最近(改めて)気づいたこと。
・人はみな『ウルルン滞在紀』な世界が好きだということ。
・自分が非常に性格の悪い人間であるということ。
前回は、取り乱した内容ですみませんでした。
今回も引き続きそういう原稿になるところでしたが、先ほど、何日かぶりにメールを読み、友人から励ましやらアドバイスやらをもらって、少しラクに、そして冷静になりました。
一番納得したのは、「和田アキコと田中真紀子が一緒にいて上手くいくわけない。1人が喋る人間だったら、もう1人は聞き役に回る。これで世の中丸く収まるってもんです」というサダおじさん(※リトアニアYHで知り合った東欧大好きなバックパッカー)からのアドバイスでした。さすがにおじさんは(おじさんだけに)大人だなあ。わたしももうちょっと大人にならねば。…でもまたいつ爆発するか分かりません。そんなに人間できていないもので。
彼女とはまだ一緒にいます。
イラクツアーの参加人数が集まるまで、ヨルダン最大の見どころであるペトラ、そしてワディ・ラムを回ることになりました。
ペトラは、かの『インディ・ジョーンズ
最後の聖戦』の舞台になった遺跡です…とか云ってまたわたし、この映画観ていないんですよねえ(毎回これだ)。でも、ペトラの宿「バレンタインホテル」では、しっかりビデオが備え付けられており、未見の人間にとっては嬉しい上映会が行われるのです。
残念ながら日本語の字幕はなかったので、云ってることはほとんど分かりませんでしたが、画面を見ていれば何となく分かるのがあのテの映画のよいところ。で、感想は…リバー・フェニックスめちゃめちゃカッコいい。そんだけ。
ペトラのハイライトはいきなりやって来ます。
長いシーク(切り立った岩に挟まれた道)を歩いていると、岩と岩の間のごく狭い視界からピンク色が見えてくる。これが最大の見所、エル・ハズネ(宝物殿)です。この見え方というのは、映画で見知っていてもやはり感動的なものです(しかし穿った見方をすれば、女性器みたいにも見えたりして…すみません下劣で)。
そしてシークを抜けると目の前にばばーん!とその姿を現すのですが、これがまあ、巨大も巨大。でありながら、優雅でもある。ベドウィンたちが長い間秘密にして守っていたという逸話もうなづける壮麗さです。惜しむらくは、内部には何も残っておらず単なる空洞である、という点でしょうか。
少しずつ見えてくるエル・ハズネ。
どっかーん!と、これが本体。
さて、ここまでは彼女と、もう1人大学生の男子と一緒に行動していたのですが、ふと思い立って、久しぶりに1人で動くことにしました。
すると、まるで翼でも生えたように身も心も軽くなり、スキップしながら鼻歌でも歌いたいような気分になり、何だか素晴らしくワクワクしてきたのでした。
そもそも、美術館や遺跡を見るのは1人の方がいいのです。誰かが一緒だと、お互いにつまらない感想をくどくどと述べ合う結果になり(感動はそんなにすぐに的確な言葉にはできないものです)、わたしはケチなので、せっかく受けた感慨をそんな風に消費するのはイヤなのです。まあ、実際はそんなもったいぶるほど大した感動なんてないのかも知れませんし、もちろん時には、誰かと感動を分かち合うということがあってもいいのですけどね。
1人になると、わたしは限界まで歩き倒すので(一種のビョーキですね)、とにかく行けるところには全て足を運ぶという勢いで動き回りました…が、ペトラは広い!目に見える範囲では全然ヨユーに見えるのですが、いざ歩き出すとすごい距離。。。ともかくは、エル・ハズネと並ぶもうひとつのハイライト、エド・ディルに行かなければ話になりませんが、これがまた、ものすごい奥地にあるんですよ。よくこんなとこにこんな巨大なもん作ったね、って感じ。何せ、入り口のステップがわたしの身長(162センチ)くらいあるんですからねー。誰が入るんだ。
エル・ハズネよりも巨大なエド・ディル。
ところで、ペトラにはタダで入る方法というのがあります。
というのも、元々ここは入場料がバカ高いことで有名で、現在はそれなりの値段(1日券の学割で1000円くらい)に落ち着いたものの、以前は3000円で学割なし、というパッカー泣かせの遺跡だったようです。ゆえに、何とかして入場料を払わずに入ろうという試みがなされたのも無理はありません。
初日、アンマンから同行していた3人の男性がしっかりタダで入っていたので、わたしも2日目はそうしようと思い(ちなみに彼女はちゃんと2日券を買っていた。こういうところからも、彼女>わたしという不等式が浮かび上がってくる)、簡単に段取りを聞いてトライしてみました。ポイントは朝早く行くこと。しかし、朝の弱いわたしはこの時点で失敗していたのですが…。
正規の入場口にいたる道の右側に延びる道を上り、そこから入るという情報だけを得てやって来たものの、「大丈夫、バカでも分かるから」と云われて来たものの…。
これがもうハンパじゃないくらいハードな道!!!いや、これは道ではない!岩だ!ただの岩!1,2メートルくらいの崖を上り下りするのはもはや当たり前。ロッククライマーなら喜びもしたでしょうが、わたしはか弱い女子旅行者ですからね(自分で云うな自分で)。
しかも恐ろしいことに、方向がほとんどつかめない。コンパスなんてこの際何の役にも立ちません。だって、目印が何にもないんだもの。えんえんと岩が続くばかり。
ヘタにこっちかなー、と思って岩をぴょんぴょん飛び降りていると、間違ってしまったときサイアクです。またトカゲみたいにはいつくばって上らないといけなくなるのです。で、そういう場所を慎重に避けつつ、なるべく平らで道のようになっている部分を選んで歩きつつ進んでいくと…いつの間にかものすごい絶壁の上に立っていたりします(笑)。いや、今だから(笑)なんて書けますが、そのときの恐怖と孤独と云ったら…。何しろ不法侵入しているので、助けを呼ぼうにも呼べないし、そもそも人がいません。人だけでなく生物自体がいない、といった感じなのです。途方に暮れながら、何故か友達に絵ハガキを書いたりして気を落ち着かせつつ(謎の行動だ…)、またぞろさまよっていると、エル・ハズネに至るシークの入り口が足元、はるか下に見えました。
どうやってあそこまで下りようかと思案、と云うより困惑していると、運の悪いことに、どこからともなくポリスが現れて、「こら、何をしてるんだ!」ととっ捕まえられてしまいました(あーマヌケだ)。
私「いや、ちょっと散歩してただけです」(すげーいい訳)
ポ「何っ!?こんなところをか?とにかくチケットを見せろ」
私「チケットはありません。昨日もう見学し終わったから、今日はこの辺をお散歩してみよーかなーと思って歩いてたんです♪」
ポ「ウソつけ。タダで入ろうとしたんじゃないのか」(その通り)
私「そんな、滅相も無い。歩いていたらいつの間にか道に迷ってこんなところに来てしまったんですよ。てへっ」
ポ「道に迷った?アホか。もっとマシないい訳をしろ!」
このような押し問答が5分くらい続き、いよいよポリスがわたしを引っ張って行こうとしました。
わたしはほとんど半泣きになって、「本当に道に迷っただけなんです!もう遺跡に用はないの。ほら、昨日のチケットがあるでしょ。もう見終わってるんですって!」と訴え続けてみました。すると、やはりそこは女子にやさしいアラブ人(笑)、急に何を思ったか、「イーグルの墓は見たか?」などと云い出し、そこら辺を案内し始めたのです。さらには、(彼曰く)地元民でもめったに見ないという青色のトカゲを発見し、「ほら、早く写真を撮れ」とすっかり協力的になる始末。青色のトカゲには興奮しましたけどね。
結局わたしは彼に連れられ、無事に、そしてタダで遺跡の中に入ることができました。「もうあんな場所を歩くなよ。タダで入ったと他の人には云うなよ」と釘をさされつつ。
青トカゲくん。本当に珍しいのかどうかは謎。
ペトラは夜がまた素晴らしく、遺跡こそ見えないものの、シークの隙間から見える濃紺の夜空と月明かりが、この世のものとは思えない光景を作り出します。ロマンチック、神秘的…うーん、もっと適切な言葉が思いつくといいのですけど。1人でぼんやり歩くのもよし、恋人と2人で歩くとさらによろしい(最近こういう発言が多いわね。飢えてんのかしら)。
ま、ペトラの話はこれくらいにして、次なる地、ワディ・ラムへ舞台を移しましょう。
モロッコ、チュニジアと砂漠ツアーに参加し、テント生活もラクダ乗りもやったし、砂の世界はいい加減腹いっぱいだー、とも思ったのですが、ワディ・ラムは『アラビアのロレンス』ゆかりの地であるという点で、わたしを突き動かしました。ロレンス好きなんですよ。そんなに詳しくないけど、神坂智子の『T.E.ロレンス』というマンガが素晴らしく面白かったのと、ロレンスの矛盾した性質―ものすごく頭脳明晰で有能な人間でありながら、同性愛者でマゾヒストだったという―が何とも興味深くて。人間、矛盾を抱えていると本人は非常に苦しいだろうけど、人間的には面白いなあと思いますね。
ワディ・ラムには、前日ペトラで出会っていろいろ案内してくれたり、茶をごちそうしてくれたベドウィンの兄ちゃんたちと連れ立って出かけることになりました。わたしだけならありえない展開ですが、そこはそれ、彼女の天才的なコミュニケーション能力により、彼らとすっかり仲良くなったため実現したこと。ベドウィンにとって砂漠は庭みたいなものです。ワディ・ラムはアクセスが大変なのですが、彼らと一緒だとその辺のことを何も考えなくて済むのでラッキーではありました。
彼女はもちろんベドウィンたちとも、その中の1人のガールフレンドである(と云うか旅行中にそうなったらしい)メキシコ人女子とも打ち解け、『ウルルン滞在記』の如く砂漠ライフを満喫している模様でしたが、わたしは全く対照的に、1人で砂遊びをしたり(暗い子供のようだ…)、散歩したりと、実にサツバツとした時間を過ごしていました。もちろん、話し掛けられればそれなりにニコやかに応えますが、自ら積極的に溶け込んでいくことができません。彼女がそうであればあるほど、わたしはますます頑なになり―ほんと、おかしな話なんですけど―、自分でも加速度的に”感じ悪いヒト”になっているのが明白に分かりました。
ベドウィンのお兄たち(ちょっとポーズ)。
そんなとき、砂漠の上を1人歩いていると、まるで天啓にでも打たれたように、「そうだ。わたしは元々性格が悪いんだ。ここのところスッキリしなかったことはそれだったんじゃないか」と思い立ちました。
妙な話ですが、そう思った瞬間、視界がぱっと開けたように感じました。
性格が悪いのに、それをムリによくしよう、いい人になろうとするから色々とひずみが起きるんだ。つまり、悪魔が天使になろうとしてもダメってことだ。悪魔は悪魔らしく、始終邪(ヨコシマ)であらねばならない。この世がすべて陰陽で成り立っているなら、自分の本分を忘れてはいけない。
…って、何だか意味が分かりませんけど、そう思ったら少しラクになれました。ここ最近、まるで悪魔に取りつかれたように嫌な性格になっていましたが、何のことはありません。元々わたし自身が悪魔だったのですよははは(でも素行はいいけどね)。
大体、何でいい人にならなアカンねん。世の中いい人ばっかりやったら、いい人がいい人でなくなってまうやん。わたしのような根性の曲がった人間がいてこそ、いい人はいい人として世に認知されるんとちゃうんかい。そう。これもまた役割分担ってやつなんだ…。
不思議なもので、性格が悪いということを自覚すると、改善しようとするどころか、ますます嫌な人間になっていくということです。
金持ちがどんどん金持ちになり、貧乏人はその逆であるという法則に酷似していますね。
この場(ワディ・ラム)に限らず、彼女が周りの人間と仲良くしようとすればするほど、わたしはそこから遠ざかりたくなりました。何でそんなことをしてしまうのか、自分でも分かりません。彼女が善人であろうとするなら、わたしは悪人になってやる、そんな気持ちなのかも知れない。とにかく、彼女とは違うことをしたかったのです。だって、彼女の真似をしたって、彼女に叶うわけないんだから。だったら、悪い方向であっても、彼女と逆のことをしていた方がいい。彼女が人から好かれているなら、わたしは人から嫌われていた方がいい…。気が狂ってると思いますか?わたしもそう思います。こんな風にしか考えられないわたしは、何かに呪われてでもいるのでしょうか?
彼女はほんと、何と云うか心根がまっすぐな人で、仲良くなったベドウィンと、同じく仲良くなったワディ・ムーサ(ペトラ観光の拠点)の村の人が仲が悪いこと(理由は利権問題だとか)を結構本気で悲しく思っている様子で、まああっちで「あいつらとは仲良くするな」こっちで「あいつらはここの住人じゃない」といがみ合っているのを聞かされれば確かにいい気分はしませんけど、少なくともわたしは、彼らのために心を痛めることはできない。そんな余裕はわたしにはありません。
そういうささいな点からして、彼女とわたしの人格の優劣がくっきりと炙り出されてくるような…ああ鬱。
ただわたしのダメなところは、根っこが小心者なので、徹底した悪人にもなれないということ。
わたしに、エルゼベート・バートリ(400人もの若い女性をいたぶり殺していたハンガリーの殺人鬼)のような冷酷さがあれば、そこまででなくともせめて、大島弓子や嶽本野ばらの描く乙女のような図々しさがあれば、こんなつまらぬコンプレックスなどに悩まされる必要もないのに。
このコンプレックスを乗り越えたら、わたしはいい人になってしまうのでしょうか?何だかそれもバカらしい気がします。
ただ、いったいわたしはどういう人間で、今後どうなりたいのか?それを嫌が応にも考える機会を、彼女は与えてくれたのかも知れません(と無理矢理前向きになってみる)。
…そんなことをつらつらと考えていた砂漠での1日でした。
燃えるような赤い砂と、そそり立つ豪快な岩壁と、4WDではなくタダの軽トラでぶっ飛ばした砂漠の道なき道と、満天の空の下でする野トイレと、そして悪魔のように感じの悪いわたし。以上、ワディ・ラムの思い出。
赤い砂漠。
ワディ・ラムからの帰りは、疲れていたせいもあって、終始憂鬱な気分でした。
彼女に対しても全く友好的な気分になれず、「もうこれ以上一緒にいると、自分の精神バランスが崩れてしまう。もう限界かも知れない」という気がしました。
宿に戻って、まだイラクツアーの人数が集まらず、あと何日も待たなければならないとしたら、わたしはツアーから外れるつもりでした。高額を払ってまたストレスの多い旅をするのは嫌だったし、実際のところ、わたしにはそこまでイラクに行きたいというモチベーションはなかったのです。それならもう1人に戻って、とにかく前に進みたい。前へ、前へ、前へ…。
ところが、帰って来てわれわれを待っていたのは、幸か不幸か、人数が集まったという朗報(?)でした。
わたしは詳細を聞く気も起こらず、頭数を揃えること、そして金を支払うことだけがわたしの使命だ、それさえ果たせばわたしなんかいてもいなくても関係ない…と、投げやりな感情しかわいてきません。
バックパッカーの間では一種のアコガレのようになっているイラクツアー。そのツアーに参加できるというのに、これほどヤル気のない旅人はわたしくらいなものでしょう。そんなにイヤやったら俺が代わりに行ったるわ!という人はあまたの数いると思います。
しかしこれが世の中の不平等というもの。イラクに行くという運命は、何故かわたしのところにやって来てしまったのです。旅人のみなさん、本当にごめんなさい。
かくして、怒涛のイラクツアーがここに幕を開けることとなったわけです…。
(2002年11月15日 アンマン)