旅先風信58「ルワンダ」


先風信 vol.58

 


 

**虐殺記念館**

 

ルワンダにやって来ました。
日本で普通に生活していたら、もしかすると一生、その存在を知らずにいたかも知れないほどなじみのないな国です。

ルワンダでは、ガイドブックの取材はありません。
なので、当然旅行経費は自己負担ですが、連日の取材で疲れ切っていたので、ちょうどよい休息です。

と思ったとたん、気が抜けてしまったのか、首都キガリに着いて宿を探していると、急に気分が悪くなってまたまたぶっ倒れてしまいました。
最近本とよく倒れるなあ…。たまたま教会の人に助けてもらって、宿も確保できたのでよかったのですが、その日は1日中教会のドミトリーで臥せっていただけ。初日からついていません。おまけに、夜になって今度は胃がキリキリと痛み出し、黙って耐えられないほどにまでなったので、教会のシスターを呼んで助けを求めたところ、祈祷で治癒されてしまいました(笑)。

さて、ルワンダには、虐殺記念館なる、名前からして禍々しい博物館があります。
「社会勉強なんて云って、単なるコワイもの見たさのくせに」と自分で分かっていながらも、またしてもこのような、人類の”負の遺産”をのこのこ見にやって来てしまいました。さらに云うなら、これを見るためだけに、高いビザ代(40ドル)を払ってルワンダにやって来たのです。人非人と罵られても、返す言葉がありません(苦笑)。

体調が思わしくないときに、ヘビーなものを見るのは如何なものかと思ったのですが、アフリカに入ってからずっと移動の遅さに焦っているわたしは、”動く気のあるときに動かなければ”という気持ちが常に働いてしまって、この日も何となくだるい身体に鞭打って(でもないか)、シスターの目を半ば盗むようにして、出かけて行きました。

記念館は、ルワンダ第二の都市ブタレから、さらに車で30分のところに位置する、ギコンゴロという小さな村にあります。
この記念館の背景を簡単に説明しますと、かねてよりくすぶっていた多数派フツ族と少数派ツチ族という民族間の争いが、1994年、当時の大統領の飛行機墜落事故をきっかけに発展、3ヶ月にわたるフツ→ツチの大々的な虐殺が行われました。そのときの死体27000体を、村の小学校だった建物に収容し、展示(?)しているのが、虐殺記念館なのです。

1994年という数字が生々しいですね。たった9年前です。歴史の一部になるには、まだまだ時間が必要な気がします。
わたしは当時、高校3年生でした。まだ何もかもが未熟で、世界のことに目を向けるほどの余裕も視野の広さも持っていなかったので、当然このニュースのことも知る由もありませんでした。
それにしても、21世紀になろうかという時期に、こんな野蛮な殺し合いが行われていたことは衝撃的です。

ガイドに案内され、最初の部屋に入った瞬間、ものすごい臭気が鼻を突きました。あまりの臭いに、わたしは思わず声に出してうめいてしまいました。
な、何じゃこれは!?今まで嗅いだことのないような、何と表現したらいいか分からない、とにかく強烈な臭い。干物の腐ったような、いや腐敗の進んだ生ゴミのような、さらにそれを煮詰めたような…うう、こればかりは、実際に嗅いでみないと理解できません。“空気の缶詰”という土産物がありますが、本と、缶詰にして持って帰って、嗅がせて差し上げたいくらいですね。「エルヴィスノート」(※エルヴィスさんという旅人が書いたガイドブック。アフリカ縦断者は必携の書。ただし市販はされていない)に、「臭いは2日は取れない」と書いてあったのを、改めて思い出しました。

どの部屋にも、何の説明パネルもなく、ただただ白いミイラが何体も何体も、無造作とも云えるやり方で並べられていました。
ガイドはフランス語しか話さないので、わたしは説明を聞くことができません。
目の前にある大量のミイラと、あの強烈かつ特殊な臭いだけが、わたしに入ってくる情報でした。
黒人特有のチリチリの髪の毛が付着したままのミイラ、明らかに頭蓋骨を割られているミイラ、苦痛に歪んだままの末期の表情までが、白骨化した今でも見て取れるほどです。そして子供のミイラ…。子供のミイラはまるで、大きなカエルのように見えました。
そんな、子供のミイラばかりを集めた部屋に入ったとき、もうワケが分からなくなって、勝手に涙が出てきました。哀しいとか、むごいとか思う前に、先に涙腺が反射してしまった、という感じでした。隣でガイドが、(これは小さな子供たちだ)と身振り手振りで示しているのに、ただうなづくことしかできませんでした。どんな言葉も、この光景の前では、紙くずにすらならないほどです。

ある部屋には、頭蓋骨ばかりが並べられていました。
頭蓋骨の上に走っている波線が、とてつもなく不気味に見えてなりませんでした。これまで、幾度となく、教会などで大量の頭蓋骨群を見てきましたが、これほど薄ら寒い印象を受けたのは初めてです。パリのカタコンベなんかは、不気味な中にもどこか少し可笑しい部分もあったのですが、ここのは全くシャレになりません。或いは、イタリアのパレルモのミイラのように、見ていて静かな気持ちになど、とてもなれません。
ミイラ自体はすでに真っ白になっていて、どちらかというとその外見は、無機質な印象も受けました。不謹慎を承知で云うなら”人間の干物”。しかし、この臭いだけは、無機質どころか有機物満載、あまりにもリアルに嗅覚をついてくるため(まあ臭いはやっぱり干物っぽいけど)、こういった空間に共通する静謐さというものが、全く感じられないのです。
加えて、ミイラの手足の不自然なゆがみ具合や、表情らしきものが、彼らが普通に死んでいったのではないことをありありと示しており、胸がざわついて仕方ありません。

GYAKUSATSU2.JPG - 18,010BYTES 思わず撮ってしまった。。。

KIGONGORO1.JPG - 21,714BYTES 記念館の側に住む子供たち。アフリカのガキは可愛いなあ。。。

一体、何を思えばいいのでしょう。
こんなものを前にして、わたしは何を思い、学べばいいのでしょうか?
1週間前に始まった戦争によって、また世界のどこかで殺戮が繰り広げられようとしている。理由のない殺人が、白日の元で堂々と行われようとしている。やり方や規模の違いはあっても、いつまでたっても人類は殺し合いをやめない。
…絶望的な気分になりました。たとえ、どんなに恐ろしいことが起こり、その度に多くの人の命が失われ、多くの人が傷つこうとも、人間はそこから何も学べない、学ぼうともしない、そのときは最もらしく神妙な顔つきで反省しているふりをしても、また同じことを繰り返すばかりなのだ…戦争しかり、その他の犯罪しかり。人間はしょせん、その程度の存在でしかないのでしょうか。

ルワンダは、極東に住むわれわれの”アフリカのイメージ”を、180度ひっくり返すほどに、緑の美しい国です。
ここにも、「アフリカのスイス」などとまた誰がつけたか分からない喩えというか源氏名(?)が存在するのですが、スイスは云い過ぎとしても(笑)、車窓から見えるのは、まるで日本かアジアの農村地帯のようで、見るからにのんびりした、平和を絵に描いたような風景です。ウガンダも緑の多い国だったけれど、ここはもっと山がちで、より日本、アジアに近い印象を受けました。
記念館のある村は、本当にこんなところで殺戮があったなどとは信じられないほどに、平和で、平和で、平和で…、この素朴そうな人々が、武器を手にして人を殺しまくるところを、一体どうやって想像しろというのでしょうか?少なくともわたしにはできませんでした。

さて、記念館からの帰り道、わたしは自分の泊まっている教会の名前と場所を、うろ覚えで出てきてしまったことに、はたと気づきました。ミニバスに乗りながら、「うーん、キガリに着いたら真っ暗だろうし、ちゃんと帰れるんだろうか…」と心配していたら、案の定、帰るまでにひと悶着ありました(毎回これだ)。

教会は「バプティスト教会」であることははっきりしているのですが、正式名称なのかどうか分からないし、教会までは親切な人の車で連れて来られたので、ロケーションがさっぱりつかめません。
しかし、とりあえずバイクタクシーを捕まえ、「バプティスト教会?OK?」「OK」と云うので乗ったところ、全然違う教会をたらいまわしにされ、「あのー、多分この道じゃないんと思うんですけど…」と曖昧模糊な記憶を頼りに云ってみるのですが、運転手はほとんど無視…何やねんっこいつは!

最終的に着いたところは、昨日倒れて最初に運ばれた別の教会…泊っている教会とは、全然違うエリアにある教会でした。疲れと焦りはピークに達し、わたしはまた神経が2,3本キレてしまい、自分でもうそ泣きだか本当なのか分からないまま、とりあえず、まーた泣いてしまいました…最近は、泣けば何とかなるという、とんでもない考え方がすっかり身についてしまってますね。帰国までには直さないと、社会に適応できなくなってしまうな(苦笑)。
しかし、こっちの人はノー天気というか基本的に無責任なので、「ノープロブレム」を連発するばかりで、いつまでもプロブレムなままなのです。わたしがいらちなだけ、って話もあるんですけどね。
それでも、教会の人々が、「ウィーヘルプユー、ノープロブレム」というので大人しく待っていたのですが、何の変化も起こりません。人々はわたしとはカンケーのない話できゃっきゃと盛り上がっています。やっぱりな、と思いつつ、ついに業を煮やして「一体誰が助けてくれるっていうのさ!もうイヤだ!歩いて帰る!(※歩いて帰れる距離ではない)」と例の如くわめき、歩き出した途端ずべっとこけて倒れながらも(マンガだな)、とにかくがしがしと、当てもなく歩いて行きました。
そこからは、一体どうやって帰ったのか、自分でもよく分かりません。その辺の人を捕まえては道を尋ね、ミニバスに乗り…を繰り返して、最終的には通りすがりの親切なお兄さんに助けられて、泣きながら教会に帰ったのが夜9時。久々に迷子の恐怖を味わった、長い長い2時間でした。

それにしても、虐殺記念館のようなものを見ても、わたしの精神は全く成長しないなあ。。。

この原稿を書きながら、ふと靴下を脱いでみると、2日間風呂に入れなかったせいで、ものすごい臭いが…んん?これどこかで嗅いだことがあるな…と思ったら、今日のあのミイラ臭に限りなく近いではないですか…。愕然。

(2003年3月27日 キガリ)

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