旅先風信47「イスラエル」


先風信 vol.47

 


 

**ホーリー&バトル(ホーリー編)**

 

イラクツアーから無事生還したと思ったら、24時間経たないうちに、またまた何かと問題の多い国・イスラエルへ、しかもイラクツアーメンバー全員で入国(アンマン経由)。なかなかクレイジーでよいね。

イスラエルの入国スタンプがあると、アラブ諸国で入国を拒否されるというのはけっこう有名な話。ご存知のとおり、中東の鼻つまみ者だからね。
で、どうするかっていうと、ヨルダン側のキングフセイン橋というところから出国し、出国税の紙に出国スタンプを押してもらう。そして、イスラエルのイミグレーションでは、別紙に入国スタンプを押してもらう。帰りはその逆。これでイスラエル入国の痕跡はパスポートに残らないというわけ(その間はヨルダンにいたことになるわけだ)。

さすがに荷物チェックも、他の国とは段違いに厳しい。指紋を取られたのなんて初めて。ヨルダンなんて、何でもかんでもテキトーだったもんなあ…。
これはその後、イスラエルのあらゆる場所で体験することになる。バスターミナル、博物館、お店、カフェテリア…けっこうな確率で荷物チェックがある。そして、街のいたるところにアーミーがいる。
ちなみに、入国した際の第一印象は、イスラエル人、けっこう美男美女が多いってこと。最初に見たアーミーの兄ちゃんなんて、たまげるくらい男前だったわ〜。

さてエルサレム。エルサレムと云えば聖地。ホーリープレイス。
ユダヤ教の”嘆きの壁”の向うに、イスラム教のモスク”岩のドーム”の金色の屋根が燦然と光る。そこから数分歩けば、イエス・キリストが磔にされた場所に建つ”聖墳墓教会”がある。そういう場所。
これらは全て旧市街と呼ばれる、そう広くもないエリアにあるのだけれど、聖地と云うより、何だか宗教のテーマパークみたいな感じだ。キリスト教地区、アルメニア人地区、ムスリム人地区、ユダヤ人地区という4つのエリアに分かれていて、何気なく歩いていると、ある地点からいきなり風景が変化する。ユダヤ人地区は閑静な高級住宅地のような雰囲気なのだが、お隣のムスリム人地区に足を踏み入れた途端…見たことのあるあの風景ではないか(笑)。ガラベイヤ(民族衣装)が吊るされ、或いは皮をはがれた牛や何やらが吊るされ、むやみにうるさく、ゴミの多いアラブの風景がそこにある。

JERSALEM25.JPG - 38,694BYTES 手前が嘆きの壁で、金の丸屋根が岩のドーム。

宗教を趣味で選ぶというのは全くもって邪道だと承知の上で、あえて云うならわたしはキリスト教が好きだ。
教義に関しては???と思う部分が多々あるので信者にはなれないが(キリスト教って博愛主義のイメージがあるけど、実際には「信じる者は救われる」つまり=「信じる者しか救わない」んだよね。それを知ってちょっと興冷めた)、単にグッズとか可愛いじゃん、ってだけのことです。ははは。マジ邪道だね。教会の内装とか道具も好きだし、イコンも好きだし。嶽本野ばら氏が「乙女の宗教はキリスト教で決まりでしょ」と云っていたのを、今さらながら納得する。ロリータの端くれとしては、やっぱりロリータ自体がこういうところから来てるんだろうなあ、と思ったりする。ま、つまりは、ディテールが好きってこと。
キリスト教の聖地である聖墳墓教会の祭壇なんて、もうこれでもかというくらい激しい装飾(笑)でドキドキする。ここはあらゆる宗派が共同で管理する教会なので、各宗派のミサが同時に見られたりして、なかなか楽しい。
それにわたし、長い間ヨーロッパをほっつき歩いていたせいか、教会には何となく親近感があるのだ。街歩きで疲れたらよく教会で休んでたしね。手紙なんかもよく書いた。いいお休み処。

キリスト教ゆかりの地はエルサレムはもちろん、イスラエル全土に点在している。
イエスが生まれた地ベツレヘム、イエスが預言者ヨハネから洗礼を受けた地ヨルダン川(ここの水が聖水としてお店で売られている。さすがに買わなかったけど)、マリアが大天使ミカエルから受胎告知を受けたナザレ…あと、イエスが奇跡を起こした地というのがたくさんある。
エルサレムだけでも、主の泣かれた教会(一応涙の形をしている)やら、主の祈りの教会やら、弟子のパウロが「鶏が鳴く前にお前は3回わたしを知らないという」とイエスに予言された話に由来する鶏鳴教会(ややこしい説明ですまぬ)、マリアの永眠した教会、イエスが血を流しながら祈ったゲッセマネの園などなどなど…信者は大変だね。いや、逆に嬉しいのかな?関係ないけど、ゲッセマネって響き、すごく荘厳でクールだわね。

さて、気になる宗教グッズキリスト教編(誰も気にしてないって)、代表的なものとしては、オリーブの木で出来た十字架(何故オリーブかと云うと、オリーブ山というイエスゆかりの地があるので)、首から下げるロザリオ、ペンダントヘッド、開閉式イコン、マグネット(傾けると絵が変わる)、マリア像、天使人形、ミニカードや絵葉書類も実に多彩でおもしろい。キリスト教徒のドライバーが運転しているバスやタクシーに乗ると、イコンのラミネートカードなんかがぺたぺた貼ってあって、何だか笑える。アイドルかよ!?って。
わたしは壁掛け用の小さな十字架と、貝で出来たロザリオのペンダントヘッドと、安いポストカードを山ほど購入。でも信者じゃないんだけどね。

JERSALEM61.JPG - 57,889BYTES 聖墳墓教会。ゴルゴダの丘の上に作られた、装飾過剰な祭壇。

そのキリスト教の元となっているユダヤ教は、何と云ってもあの不思議な”もみあげクルクル”ヘアスタイルが印象的。初めて見たときは誰しも驚いたに違いない。わたしだってそう。いきなり自分の目の前に、もみあげを縦ロールにしたお兄さんが現れたときは、本当に息を呑んでしまったよ(笑)。
あれは子供のときからちゃんとやっているんだね。年端もゆかない可愛い男子が、キッパ(ユダヤ教特有の頭にちょこんと乗せる帽子)にもみあげクルクルスタイルで歩いているのを見ると、何だか分かんないが「すげー」と思ってしまう。
大人になると、もみあげクルクル+口ひげあごひげ+黒いつば広帽子+黒いコートという、どっからどう見てもユダヤ教徒!と分かる格好に仕立てていて、団体でいたりするとなかなかスペクタクルな光景だ。
でもねー、これもみんなヘンだヘンだって云って笑いものにしてるけど(わたしも笑ったけどさー)、これまたロリータをかじっていた者としては、分からないこともなくって。つまりあの黒装束にもみあげクルクルは、彼らのアイデンティティつーか、ある種の武装みたいなもんではないのかと思うわけだ。他人に何と思われようと、あの格好を貫くことによって、ユダヤ教徒としてのアイデンティティをさらに強固にしよう、或いは確認しようとしているのではないか、と。理由は何にせよ、ポリシーを持って服を着ている人たちという意味では、共感できる部分もあるし、敬意を表したいとも思う(わたしはそんなにマジメに服は着ていないけどね)。

そんなユダヤ教は、格好が格好だけに(?)、精神的にもかなり閉鎖的なもよう。新市街のとある一角にある、メア・シェリームという”敬虔なユダヤ教徒だけが暮らす街”に行くと、顕著にそれが分かる。
何せここの入り口には、「我々の生活を邪魔しないでくれ」とか「女性は半袖の服やズボンで立ち入らないように」といった注意書き(?)がでかでかと掲げられており、写真的にはこれほど面白い場所もそうそうないのだが、当然写真もダメ。いや、ダメなことはないんだろうけど、ヒッジョーに撮りにくい雰囲気なんだ。これは実際に足を踏み入れてみて初めて分かった。
宗教グッズマニアとしては(ウソつけ)、一応ユダヤ教グッズの店も覗いておかないといけないんだけど、けっこう入りにくかったな。どっからどー見てもユダヤ人じゃないカンペキにひやかし客のわたしは、「何しに来たんだこいつ?」という目で見られていそうな気がして、ちょっと固まってしまった。グッズの代表的なものは、メノラーと呼ばれる燭台や、ラビ(先生の意)のポスターなど。おみやげにはゴッドハンズと呼ばれる手の形のお守りが有名(これはけっこう可愛い)。

JERSALEM100.JPG - 24,575BYTES 白い垂れ幕が注意書き。

イスラム教に関しては、エルサレムに限った特殊な点はないように思うので省略(てか単にイスラム教は趣味じゃない…装飾タイルとかはキレイだけどね)。
ただ、岩のドームに入れないというのは、かなり残念。トライした人も何人かいたけど、誰も成功しなかったらしい。
岩のドームというのは、ムハンマドが昇天した地とされているのだけど、何がすごいって、ユダヤ教の聖地である神殿の丘(この壁面の一つが嘆きの壁なわけだ)の上にどどーんと鎮座していることだ。これじゃまるっきしケンカ売ってるでしょうよ(笑)。
ちなみに、グッズは…何だろう??数珠とか??今いちシュミに合わん感じ。

長々とくだらないことを書いてしまったな。。。
でも、宗教ってのは実に色々な問題を内包しているので、興味はつきない。宗教が分かれば世界がワカル、なんてどこかのハウツー本みたいなフレーズだが、宗教の問題というのは、想像以上に深く世界に根を下ろしているような気がする。お気楽日本人としては、例えば宗教ゆえに戦争するなんて、宇宙の彼方の思考って感じがするけれど…。

宗教にすがることができたら、今自分の中でこんがらがっているさまざまな問題も、一気に解決できるのかも知れない、と思うこともある。
つい先日、ぷらぷらと旧市街を歩いていたら、プロテスタントの日本人シスターに声をかけられた。彼女たちは、13年間エルサレムで”神にお仕え”しているのだと云っていた。内容はともかく(「イエスさまはわたしたちのために死んで下さったんですよ」とかいう話)、彼女たちの話しぶりや立居振舞には、揺るぎない自信や落ち着きのようなものを感じ、羨望にも似た気持ちがわいてきた。教会にも案内してもらったが、ああ、こんな静かなところで神に仕えながら生活するというのはどんな感じなのだろう、と思った。もちろん、キレイなことばかりではないんだろうけど…(何だかんだで金の問題とかありそうだし←って、穿った見方?)。

でもやっぱり、ひとつの宗教に帰依するというのはわたしにはムリだ。それって、いかにも日本人だけど。
日本人の宗教に対する無節操さは、世界基準から見るとおかしいのかも知れない。でも、逆に、宗教ゆえに殺しあったり、憎みあったりすることもないし、無宗教であるはずの日本こそが世界で最も平和な国のひとつでもあるわけで、むしろ個人的には無宗教のどこが悪いのか、全然分からないくらいだ。
実際、無宗教であることのデメリットよりも、メリットの方が多いからそれを選んでいるわけで。確かに、結婚式はチャペルで、葬式は寺で、ってのもヘンな話だけど(笑)、その宗教のいいとこだけを味わえる(?)と考えれば、それもまた楽しい気がするしね。
以前、レバノンで会ったオランダ人の女の子と少しだけそんな話をしたことがあった。「宗教がないっていうのはいいことなのかどうか分からない」とわたしが云うと、「宗教から自由であるというのは、とてもいいことよ。わたしは確信を持ってそう云うわ」と云っていたっけ。ちょうどそのとき、彼女の友達が、宗教の違いゆえに、恋人と引き離されそうになっていたのだそうで、その言葉には重いリアリティがあった。

まあ、わたしだって、何か確固たるポリシーがあって無宗教なわけではない。単に、これはスバラシイ、と全面的に思える宗教に会ったことがないだけで。仏教なんかは、あの何となくユルい感じがけっこう好きなんだけど、そんなに勉強したわけではないので、ヘタなことは云えない(外国で宗教を聞かれたら「仏教徒」って云うけどね。多分ほとんどの日本人旅行者はそうだろうな)。
その点、例えばキリスト教ってのは一神教だから、けっこう厳しいし、他の宗教を「サタン」とか云っちゃうところが何かいただけない。ちなみに聖書、これまたちゃんと読んではいないけど、何だかビジネス書みたいだなあと思った。「上に立つ者の心得」とか書いてあるし、「持てるものはますます与えられ、持たざるものは持っているものさえも取り上げられるであろう」なんて、まるっきし資本主義じゃん!
もちろんいい言葉もいっぱいある。わたしが好きなのは「求めよ、さらば与えられん。叩け、さらば開かれん」ってのと、「ヘビのように賢く、ハトのように素直であれ」っていう一節。「裁くな、自らが裁かれないために」ってのも好きだ。これは英語だともっと響きがカッコいいんだけど(確か”Judge not, to be not judged.”だったと思う)。

宗教ってのは、あるいはメーカーのようなもので、例えばパソコンを買うときにソニー製にするか東芝製にするか、みたいな違いじゃないのかなあとも思う。根本はきっと、どの宗教も同じで(つまりはどれもパソコンには違いないっていうこと)、こっちの方が宣伝が上手いとか、評判がいいとか、そういうことなのではないかなと。ま、こんなアホなことが云えるのも、日本人ゆえ。日本に生まれてよかったな。イスラム圏とかだと完全に打ち首もんだよ。

…何だかどんどん長くなるので、もうこの辺でやめときます。次回はイスラエルのもうひとつのお楽しみ(冗談です)、戦闘編です。

JERSALEM6.JPG 嘆きの壁の前で嘆く(祈る)ユダヤ教徒たち。

(2002年12月9日 エルサレム)

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