり―の旅って、宿はバックパッカーズ、観光はツアー、と相場が決まっており、旅行しやすいと云えばそうなのですが、お膳立てされすぎてあまり新鮮味がないというか。それに、何をやってもお金がかかりすぎてしまうのも、結局金なんかい、って感じで、その辺がどうもピンとこない原因かも知れません。
個人の車でキャンプしながらの旅とかなら、ずいぶん面白くなりそうなんですけどね。

さて、このツアーでは、オランダ人の女の子2人と一緒だったのですが、英語がペラペラでノリもいい彼女らは、わたしの眠れるコンプレックスを久々に刺激してくれましたねー。。。
歳はほとんど変わらないのに、さすがに女子2人、しかもオランダ人というのはパワーがあるというかなんと云うか・・・。「箸が転げても可笑しい」と云わんばかりに、ゲラゲラ笑いまくって大変です。
わたしはこの通り、英語が苦手だし、それをノリでカバーできるほどハイテンションな人間でもないので、彼女らがはしゃげばはしゃぐほど、憂鬱になってしまいます。
何がそんなおもろいねん!と心の中で何度もツッコミましたが、こんなところで笑いのレベル云々を問うても仕方ないことに気づき、楽しい雰囲気を壊さない程度に愛想笑いを浮かべていました。
わたし同様、テンションの低いTくんも同じような感想を抱いているのかと思いきや、「彼女たち面白いよねー」と素直に感心しているので、わたしは無性に腹が立ち、「それは面白くないわたしに対する当てこすりか?!」と、思い違いも甚だしい怒りを勝手に増幅させるのでした。

さらに追い討ちをかけるように、ガイドの1人クリスがしきりに、わたしとTくんに「君たちは楽しくないのか?何か不都合があれば云ってくれ」なんて云うのでますます困ってしまいました。
「いや、わたたしたちは充分これで楽しんでるから、心配しないで。日本人は感情を表に出すのが苦手なだけだから」と、説明すればするほど惨めなのが、この指摘のイヤなところ。
中東で”彼女”と一緒だったときに悩んでいたのがまさにこれだったのです。自己主張が何より大事と思っている欧米文化からしてみれば、「(あまり)喋らない」ことは悪にも等しいのでしょうね…面倒くさいわー。

しかしそれでも、2日目の晩は何故か輪の中に入って、最後まで英会話に参加している自分が、可愛いというかけなげというか(Tくんは早々にあきらめて寝てた)。
もちろん、わたしの英語力は最下位なので、あとの4人が大爆笑しているのにまったく付いて行けず困惑する場面も、20回くらいはありました。が、運良く理解できれば、それなりに笑え、「ガイジンのギャグは全然面白くない」と頭から決めつけていたことを少し反省(もちろん面白くないのもあるけど)。わたしは、ガイドのエミリオによる以下の話が、何故かツボに入って爆笑してしまいました。

「2人の男が砂丘を登っていました。1人の名前は「say again」、もう1人は「start again」といいます。(中略)2人は頂上まで来ましたが、どちらかが転げ落ちてしまいました。さて、どちらでしょう?」
で、どちらか答えますよね。するともう一度「2人の男が砂丘を…」と始まるわけです。話が終わってまた答えると、「2人の男が…」とイチから始まるのです。この繰り返し。
何故って?それは…分かりますよね?? 説明するとバカバカしいので、あえて答えは明かしません(カンタンですよん)。エミリオがまた、真顔で同じ話を壊れたテープレコーダーのように繰り返すので、かなり笑わされました。

閑話休題。
そう云えば、昔っから、やたらノリのいい人というのが苦手でした。苦手というより、自分がそういう風にできないことに、コンプレックスを抱いてしまうのです。
下校中に、突然合唱しだす女子とかいるじゃないですか。ああいうのがもう、本当にできなくて…。隣で嬉しそうに唄っている友達を、内心白い目で見たりして。まあ、そんなことで人間関係に支障をきたすことはなかったけどね。
件のオランダ人女子も、テープレコーダーから流れてくる音楽にあわせて、突然エアロビを始めていたわ…。わたしには絶対できない。クラブとか行っても、いきなりは踊れないタイプです。いったんスイッチが入って踊りだすともうどうでもよくなるんだけど(笑)。
損な性格だなー、ってつくづく思います。時代の風潮としても今は、人生は楽しんだもん勝ち、ハイになったもん勝ちだもんねえ。わたしも一応そうは思うんだけど、身体がついていかない(笑)。歳は若くても、中身は完全にババアです。

というわけで、今回も、一体何の話なのかさっぱり分からないまま、終わりを迎えることになりました。
毎度毎度、くだらない話におつき合いいただいて、どうもありがとう。

(2003年5月29日 ケープタウン)

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