旅先風信172「カンボジア」


先風信 vol.172

 


 

**再会、また再会**

 

アンコール・ワットに、正直そこまで心を揺さぶられないことに、旅に慣れてしまった哀しさを思う今日のこの頃…(笑)。

真ん中に小さく見えるのがアンコール・ワット。

いや、すごいですよ、アンコール・ワット。素晴らしいと思いますよ。
ただ、観光客が多すぎるのと、整備が行き届いているのとで、遺跡と云うより観光地色が強くて、どうも浸れないっつーか…。
建築のすごさも、すごい!以上の感想を抱けないと云うか、カジュラホとか、エローラとかをつい思い出してしまうと云うか(苦笑)。
これを旅の最初に見ていたら、まるで違う思いを抱いていたかも知れない。いや、きっとそうに違いない(ああ、なんてもったいない)。長い旅をしていればいずれは、多かれ少なかれこうなるものなのでしょう。でも、自分は、好奇心のテンションを比較的高いところでキープし続けられる旅人だと、勝手に自負していたのです。
もちろん、アンコール・ワットを見ないという選択肢はないし、ワット以外の遺跡もくまなく周遊&観光するよい子の旅人であることには変わりがないけれど、それはもう、ある意味、日常業務に近い。そこに遺跡や観光地があれば行くものだ、というふうに、行動パターンが出来上がっているのです。

とか云ってますけど、3日間フルスイングで観光してはいるの(笑。やっぱり)。
アンコールワットのチケットは、1日券、3日券、7日券と選べる3タイプがあり、念のためと3日券を買っていたので、ついつい3日間、全力で頑張ってしまいました。メインの観光は1日目で終了してしたんだけどね☆
とにかく、とことんまで元を取らなければ気が済まない人間なのです。というわけで最終日も、早朝5:00起きでアンコール・ワットの日の出を見に行ったり、夕方4:30から30キロはあろうかという道のりを自転車をこいで周ったりと、相変わらずの苦行好きを発揮していました。何を血迷って「GRAND TOURコース」を、日没前からスタートしてしまうのか……。人気のない、不気味に静まり返ったジャングルの中の道を、汗だくになってチャリで進む姿は、我ながら本当に気の毒でした。あまりに自転車を漕ぎすぎて、大事な部分が痛くなりました。。。

アンコール・ワットよりは、アンコール・トムの方がわたし好みで、感動具合も大きかったですね。
特にメインのバイヨン寺院は、巨大な石の顔が林立する、不思議な、いや、ある意味気持ち悪い(笑)遺跡。仏の顔とは思えないほどの迫力と凄みがあり、しかもバカみたいにでかいので、圧倒されまくりです。巨大顔にばかり気を取られてしまいますが、何気に、壁画のレリーフの細かさと盛り盛り具合にも目を見張るものが。また、夕方に見たバイヨンは、ぞっとするような不気味さがあって、まるでひとつの巨大生物のように迫ってくる感じに、軽くおののきました。
あと、後日訪れたベンメリア。アンコール・ワットのチケットに含まれてないけど、ここはぜひとも行っておきたい!ひと言で云うと「樹海に埋もれた巨大な廃墟寺院」。もう響きだけでゾクゾクするのだけど、こんなものが惜しげもなく(?)ジャングルに打ち捨てられているというシチュエーションは圧巻! 遺跡はこのくらい打ち捨てられているのが美しいですよねー。
きっとアンコール・ワットも、昔はこうだったのでしょう。あれがジャングルに埋もれている場面を想像すると、何だか恐ろしい感じさえします。あまりに整いすぎた現在のアンコール・ワットには、ロマンとか風情、或いは“色気”といったものがすっぽりと抜け落ちているように思えます。
そう、色気。ベンメリアには色気があるのです。アンコール・トム(バイヨン)も、かなり整備されてはいるけれど、あの、他の追随を許さぬ個性あふれる(ヘンな)造形ゆえ、色気を保てているのかも知れません。異形の美は強し。
それぞれの遺跡は、まるで男性のタイプのようではないでしょうか。威厳があるけど完璧すぎて面白みに欠けるアンコール・ワット。我が道をまい進する強烈な個性の持ち主、バイヨン。危険な色気を漂わせるベンメリア。美しく優美だけど力強さはないバンテアン・スレイ。どうでしょう……? 意味不明でしょうか(汗)。

いい感じに爛れているバイヨン(バイヨンという響きもそそるよね〜)。

ジャングルと一体化したベンメリア。

アンコール・ワットはむしろ、遺跡への興味よりも、戦場カメラマン・一之瀬泰造のイメージの方が、わたしにとっては重要かも知れません。
まだ大阪の出版社にいた頃、映画や美術展の欄を担当していました。読者や編集長のことなど全く考慮に入れず、自分の好みの赴くままにセレクトしていた(ヴェルナー・ヘルツォークの
『カスパール・ハウザーの謎』とか紹介してた(笑)。誰が観るねんっ!)のですが、そんな個人的嗜好で紹介した映画のひとつが、一之瀬泰造を主役にした『地雷を踏んだらサヨウナラ』でした。
結局、映画は観に行けず、紹介後ずいぶん経ってから、ビデオで観ました。
最後の方で、彼に淡い恋心を抱くベトナム人の女の子が、何故あなたはそんなにアンコール・ワットにこだわるの?と問うシーンがあります。そこで、泰造がこう答えるのです。
「アンコール・ワットに行けたら、何かが見つかるような気がするんだ」(正確に覚えてないけど、こんな感じ)
このセリフを思い出すと未だに、体の奥で何かが渦巻き、こみ上げそうになる。まだ旅に出ていなかったわたしにとって、その言葉はすごく、何と云うか、鍵穴にぴったりと合うような感覚だったのです。
何かが見つかるような気がする……。気ままな旅と戦争じゃ、状況は違いすぎるけれど、単純だけどやたらに強烈な情熱、みたいなものは、分かる。どうしようもなく惹きつけられる何か。取りつかれたように突き動かされる自分……。
彼の目指したアンコール・ワットは、ジャングルに覆われたクメール・ルージュの本拠地でした。戦場カメラマンとしてその写真を撮ることは、最高の名誉。若きカメラマンとして、そこに惹かれたのには間違いないのでしょうが、彼の求めていたものは、そういう、目に見えるもの以上の、名前のつけられない“何か”だったのではないか。そして、そういうものを求める気持ちを、憧れとか、情熱とか云うのではないだろうか。
きれいに整備されたアンコール・ワットが何だか物足りないのは、彼の目指した“何か”がある場所とは、別物に感じたせいかも知れません。しかし、今では穏やかに観光客を迎えるアンコール・ワットのかつての姿を無理やり想像すると、その片鱗が少しだけ見えるような気もします。
それにしても……わたしはもう、彼の享年を超えてしまったんだなぁ。別に、若くして死にたい願望なんかはまるでないけれど、そんなことを思ってしまいます。
ちなみに原作は、映画のようにドラマチックな感じではなくてやや拍子抜けしましたが、こっちはこっちで生々しく、戦場に出る合間に風俗に行くところなんか、やけにリアルでした(笑)。戦場の中にも、日常はちゃんと存在しているんですよね。

シェムリアップ郊外には、「アキラの地雷博物館」という小さな博物館があります。
アキー・ラーというカンボジア人男性の館長は、クメール・ルージュに両親を殺され、クメール・ルージュの下で戦士として育てられ、今度はベトナム軍でそのクメール・ルージュと戦うことになるという、国の情勢に翻弄される数奇な人生を送った後、今は、ボランティアで地雷の撤去を行っているそうです(博物館の冊子より)。そんな人生があるのか。生まれてからずっと、戦争と関わり続けなければならない人生が。
簡素な小屋の中には、形も大きさも様々な地雷と爆弾が、山となって積まれています。ゾッとするほど無機質で冷たい形状。人を殺し傷つけるためだけに作られた道具とは、そういうものなのでしょうか。見る者の心を無遠慮に引っかいてくるような、むやみにざわつかせるような……。
地雷の値段は、一つ数百円だそうです。その撤去にかかる費用は数百倍、プラス人の命。「一人の命は地球よりも重い」という言葉は、いったい誰のためにあるのだろうかと、寒々しい気持ちで考えます。
ラオスのポンサヴァンでも見ましたが、ここでも、不発弾のひとつを、花瓶にして玄関に飾ってありました。鮮やかで生命に満ちた南国の花と、色のない不発弾の取り合わせ。それは、平和と戦争の強烈な対比のようにも見えます。
近くの広場では、村の青年たちがサッカーをしています。その中に、松葉杖をついてプレーする青年がいました。それもまた、ここでは日常なのです。戦争の傷がどれほど深くても、人は生きていかねばならないし、実際、生きている。不思議なほどに人は日常を営み続ける。埋めた地雷を撤去し続け、そのなかで誰かが死ぬ可能性も常にある、そんな日常を……。

きれいにディスプレイされた花が来客を迎える。

さて、ここからは突然話題を変えまして、シェムリアップおよびシェムリからプノンペンに戻るまでの間にあった、個人的な出会いの話をば。

まだわたしがイエメンにいる頃、「のぎくちゃんへ」という表題の、1通のメールを受け取りました。
それは、ちょっとしたファンメール(照)のような内容でありつつ、どうやら昔、メールの主とエチオピアで1日会っているらしいことが書かれていました。
「いちおう写真がここに↓ 絶対忘れているでしょうけどね…」
誰だろ……と思って、URLをクリックすると、口を半開きにした日本人の男子が、マサイ族に囲まれている写真が出てきました。
む、この人は……エチオピアの首都アジスアベバで会った、
変なバンダナを巻いた、日本人なのに金髪の兄ちゃんではないか。
彼は、ケープタウンからの数少ない北上ルート組で、同じく北上旅行中のカップルと一緒にいたのです。
さらに思い出すと、そのときの会話で彼が云った言葉が、ずっと心に残っていました。
わたしが、毎日毎日毎日……現地人のヤジとも悪口とも取れる接触に悩まされ、しかしそれを悪意と取るわたしはやっぱり心が狭いのでせうか、と話したところ、彼はこう云いました、「受け取る側が不快な気持ちになるような言葉には、やっぱり悪意があるんだと思いますよ」。
そんなことを云った旅人は、彼だけでした。だから、他に何を話したかはあまり覚えていないけれど(失礼)、その言葉だけで彼の存在は記憶に刻まれていたのです。
その後、彼がバンコクにいる頃にぱらっと気まぐれなメールが1通送られてきたのですが、その後、特に音信はありませんでした。

シェムリで泊まっていた宿「タケオ」のドミトリーで、観光から戻って来たとある昼下がり。ベッドでゴロゴロしていると、旅人にしては少々線の細い、柔和な雰囲気の男子が話しかけてきました。
……誰だっけ? 旅先で会ったことあるっけ??
と失礼にも即座に思いだせなかったのですが、彼こそが、例のメールの人―金髪の兄ちゃんでした。なんか、あとで聞いてみると、読んでいたweb旅行記の作者(わたし)が偶然ドミにいて、めちゃくちゃビックリしたらしい。あら、わたしってば、ちょっとしたアイドルってこと?(爆)
その後、ベンメリアへのジープツアーに参加したり、夕食をともにしたり、宿で喋ったりと交流していたのですが、彼はあくまでも「ファンです」的なノリで接してくるので、悪い気はしません(笑)。ほんとはわたしなんか虫ケラにも及ばぬ人間なんだけどさ、何かしらの価値を見出してくれているんだと思うと、テンションが上がるじゃん?
しかし、ファンのくせに、彼はとっととシェムリアップを出発してしまいました(何やねん)。
わたしのHPを気に入ってくれていることを差し引いても、なんか不思議に波長の合う人だったな……。会ったばかりなのに、一番の男友達であるSくんと話しているような気持ちになると云うか。そう思うと、急に感傷的になり、わたしは初めて彼のHPをまともに読んでみることにしました(いちいち失礼)。ちょうど、町を散策していたら土砂降りに合い、ネットカフェに逃げ込んだのです。
どれどれ、「中国初恋」? フザけた名前だな、とか思いつつ軽い気持ちで読み始めたのですが……。

………なんじゃこりゃ!!!
巧すぎる!!!面白すぎるではないか!!!不覚にも、腹抱えて笑ってしまったではないか!!!
何、この人、もしかして天才なの?!見かけによらず?!(ダメ押しに失礼)
負けた……。いや、何を以って勝ち負けを判断するのか分からないけれど、とにかく、なんか、負けた気がしてならない……。
気がついたら、3時間読みふけっていました。旅に出てからは知人友人以外の他人の旅行記をほとんど読まなくなっていた(情報収集以外)ので、きれいで役に立つサイトはいくらでもあるだろうけど、自分を打ちのめすようなweb旅行記がこの世に存在しているとは、つゆほども思っていなかったのです(なんという傲慢(笑))。
わたしの旅行記はお笑い旅行記じゃないし、彼と同じ土俵では闘っていないんだし、今んとこアクセス数は勝っているし、何と云っても彼はわたしのHPを愛読してくれているのだし……といちおう自分を慰めてみるのですが、敗北感はぬぐえません。
それにしても、何故こんなに面白く文章を書けるのでしょう???彼はいったい、何者なのでしょう???
そうだ。この後、わたしと同じくベトナムへ行くと云っていたっけ。また会えるだろうか。再会できたらきゃつをひっ捕らえて、面白さの源をじっくりと探らねば……
って、あいつの方がわたしのファンだったんじゃないのかっ!?(涙)

しかし、シェムリからプノンペンに戻るバスの中では、それ以上に衝撃的な出会い(※あくまで個人の感想です)が訪れました。
タケオからプノンペン行きバス停までのピックアップに、日本人らしき男性が一人乗っていました。「あ、日本人かな」という以外に、特に気に留めることもなく、そのままバスに乗り換えたのですが……
何か引っかかる。
容貌。雰囲気。そして何よりも、彼が荷物と一緒に持っているギター。記憶がにわかに掘り起こされ、わたしはドギマギしながら、斜め後ろの席に座ったその男性を、ちらちらと盗み見ました。
やっぱ似てる……
Yさんに。
何せ記憶が古いから、はっきりとは分からないけど、この感じ、何だかタダゴトじゃない(笑)。
や、しかし、Yさんが何故こんなところにいるんだろう。今ごろわたしと再会するなんてことが、ありえるのだろうか?偶然にしても、あまりにも唐突すぎはしないか?

彼に話しかけようか否か迷っているうちに、バスの乗務員がチケットチェックに来ました。
「ふむふむ、お前の席は24番だな」と、乗務員が指したのは、何と彼の隣じゃん!おおっ、これは神の思し召しっ?!
わたしは、つとめて冷静を装いつつ、軽く会釈して、彼の隣に座りました。無論、彼の方は、わたしをちらとでも気に留める様子もありません。覚えてるわけ、ないか……;
何て声をかけよう……とりあえず「日本の方ですか?」か?それも微妙だな……むうう、まあいいや。プノンペンまではあと6時間もあるんだし、おいおいに……。
と思ったらものの1分後、メガネの中国人らしき乗客が来て、「そこは僕の席じゃないかなー」とチケットを持ってわたしを見下ろしています。
ええー!?何でっ!?乗務員がココだって云ってたんですけど!?
まごまごしていると、別の乗務員が確認に来て、再びチケットチェック。「お前の席は、41番だ」……えっ?(ハニワ化)そーなの?!……あ、ホントだ。。。じゃ、さっきの24ってのは……今日の日付やんけっ!乗務員が間違えるなよそれを!
かくしてわたしは、彼とはひと言も話せないまま、彼から10席近く後ろの、それも一番後ろの隅っこの席に追いやられました。
やがてバスは発車し、わたしは「くそー、あのメガネ野郎! あの席はわたしが座った方がよっぽど有効活用できるってのに、邪魔しやがってえ〜!!!」と、めちゃくちゃ勝手な憤りを覚えながら(ほんとに勝手)、じりじりと身を焦がしていました。
仕方ない。休憩時間になるのを待つしかない。休憩になったら、すかさずバスを降りて、彼に話しかけるんだ。眠いけど、それを逃しちゃいけないから、眠らないように……。

そして、2時間半後。待ちに待った休憩時間がやって来ました。
すかさず駆け寄ろうと思ったら、彼はすかさずトイレに行ってしまいました。。。あぐぐ。
わたしは、そわそわしながら、彼の動きをレーダーのようにしっかり目で追い、彼が帰ってきたところに歩み寄ります。
「すみません、Yさんですか?」
それはあまりに唐突な問いかけであり、相手は明らかに訝しんでいました(苦笑)。
「はい、そうですが」
わたしは、はやる気持ちを抑えるために、わざと間を置かずに言葉を継ぎました。
「1999年の春、昆明に、昆湖飯店にいらっしゃいましたよね?」

すると、彼の表情がいくらか緩んだように見えました。
「……ええっ?ということは……えーと……?」
「わたし、卒業旅行で友達と来てて……で、その友達がアメリカ人とデキちゃって……」
「ああ!覚えてるよ!あのときの学生さんか!」
残念ながら彼は、わたしの名前は覚えていませんでしたが、存在は思い出してくれたようです。ちなみに友達のことは、名前が珍しいのと、アメリカ人とのイザコザのインパクトゆえか、しっかり覚えていました。
さらにいうなら、Yさんもかなり珍しい名前なので、わたしははっきり記憶していたのです。名前って大事だわね。わたしの名前は、日本人には平凡すぎて覚えてもらえないし、外国人には難しすぎてやっぱり覚えてもらえないの。ぐすん。

……さて、ここまで読んで、Yさんの正体が分かった人は、かなりの放浪乙女マニアと云えましょう(笑)。
しかし、そんな人がいるはずもないので、簡単に解説します。
「旅先むだ話」のコーナーにある「昆湖飯店306号室の思ゐ出」に、わたしがまだ可愛いひよっこパッカーだった頃(笑)の、お気楽卒業旅行の話が書いてあるのですが、そこに登場する、“気孔の先生”が、このYさんなのです!
……ま、そう云われても誰もピンと来ないでしょうが、でもでもでも! わたしにとっては、衝撃的な再会だったのです! だって、6年ぶりですよ!あれから、連絡を取っていたわけでもないのに!それも何故か、日本じゃなくて、カンボジアで!”ただの偶然”で片付けるには、あまりにも妙じゃないですか?!

Yさんは、あれから何と4年もの間、旅を続けたそうです。
中国、ネパール、インド、東南アジア……何でも、雲南省で現地人の彼女ができて、そこではかなり長居していたらしい(何だ、あのときいた謎の日本人女性とは、何でもなかったのか(笑))。
今回カンボジアにいるのは、その旅の延長ではなくて、インターネットの旅行ガイドの取材で来ているとのことでした。今は気功はやっていなくて、NGOで中越地震の被災地ボランティアに携わったり、今後は雲南省でやはりNGO的な仕事をしたいそうです。
昆明で会ってから6年。まだ彼がバックパックを背負って旅をしていることに少なからぬ感動とシンパシーを覚えたけれど、Yさんは「帰国したら、それまでの旅生活とのギャップがしんどくて、2ヶ月くらい引きこもってたよ」とも云っていました。
ともあれ、彼はあの旅で、雲南省が大好きになり、「だから、その雲南に、恩返しでもないけれど何か役に立てることがあればやりたいと思うんだよね」。そうか。あの旅は彼の人生に、今の彼につながっているんだな……。わたしの今の旅の原点(のいくばくか)が、やはりあの雲南のたった2週間に在るように。

そして、彼の口から、さらなるサプライズが。
先のむだ話に、Yさんとともに登場する重要人物(笑。わたしの中ではな)、Mさんという人がいるのですが、「あれから6年、彼は今も、世界の何処かを彷徨い続けているのだろうか? 帰るところのない彼は、一体何処にいるのだろう??」と書いた、そのMさんの行方が分かったのです。
彼は今、中国の深センにいて、日本語教師をしているのだそう。深センは、香港の目と鼻の先にある都市。この旅の終わりを、香港で迎えようと思っている(いや、もしかしたら上海かも知れんけど)わたしにとって、これはまた、何という旅の神の導きだろうか……。この長い旅の原点が、あの卒業旅行での日々にあるのなら、あそこで会ったもっとも印象深い人物であるMさんに、この旅の最後に会うことは、偶然というよりも、必然なのではないか……とまた、ことを大袈裟に考えるのでした。

この晩、Yさんと夕食をともにし、お互いの旅の話や、その後の“昆湖飯店306号室”の話をしました(友達と恋仲になったアメリカ人Sくんは、2年くらい前に、アメリカ人女性と結婚したそうな)。
それにしても、彼と席を並べて夕食を食べていることの不思議さよ。6年前、またこんなふうに出会うとは、1ミクロンも想像しえなかった。

そんなこんなを経て、今はカンボジア最大のリゾート地、シアヌークビルに来ています。
相変わらず1人なのに、まーしつこくビーチにやって来ますね、わたし。先を急ぎたいので、1泊で出ますけども。
欧米人ツーリストがたくさんいるものの、田舎くさくて素朴なビーチです。海はなかなか美しく、砂浜も白くていいのだけれど、いかんせん人が多い……。土日だから? 何だか、リゾートと云うより須磨海水浴場みたいな雰囲気です(分かりにくい?)。
ビーチでは、現地の少女たちにムダ毛の処理をしてもらいました。ボディクリームみたいなものを塗って、縫い糸を毛に引っかけてピッピッと取っていくんです。年端もゆかぬ少女たちにすね毛の処理なんかさせていると、お前はどこのエライ人やねん!?とこっ恥ずかしくなってきますが、ま、向こうも必死で営業してくるからつい……。
ラオス→カンボジアのツアーで一緒だったアメリカ人マイクに出くわし、彼らのグループに遊びに来ないかと誘ってもらいましたが、何となく気が進まず断りました。
その代わりに、海岸線を黙々と歩きます。どうも、微妙にテンションが低いのは、パソコンが死にかけているせいでしょうか……?(笑。そう、一時はひらがなしか打てない状態にまでなったのだよ)

まだYさんはプノンペンにいるんだっけ。
明日、プノンペンに戻ったら、また訪ねてみよう。


わたしの足の毛を処理する少女たち。

 (2005年6月26日 シアヌークビル)

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