旅先風信46「イラク」


先風信 vol.46

 


 

**イラクツアーの顛末**

 

話が前後しますが、イラクツアーとはそもそも何なのか、そして何ゆえわたしが参加することになったのかについて、まずは説明いたしませう。
現在世界で最もアブナい地域のひとつと見なされているイラク。目下アメリカとの緊迫した関係で日本でもいろいろ騒がれているようで、「イラクに行くことになりやした」と何人かの友人にメールを打ったところ、「正気か?死ぬぞ!」という返事がほとんどでした(笑)。

それというのも、ベイルートの宿「タラルス」で、バックパッカー界では有名なめいよーさんという旅行者に偶然お会いしたのがきっかけでした。
彼は、イラクツアーの第1陣メンバーで、彼がアンマンのクリフホテルの情報ノートに残した「イラクツアーガイド」のコピーを、そのとき一緒にいた彼女と2人で見せてもらっていたのですが、何に惹かれたかと云うと、みやげの欄に書かれていた「サダムウォッチ」「サダムバッジ」などなど、サダム・フセイングッズについての言及でした。
こういうナンセンスなものが大好きなわたしは、「まーイラクにはそれほど興味がないが(何があるのか知らないし)、サダムグッズは欲しいかも…」という、本当にどーでもいい理由で、イラクに行ってみるのもアリか…という気持ちが芽生えたのです。

しかし、このツアー、最小催行人数が5名。これが多くのイラクに行きたい旅行者たちのネックになっているようです。つまり、自分が行きたくても、ほかに4名の希望者が見つからなければ、断念するか、えんえんと人数が集まるのを待つしかないのです(※2002年11月現在、個人の旅行は不可能)。
加えて高額。1週間で500ドルは、通常のバックパック旅行からは考えられない値段です。わたしが、出発の間際までブルーだった理由もこれでした。500ドルが一気に無くなるということは、いずれどこかでしわ寄せが来るワケです。1ヶ国、或いは何カ国かをこの先削るハメになるかも知れない…。そう思うと、何だかお先真っ暗みたいな気分になり(すぐ物事を大げさにするわたし)、ツアーの代金を払い込んだ直後など、茫然自失して、ツアー催行を喜ぶほかのメンバーを尻目に、うなだれてホテルに戻り、「大丈夫?調子悪いの?」と心配される始末。。。

ツアーの段取りは、大体こんな感じです。
@アンマンの「クリフホテル」でレセプションに参加の旨を告げ、「イラクエアー」に連絡を入れてもらう。
A「イラクエアー」に出向き、ビザの申請などを代行してもらう。金もこの時支払う。
Bビザが下りれば即、出発。申し込んだその日の内にもイラクに行ける。
とってもカンタン♪って、わたし何にもやってないけどさ。。。

さて、今回のイラクツアーメンバー及び主要人物についても紹介しておきましょう。

【ツアーメンバー】※わたしは除きます。
彼女…毎度おなじみ(?)、現在わたしと旅をともにしている1つ年上の女子パッカー。明るくしっかり者。
Tさん…紛争地域好きな(?)渋谷のバー店長。と云っても年は若く、わたしより2つ上なだけ。ひょうひょうとしたキャラ。ホモに好かれやすい。英語レベルはわたしと同等くらい。
マキさん…元スッチーのおねーさま。旦那さんのキーちゃんとともに、仕事を辞めてパックパックで世界旅行中。いい感じに天然ボケ。
キーちゃん…マキさんの夫で、アイルランド人の銀行マン。日本在住が長く、日本語は超ペラペーラ。いかにもガイジンな風貌のキーちゃんが「やべえ」とか「カンケーねーよ」とか云うと笑える。しかも結構ブラックなことを云う(笑)。

【ガイドのみなさん】
ワリード…サマッラカンパニー(ツアーを主催している会社)のガイド。物静かで温厚、まじめな人柄。かの本多勝一氏(ジャーナリスト)のガイドも務める知的なおじさん。
シビル…政府側ガイド(※こういうのが必要なところがイラクって感じだね)。昔イラクエアで働いていたせいか、何となく外国ナイズされている陽気なお兄さん。若い嫁との新婚生活に浮かれている。
おやじ…名前が分からんけど、ワリード氏の後任で来たガイド。悪い人ではないのだが、云うことなすこと空回りが激しく、ツアーメンバーからしばしばヒンシュクを買っていた。何となく気の毒なキャラだった。

それでは以下、イラクツアーのあらましを綴っていきたいと思います。

ツアーを申し込んだその日の夜9時半、まるで夜逃げのように(笑)アンマンを出発して、いい感じにウトウトしてきた頃に国境越えでたたき起こされます。
また夜中のイラク(ヨルダン)が寒いんだこれが…。実はこのとき、エイズチェックがあると聞いていて、こんな夜中にしかもこんなくそ寒いのに注射なんてゼッタイイヤだぶるぶる…と震え、Tさんに「××ちゃん、死相が出てるよ」と云われるほど青ざめていたわたし。結局エイズチェックはこのときはなかったんですけどね。
何をやっているのかよく分からないうちに時間は過ぎ、国境を越える頃には、夜中の4時を回っていました。

…目が覚めるとそこはすでにバグダッド市内でした。
謎の首都、バグダッドの第一印象は…「え?結構大都会?」。
そうなのです。石油パワーで道路状態は最高だし、建物もなかなかキレイで、郊外の家なんか、何やら金持ちそうに見える。ううむ、しょっぱなから予想を裏切る展開です。最も湾岸戦争直後は焼け野原で何にもなかったそうですが…(ガイド談)。

この日の宿はバグダッドの”三ツ星ホテル”…と聞いてはいるものの、これは一体???と首をかしげたくなるようなシロモノでした(笑)。内装がすごいセンスで、白と灰色の壁に(刑務所かここは)、ゴブラン調のソファ、そして何故か金魚のいるエセオリエンタルな水槽…うーん、よう分からん。。。さらにおかしいのは、異様なほど部屋が広いこと。それもムダに広い。何と云うか、実に不思議な空間でした。

この日は、第1日目らしく、バグダッド近郊にあるクテシフォンのアーチと、「アル・ラシードホテル」玄関のブッシュ前大統領の踏み絵を見学という、軽いスケジュールで終了しました。
しかし、ウワサには聞いていたものの、本当にブッシュの踏み絵が存在するとは…こんなものを5つ星ホテルに作るというセンスがすごいですねえ。パンクだわ。かつてはあちこちのホテルにあったそうですが、今はここだけです。
そう、すごいセンスと云えば、イラクって、近未来的というかビッグシュールな謎の建造物が色々とあるんですよね。直接は見られなかったけど、絵葉書の写真で、桃太郎の桃がぱっくり割れたような青色の建物があったんですが(何ゆえ青色??)、あれは何だろう…。でもこういう面白いもんがあっても、ばしばし写真を撮れないのが残念。写真禁止の場所が多いのです。

次の日は、バビロンの塔、あるいは空中庭園で有名なバビロン遺跡の見学です。
ところがこれが、話に聞いていたとは云え、かなりガッカリな遺跡でして…。
と云うのも、遺跡のクセしてピカピカなんですよ。ダンテの『神曲』に出てくる地獄門も、ホンモノはベルリンの博物館にあるんだって…。つまり、すべてレプリカなのです。
その後も、メソポタミア文明のさまざまな遺跡を見て回るのですが、メソポタミア文明ってどうもマニアックというか、今いちピンと来ないもので、わたしはもちろん、他のメンバーもあくび交じりでどうにもやる気が見られません(笑)。

HATRA13.JPG - 16,964BYTES 一応遺跡の写真も載せておくか…。これはイラク最大の遺跡ハトラ。

翌日、われわれは、ツアーを1日延長し、本来のツアー日程には組み込まれていない、イラク南部のバスラという街に向かいました。これは、第1回目のめいよーさんたちのツアーと同じです。
バスラは、クウェート国境に近く、湾岸戦争で激戦区となった街。ここには、戦争で多国籍軍が使用した劣化ウラン弾の影響で、病気になり死んでいった子供たちの共同墓地があります。
まるで、ゴミ捨て場のように無造作な墓地でした。死人の数に対して土地が追いつかないとでもいうかのように。周りで子供たちが普通に遊んでいるのを見ると、「この子達は、このお墓の意味を知っているんだろうか…」と、複雑な思いにとらわれます。
わたしたちが見に行った日も、真新しい墓が作られていました。

BASRA7.JPG 墓を作る人。

ちなみに、バスラ郊外、クウェートとの国境付近には、湾岸戦争で破壊された戦車の”残骸集落”があるそうですが、そこは放射能汚染地域、ジャーナリストでも何でもないわれわれは、さすがに行けませんでした。しかし、砂漠の上にえんえんと連なる戦車の残骸は、写真で見る限りでも凄まじい光景です。

この日はしかし、そんなヘビーなものを見つつも、夜はガイドさんとみんなで連れ立って、シェラトンホテルのビリヤード場に行って、和やかなひとときを過ごしました。
シビル氏はなかなか上手で、キーちゃんと熱い戦いを繰り広げていましたが、ワリード氏は黙って見ているだけ。マキさんが「どうしてやらないの?」と尋ねると、「やり方を知らないんだ…今までずっと働いてばかりでこういう遊びを覚えるヒマがなかった」と答えていたのが、何やら切なかった。

次の日は、『シンドバッドの冒険』のシンドバッドがここから旅立っていったという(?)シンドバッド島へのボートトリップからスタート。
チグリス河とユーフラテス河は、バスラまで来るととっくに合流していてアラブ川というひとつの川になり、われわれのボートはそのアラブ川をクウェート方面へと下っていきました。
「ここがシンドバッド島です」と降ろされ、ふむふむと歩いていると、ものの数分もしないうちに「じゃ、戻ってください」との号令が…このツアーではしばしばこういうことがある。要するに過密スケジュールなのです。ゆえに、ほとんどが移動。また移動が長く、車の中では喋るか、寝るか、本を読むかしかやることがないので、Tさんの持って来ていた『ノルウェイの森(上)(下)』が車内で大人気(笑)。わたしは読んだことがなかったので、思わぬところで読めてラッキーでしたが。
この日は、車は再びバグダッドへ。宿泊は当然、あの謎の三ツ星ホテルです。

さて、このツアー、場所が場所だけに、終始ガイドが付き添い、自由行動というものはほとんどありません。
しかし、それじゃあ当然面白くないのが、われわれバックパッカーってやつです。
この日も、夜の8時以降は外出禁止、などと云われ、部屋に閉じ込められていたのですが、みんなでTさんの部屋に集まり、何とか外出しようと策を練りました(って、そんな大したことではないのですが)。
すっかりグループの責任者にされている彼女は、ガイドにずいぶん釘をさされたらしく少しためらっていましたが、「だいじょーぶだって!」と残りの無責任なメンバーたち(笑)があおって、みんなでタクシーに乗って、夜のバグダッドへ繰り出しました。
マキさん曰く「何かさー、修学旅行の夜みたいじゃない?」…確かに(笑)。しかもここは、ワケありの地イラクってことで、興奮もひとしおです。

夜のバグダッドは、予想以上ににぎやかで活気がありました(写真館にアップしてあるのでまた見て下さいな)。
大きなメインストリートを挟んで、たくさんの店が建ち並び、その中には、ちょっとこじゃれたブティックまであります。
店に売られているものは、ほとんどが中国製品で特に面白みはありませんが、わたしと彼女は骨董品屋のようなところで、サダムの古切手を買ったり(これがまた、サダムの若かりし頃から現在までの変遷が分かっておもしろい)、時計屋で幻のサダムウォッチ(これは今イチなデザインで、値段も高かった)を発見したりと、サダムグッズ中心に(笑)見て回っていました。

そうそう、イラクって物価がめちゃくちゃ安いんですよねー。相場はこの当時、1ドル=2010イラクディナール。ちょっとしたお菓子やコーラなどのソフトドリンク、絵葉書が250ディナール(約15円)で買えることから考えて、いかに安いかを推し量っていただければと思います。
この250ディナールというのが、最もよく使われる紙幣で、10ドル替えたら250ディナールが3センチくらいの札束になって返ってきたもんね(笑)。
ちなみに、日本までの切手(葉書)=100ディナール(約6円)。こんな値段でほんまに届くんかいな?!(→と心配だったがちゃんと届いてた)

道行く人が人なつこく声をかけてくるのは、ほかのアラブ諸国と同じ。しかもイラクはツーリストずれしていないせいか、シリア並みにフレンドリーな印象です。モロッコやエジプトにありがちな、「ぼったくってやろう」というオーラが感じられないのがいいよね(笑)。

ここからは、ベクトルをぐるっと反対に向けて、ひたすら北上です。
途中、またまた遺跡の見学をいくつか挟んで(お腹いっぱいだって)、到着したのはモスルの街。ここは北部イラクの主要都市で、規模も大きく、街なかには教会やモスクが多くあり、市場はなかなか活気があります。
バグダッドで夜のお忍び(笑)に成功したわれわれは、モスルでも当然のようにこっそり外出です。ここでは何と、わたしと彼女が血眼になって(ウソ)捜し求めていたサダムバッジを発見!バグダッドでは全く見かけなかったので、もはや幻のアイテムかと思っていましたが…調子に乗って12個も買ってしまいました(バカだねー)。
一方、別行動していたTさん&キーちゃんの男性2人組は、散歩していただけでも、外国人が珍しいイラクでは完全にアイドル状態。気がつくと背後に民衆の行列ができていて、かなり怖かったそうです。

MOSLE17.JPG - 16,566BYTES モスル名所・傾きミナレット。

またまたバグダッドに帰って、次なる目的地は…病院でした。
何ゆえ病院?と思われるでしょう。ごもっともです。実はわたしにもよく分かりません。
この病院には、バスラの墓地同様、湾岸戦争の影響で白血病や奇形になった子供たちが入院しているのです。

前のツアー、その前のツアーでも病院には行ったということで、われわれもプランの中に入れたわけですが、病院に行くことに、わたしは正直、気が進みませんでした。
そこまでして、見るべきことなんだろうか。白血病や奇形で苦しむ子供を見て、一体どうしようというのだろうか。
少なくとも、わたしが病院を見たい、子供たちを見たいという気持ちの実態は、結局悪魔的な好奇心に過ぎないような気がするのです。社会勉強という名のもとに、「真実を見たい」というよく分からない大義名分のもとに、自らの好奇心を満たしたいだけではないのか、と。
バックパッカーの中には、こういう負の面を見たいという人が多いように思います。わざわざスラムに出かけたり、危険だと云われている場所に行ったり…。わたしも人のことは云えませんが。

この日は結局、パーミッション云々の問題で、病院に入ることはできませんでした。
残念な気持ちも少々、でも見に行かずに済んだことに、内心胸をなでおろしていました。
あくまでも旅行者である、という立場を踏み越えなくてよかった…と。

湾岸戦争の際、アメリカの爆撃に遭ったアメリヤシェルターにも行きましたが、あいにく工事中で、内部の見学はかなわずじまい。ガイドの計らいで、1分だけ、写真を撮る猶予を与えられはしましたが…。
天井に1箇所、大きな穴が空いているのは、爆撃の跡です。爆弾が落とされた瞬間、シェルターの中はオーブンのような状態になり、中にいた人々を焼き尽くしました。
アメリカ側の云い分では、ここは軍事基地だったので攻撃したということらしいですが、実際にシェルターに避難していたのは、民間人の、それも女性と子供が多数だったといいます。どちらが正しいかは、わたしには知る由もありませんが、ともかくも、約400人の命がここで絶たれたことだけは事実です(これも、人数に食い違いがあるようですが)。

AMERIYA3.JPG - 16,106BYTES アメリヤシェルター内部。

バグダッド市内に戻ると、もう夕方。最後の夜は、うわさのサダムタワーでお食事かしら、と思ったら、いつも行っているレストランだったので、「たまには違うレストランで食べようよー」と、まるでマンネリ化したカップルの彼女のようにだだをこね、別の店に行ったところ…出てきたものは結局いつもと同じ。何だよ何だよー(と手足をばたばたさせる)。

そう、イラクの飯ですが…これがまあ見事なほど毎日一緒(笑)。たとえレストランを変えても、出てくるものは、間違い探し程度の差しかありません。
選択肢は次の通り。「チキン?マトン?ケバブ?(すべてwithライス)」…これのミックスってのもあるけど(笑)。で、出てくる量も半端じゃないんだこれが。最初は「マトン美味いなー」なんて喜んで食べていたけど、日が経つにつれ「いや、もう肉はいらないんで、何か野菜の料理ありますか?」と尋ねるほどに飽きてしまいました。
たまに魚を食べたりもしましたけどね。見たことないような巨大魚だったけど…あれは一体何??
ちなみに、アイスは安くて美味しいです。ま、これは中東全土どこでもそうですけどね。

最終日は、イラク博物館とバグダッドミュージアムへ。遺跡に興味のないわれわれが、今さら博物館を見てどうしようというのやら。しかし、予想に反してこのイラク博物館はすごかった。さすがはメソポタミア文明、お宝ぎっしりです。展示物以外にも、まだまだ倉庫に仕舞われているというのだから、これが世界の日の目を浴びた日には、カイロの考古学博物館にも引けを取らないかも知れません。国の情勢ゆえに、こんなところで眠っているのが、何とももったいないことです。

というところで、イラクツアーは終わりです。ここからは、補足的に感想をつらつらつらと。

全体的な印象としては、「イラク、平和だなー。それに、もっと貧しい国だと思ってたけど、物も意外に豊富だし、予想以上に近代的だし」ってとこでしょうか。
96年まで経済制裁を受けていたイラクですが、それまでは自給自足で、それ以降は石油とのバーター取引で、食糧や日用品に関しては、政府が管理して人民に行き渡らせているとのことでした。何だか社会主義国みたいですね。何だかんだで、政府は人民の生活をそれなりに支えているように思えました。

イラクと云えば、サダム・フセイン。てか、ほとんどの人はイラクに関しての知識って云ったら、それしかないのでは?わたしだってそうでした。すでに書きましたが、フセイングッズを入手したい、というのがツアー参加の芽生えだったんですから(つくづくアホだ)。
アメリカからは毛虫のように嫌われているフセインも、こちらでは半ば英雄です。市井の人々に軽く「プレジデントは好き?」と尋ねると、おおむね良好な反応が返ってくる。実際のところは、北朝鮮のように国民が”洗脳”されていて、悪口を云うと秘密警察にしょっ引かれるのかも知れませんが、わたしの目には少なくとも、人々は普通に大統領を支持しているように見えましたし、ワリード氏は「フセインは、アメリカに対して唯一NOと云える人間だからね」とやはり好意的な発言をしていました。
ちなみに彼女は、前述のバッジはもちろん、ポスターやらフセイン肖像入りお札セットまで買い込み、まるっきしフセインのファンと化していました…帰国したら、部屋中フセインだらけだなこりゃ(笑。完全に女子の部屋じゃないですね)。

さて、いろいろ長々と書いてきましたが、わたしはまだ、大事なことをひとつ書き残しています。
われわれの入国した日は、国連の査察が入ったのと同日でした。それさえなければ、イラクエアのおっさんが事前に云っていた、「フセインにも会わせてやろう」などという信じがたい発言も、もしかしたら実現していたかも知れません。
しかし、ツアー中、カーステレオから聞こえてくるニュースでは、今にもアメリカの攻撃が始まりそうな勢いで、冗談半分で「捕虜にされるかもねえ」なんて云っていたことが、本当になるのではないかとさえ思いました(一瞬ですが)。

ま、結果的にはそのようなことはなく、いたって平和なツアーとなったわけですが、最終日、ガイドのワリード氏がわたしと彼女の部屋にあいさつに来たときのこと。
「今アメリカとのことはどうなっているの?」と尋ねると、
「状況はよくない。アメリカは今すぐにも攻撃してくるかも知れない」という嬉しくない答えが返ってきました。
「何で?そんなのおかしいよ」とわたしたちが少々興奮気味に云うと、彼は半ばあきらめたような、苦しそうな笑みを浮かべて「Pray for us.」と、ひとことだけ、静かに云いました。

…わたしはこの言葉を、大げさでもなく、感傷的になっているわけでもなく、一生忘れることはないでしょう。
彼にとっては、本当に、ギリギリの言葉だったのだと思います。しかし、何と多くのことを内包しているひとことでしょうか。
まだ、何も起こってはいない、静かな夜でした。ツアーは何事もなく終わろうとしており、われわれは、それなりに楽しかった思い出だけを持って、明日にはこの国を去るのです。
しかし彼らは、今にも何かが起こらんとしてはち切れそうな状況の中を、生き続けなければならない。いつ果てるとも知れない不安の中で…。
もう1人のガイド、シビルはこう云っていたそうです。
「朝、目が覚めて、世界が全く変わっていたらいいのに、っていつも思うんだ」

ワリード氏が帰ったあと、わたしも彼女もしばらく黙っていました。何を云ったらいいのか、何を云っても適切ではないような気がしました。
そのうち、何だかもう、どうしようもない気持ちになって、わたしは彼女の前で号泣しました。自分でもびっくりするくらい、あとからあとから涙が出てきて止まりませんでした。人前で泣くなんて、自分の流儀に反することですが、そんなことはもうどうでもよかった。言葉が出てこない以上、泣かなければ、気持ちが収まりそうになかったのです。

このツアーで、英語ができないわたしは、ガイドに色んなことを質問して、色んなことを吸収しているように見える他のメンバーに比べて、何も学んでいない、いったい何しに来ているんだろう…と自己嫌悪に陥ることもしばしばでした。
彼女などは、ワリード氏ともシビルとも本当によく話していて、彼らが将来は2人で旅行会社を作りたいと考えていることや、今のイラクの現状なども、わたしはすべて彼女を通して聞いていました。わたし自身では何も得ようとしていなかった。

でも、ワリード氏の最後の言葉は、わたしがこの耳で確かに聞いた、生の言葉でした。
これを聞くためだけでも、わたしはイラクに来た意味があったのかも知れません。たとえそれが、具体的に誰かのためにならなくても。

少なくとも国内的には平和そうに見えるイラク。
人々の表情に絶望的な暗さなどはなく、あくまでも普通であり、むしろ余裕のようなものさえ感じられるような気もしました。
でも、本当は、いつ始まるか分からない戦争の影におびえながら、人々は生活しているのでしょう。前の戦争の傷もまだ癒えないままに…。
たとえ安易なヒューマニズム精神だと罵られようとも、わたしは戦争には絶対的に反対です。
世の中にはさまざまな必要悪がある。でも、戦争だけは、どのような理由の元であっても、間違いなく悪だと思うのです。

イラクで会った人々が、何もわたしにとって特別な人々だというわけではありません。これまで旅してきたほかの国と差があるわけではない。
ただ、彼らが戦争で死んでいくのを見たくはない。それだけは…。ワリード氏の言葉どおり、彼らに対して、どうか何事も起こりませんように、と祈りたい。
いつもは、罵詈雑言や呪いの言葉ばかり書き散らかしているこの旅先風信ですが、この偽善者め、と思われるのは承知の上で、今回は、世界平和を祈って終わりにしたいと思います。

(補足)ツアー日程について

ここまでの文章で大体のことを書きましたが、もし今後行かれる方のために、参考程度に、カンタンにまとめてみました。ほかの第一陣、第二陣、それ以降のツアーとは微妙に違うかも知れませんが。

1日目→バグダッド到着。まずは、このツアーの代理店であるサマッラ・カンパニーに行き、今後の段取りなどを話し合う(って、ほとんどテキトーだったけど…)。その後、クテシフォンのアーチ。さらにその後、「ブッシュ前大統領の踏絵」があるアル・ラシードホテルを見学。

BAGDAD1.JPG - 18,207BYTES「BUSH IS CRIMINAL」と書かれたタイルの踏み絵。

2日目→朝っぱらからエイズチェック(ツアーが高額なのは、多分世界一高いビザ代150ドルと、このほとんど無意味なエイズチェック50ドルのせい)。その後、”空中庭園”と”バビロンの塔”で有名な、バビロンの遺跡を見学。
イスラム教シーア派の聖地ケルバラを経て、同じく聖地ナジャフへ。ナジャフで少しだけ夜の町を散歩。ナジャフ泊。

3日目→ツアーを1日延長して、イラク南部の大都市、バスラへ。途中、世界で最も古い文明の発祥地と云われるウルの遺跡に立ち寄り、階段ピラミッドや、アブラハムの家なるものを見学。
バスラは、湾岸戦争の激戦地となった場所で、郊外には戦車の”残骸集落”がある(そこは放射能がすごいので行けませんでした)。市内にも、戦争の影響でガンや白血病になって死んだ子供たちの粗末な墓地があり、そこを見学。夜は何故かシェラトンホテルを見学。見学じゃなくて宿泊にしてくれ(笑)。そこでビリヤードと卓球に興じる。バスラ泊。

4日目→バスラからボートでシンドバッド島へ。かの『シンドバッドの冒険』のシンドバッドがここから出港したとか。島上陸時間はたった5分(苦笑)。写真を撮る間もなく去る。
常に監視のついているこのツアーでは、自由行動はほとんどないのだが、この日の晩は、ガイドの目を盗んで夜のバグダッド市内へ繰り出す。なかなか活気があって楽しかった。

5日目→バグダッドから北上。北の大都市モスルを目指す。まずはサマッラで、巻き巻きウンコの形をしたミナレットを見学。その後、おそらくイラク最大の遺跡と思われるハトラを見学。観光客、誰も居ず(笑)。夕刻過ぎ、モスル着。

SAMARRA3.JPG - 11,562BYTES サマッラのウンコ塔。

6日目→午前中、古代アッシリアの都市遺跡ニルムードを見学。しかし、遺跡見学に飽きたメンバーを代表して、マキさんが「もう遺跡はいい。他のことをしたい」と主張し、近くのベドウィンのテントでウルルン滞在記なひとときを過ごす。その後、モスル市内観光。モスク、教会、傾き加減が妙なモスルの斜塔などを見学。あとは市場をぶらぶら。

7日目→バグダッドに戻る。アメリヤシェルターの後、病院見学予定だったがなくなる。サダムタワーは時間がなくて行けず。最後の晩ということで、ガイド公認での夜の街歩き。しかしそこは、前にみんなで忍んで行った場所と同じで(笑)、みなヤル気なし。

8日目→午前中、イラク博物館を見学。メソポタミア文明のお宝がザクザク眠る博物館。当然ながら観光客もいないので、まさにお宝独占状態。その後、イラクの生活変遷を奇怪なろう人形で展示した、バグダッド博物館へ。ここでイラク観光は終了。あとはひたすら、ひたすらヨルダンに向かって走るのみ。ちなみに、午前11時ごろバグダッドを出て、アンマン到着は夜中の1時でした。

※この原稿を書くにあたって、めいよーさんのイラクガイドを参考にさせていただきました。旅行中もイラクガイドにはずいぶんお世話になりました。多謝!

(2002年12月)

さらに補足。

この原稿をアップするより先に、戦争がはじまってしまいました。戦争開始のニュースを聞いたのは、ウガンダのカンパラでした。路上で売られている新聞の一面は、当然ながらすべて”WAR on IRAQ”。わたしは、その文字と、爆撃されたバグダッドの写真を見つめながら、やり切れない気持ちでいっぱいでした。どうしようもなく悲しく、何故こんなことになったのだろう、と考えても仕方のないことを考えながら、カンパラの街をひたすら歩き倒しました。

同じ宿に泊っていたEさんという女性が、別の街で、カナダ人のツーリストたちと一緒にニュースを見ていたときのことを話してくれました。テレビの画面には、戦争を支持する国と反対している国を、それぞれ旗で示していたのですが、カナダの旗が”反対”側にあるのを見て、カナダ人たちはとても喜んでいたそうです。その隣で、日本の旗が”支持”側に映し出されるのをつらい気持ちで見ていた、と彼女は云っていました。

フランスやドイツが、堂々と戦争反対を掲げているのを見聞きするにつけ、「日本は結局アメリカのペットでしかないのだろうか…」と、悲しくなります。世界の人々は、日本人以上に、日本が唯一の被爆国であることを覚えているというのに、当の日本はまるで何事もなかったかのように、相変わらずアメリカアメリカと云って追随している。色んな、複雑な事情があるのは分かりますが、素人感情としては、もうちょっとしっかりしてくれよ日本、と思えてなりません。

また、わたしの尊敬していた作家が、戦争に関してコメントをしていたのを、ファン仲間が送ってきてくれました。
詳しくは省きますが、「頭の悪い人たちが、やみくもに『戦争反対』を唱えてる。バカみたい。戦争は経済を動かすためにあるのに、そんなことも知らないでバカのひとつ覚えみたいに云々」てな記述がありまして、送ってきてくれた友人同様、わたしもかなり憤りを感じました。
ほかにもいろいろ書いてあったけど、何だかもう、頭が痛くなるような内容で、これが本当にわたしの尊敬していた人なのかー???と、しばし混乱をきたしてしまったほどです。
ま、それはさておき、わたしはこれを読んで、「戦争反対を唱えるのがバカなことだと云うのなら、わたしはバカでもいいや」と思ったのでした。

今ごろのアップになってしまったことを、本当に反省しています。別に、いつアップしようが、戦争には何の影響もないんだけどさ…。原稿は敢えて当時のものに若干加筆と修正を施したのみにしました。なかなかアップできなかったのは、名前や事実関係の確認が億劫だったのと、あれこれ追加してやろうとか、もっと推敲してやろうという欲があったせいで(どちらも挫折)、実際にはほとんど出来上がっていたものです。

この先、戦争がどのような局面を迎えるのか、想像もつきませんが、多くの一般市民と同様に、わたしもただ、一刻も早く終結することを祈るのみです。戦争を望んでいるのは結局、一部の特権階級の人間だけなんだよね。何様だっての。

事実関係に間違いのある場合はご指摘下さい。

(2003年3月25日)

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