旅先風信34「ユーゴスラビア・ボスニア・クロアチア」


先風信 vol.34

 


 

**行き止まりの明日**

 

長かったブダペストを抜けて、ユーゴスラビア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナと一気に南下してきたのはいいものの、思わぬところで足止めを食うことになってしまいました。
今いるのはドブロブニク。クロアチアの東の端にある、”アドリア海の真珠”と呼ばれるリゾート地です。
ここは、パッカーの間でもすこぶる評判がよく、まだ行ったことのない人でも何故か「ドブロブニクに行きたい」と云う人は多い。何でもあの『魔女の宅急便』のモデルになったとかで、確かに旧市街の美しさはヨーロッパでもトップクラスでしょう。”魔女の宅急便説”も充分納得できます。

しかし、ここはリゾート地ゆえ、物価が高い。宿代も高ければ食費も高い。西欧で云えばスペイン、ポルトガル並といったところでしょうか。
本来なら、こういう場所は見るもの見てさっさと立ち去らねばならないのですが、あいにく次へのルートを描くのが思った以上に困難であることが判明したのです。
予定では、ここから船でギリシャに渡るつもりでした。ところが、いざ来てみればギリシャまでの船は出ていないというし(ロンプラにはあるって書いてあったのにー!)、バスの便もない。このバスというのもまた、ギリシャに行くために最短距離と思われるアルバニア、マケドニアへすら走っていないのです。かと云って、今さらボスニアに引き返して…というのもバカらしい。
とりあえず船でイタリアに渡ってそこからギリシャへこれまた船で、という手もあるけれど、お金も時間もかかりすぎる…。まさに行き止まり。閉じ込められた気分です。でも悩んでいるヒマはありません(金がどんどんなくなるからね)。

DOBRO9.JPG - 18,451BYTES 城壁の内側からドブロブニク旧市街を見る。

ブダペストからは本当に早かった。何しろここに来るまでが4日、その内3日は夜行を使って移動してきたのですから。
まるで何かに取りつかれたようでした。
ユーゴスラビアの首都ベオグラードには1日しかいませんでした。来る前からちょこちょこ「ところでベオグラードって何があんの?」と尋ねられ、また尋ねもしたのですが…うーん、一体何があったんだろう。如何にも元社会主義国らしい暗さとボロさ、それが大まかな印象です(美術館は超安かった…タダのところもあった)。後から聞いた話では、NATOが誤爆した中国大使館が新市街にそのまま残っているということだったので、最大の見どころはそれではないでしょうか(おいおい)。残念ながらわたしは未見です。

そして、第一次世界大戦の発端の地であり、つい数年前までは内戦の繰り広げられていたボスニア=ヘルツェゴヴィナの首都サラエボへ。
こういう場所のことを書くのは、実はかなり困難です。以前にアウシュビッツの回を飛ばして未だ公開していないのも同じ理由によります。云いたいことはもやもやしているのに、それをどう云えばいいのかが、本当に分からないのです。

サラエボのことを思い出すと(ってもつい3日前だけど)、まず浮かんでくるのは、多くの建物に残る銃弾の跡です。銃弾の跡さえなければ、ここも、ごく普通に美しいヨーロッパの1都市であった筈なのです。
戦闘の最前線だった場所の建物などは、
それこそ無数にボコボコ穴が空いているし、旧共和国議会ビルやオスロボジェーネ新聞社の巨大な廃墟はあまりにも生々しく、戦争が決して過去の遺物ではないことを無言の内に物語っています。1982年冬季オリンピックの開催地でもあったサラエボですが、そのグラウンドには今、内戦で亡くなった人々のための白い墓標がこれまた無数に建っています。
云い方は悪いけれど、これらがサラエボの見どころです。アウシュビッツ同様、機会があれば、いや作ってでも見ておくべきでしょう。こういうものを目の当たりにしなければ、人はしばしば平和をないがしろにしてしまいます。”平和ボケ”などという平和をバカにした言葉が定着し、ともすれば平和ボケから目覚めるために(としか思えない)戦争を起こしたがる。

SARAJEVO7.JPG - 40,651BYTES オリンピックスタジアムに林立する墓。内戦時のものが圧倒的に多い。

SARAJEVO18.JPG - 28,188BYTES 原爆ドームよりも生々しいオスロボジェーネ新聞社。

スナイパー通りと呼ばれる大通りは、内戦時、セルビア軍が(※ちなみにこの戦いは旧ユーゴからの独立をめぐるセルビアvsムスリム・クロアチア軍の戦い…だったと思います)ビルに立てこもり、通りを動くすべての物を標的にした、という事実からこの名がつけられています。このスナイパー通りをずっと下っていったところに、上の写真の新聞社が建っています。内戦中も社員たちは地下のシェルターにこもって毎日、新聞を発行していたそうです。何と云うジャーナリスト魂でしょうか…。活字を扱っていた者のはしくれとして、また今後もそれに携わりたい者として、こみ上げてくるものがありました。

新聞社の隣には、完成間近だったという老人ホームの廃墟が残っています。
この原色の廃墟には、何と人が住んでいるのでした。戦争で家を失った人々でしょう。旧市街(中心地)のにぎわいを見ている目には、ここだけがまるで『北斗の拳』の世界に見えました。
前を通りかかると、すすけた顔の子供たちが群がってきて「金をくれ」と云います。わたしは本当に手持ちの金がなかったので何もやりませんでしたが、その後も1人かなりしつこくついてくる子供がいたので、首に下げていた安物の指輪を1つあげました。それで満足して帰ってくれるかと思ったら…甘かった。指輪は2つあったのですが、こいつは、もう1つの指輪をチェーンから引きちぎりやがったのです。子供のした
こととは云えムカつきました。いや、ムカついたというより、そうせざるをえない境遇なのかと思って哀しかった。

サラエボでは、テレサの情報ノートにも書いてあったディカさんというおばさんの家(プライベートルーム)に泊りました。
実はサラエボには、旅人の間で半ば伝説になっている、イヴァナという自称27歳の(本当は50歳くらいらしい)女性のプライベートルームがあって、客引きにあうままにそこに行ったが最後、男性は貞操を奪われるということなのです。実際に泊った人の話を聞くと、やはりこれは事実のようで、「ベッドに寝ていたら何故かそこに腰掛けてて、いつの間にか手が伸びてきていた」らしい(笑)。さらに、別のある男性が泊ったときのこと、イヴァナがバスルームから出てきたところ、その姿は真っ赤なミニスカートに編みタイツだったそうです。。。
しかしそれも、どうやら戦争で少し頭がやられてしまったせいだということなので、となると笑える話というより、むしろ、同じ女性としてもの哀しささえ覚えてしまいます。
ともあれ、わたしはイヴァナの客引きにはあわず(サラエボにはバスターミナルが2つあり、わたしが降りたのはマイナーな方だったので)、バスターミナルで一緒になった日本人のコソボさん(仮名)とともに、ディカさんのお家に行きました。
おばさんはほとんど英語はできませんでしたが、めちゃめちゃ人なつこい人で、やたらと「マイベイベ(my baby)」を連発していました。シャワーから出たコソボさんの頭をふいてあげたりしていたわ(笑)。色々食べ物も出してくれたしね(手作りっぽいチーズが最高に美味しかった)。

SARAJEVO26.JPG - 57,503BYTES 歩いていると突如現れる「地雷注意!」のテープ。街なかに地雷。。。

そこからまたまた夜行バスに乗ってここドブロブニクへやって来たわけです。
ディカおばさんに教えてもらい、ロンプラにも乗っていた有名なプライベートハウスに行ったはいいものの満室で、そこの紹介で何故か近所の普通の家に泊ることになってしまいました。ボンジョヴィやらマイケル・ジョーダンやらのポスターがべたべた貼ってある様子からして、わたしのこの部屋は元子供部屋らしい。。。プライベートハウスならではの家人とのふれあい、みたいなのもなく、何だかなと思いつつ、久々のシングルなので大いにパソコンも叩けるというわけです。

先述したドブロブニクの旧市街ですが、いやはや、ここ本っ当に美しいです。周りを高い城壁が取り囲んでいて、この城壁に上って(有料)見渡す街ときたら…絶句です。ヨーロッパの美しい街並みをいやと云うほど見てきたわたしの目にすらそうなのですから、これが最初のヨーロッパだったりすると気絶するかも知れません。ここだけがまさに宝石箱のようにキラキラしているのですよ。陽に照り返すオレンジ色の屋根屋根と青いアドリア海…誇張でも何でもなく輝くばかりの美しさです。どこからか魔女のキキが現れても全く不思議はないと思わせる、この非現実的風景(笑)。

そんな旧市街を眺めつつ、ふと思い出すのはテレサのみんなのことでした。
「魔女の宅急便って云うけどさー、そういうのって本当に宮崎駿が云ってるわけ?パキスタンのフンザがナウシカってやつとかもそうだけど」って誰か云ってたなー、とか、どうやらギター初心者らしい福ちゃんが、ヒマにまかせてかき鳴らしていた魔女の宅急便のテーマ曲とか…ドブロブニクに行くために練習してるとか云ってたっけ…。
美しい風景を独り占めできることが、うれしいときもあれば寂しいときもある。今は後者の方です。みんなと一緒ならもっと楽しかっただろうに、1人ではこれはもったいないよ…なんて。そしてフラッシュバックのようにちらちらと浮かんでくる、さまざまな瞬間。朝生トーク後ソファでダウンしていたわたしに、アクセルが布団をかけてくれたこと(ほんと泣かせることをする子だよ…)、うさぎやの帰り、「スタンドバイミーで帰ろう」と云って線路の上を歩いたこと…宿を出る直前に撮ったみんなの写真。我ながら、何て感傷的な人間なんだ!とイヤにもなるけれど…。

DOBRO22.JPG - 51,835BYTES 写真ではとても伝えきれない美しさのドブロブニク旧市街。バックのアドリア海とのマッチングが絶妙としか云いようがない。

そんなに寂しいなら、もう少し滞在を延ばしてもよかったのです。そうする自由はわたしにはあったはず。自分の中の潮時みたいなものを感じて振り切るように出てきたわけだけど、その潮時をもしかしたら見誤っていたのかも知れない…。
そう思わないためにも、早く移動しなければならない。だって、ここで1人足止めを喰らうくらいなら、もう少しブダペストにいたってよかったわけですから…そう思うといてもたってもいられません。それに、必死で移動していないと、寂しいという気持ちに呑み込まれてしまいそうで怖いのです。

なす術もなく、とりあえず今日はビーチでごろごろしていました。
日本にいた頃は「水着を着るのがイヤ」というただその一点だけで、海・プールの類にはほぼ絶対的に行かない人間だったのですが、いざやってみると、ビーチライフってやつはなかなかいいもんだ(笑)。ウイーンでYさんと交換した本『マザーネイチャーズ・トーク』を読みながら、いつの間にかうたた寝に入っていく瞬間の気持ちよさ…ま、1人でビーチってのもなかなか寂しいものではありますけどね。
ともあれ、旧市街も見て、アドリア海のビーチも味わったので、明日には何とかしてここを出たいと思いますが、未だ全く構図が浮かびません…。

(2002年8月26日 ドブロブニク)

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