旅先風信171「カンボジア」


先風信 vol.171

 


 

**国境を越え、旅は終わりゆく**

 

思えばこの3年と数か月、さまざまな国境を越えてきたものでした。
そして、この先、国境をまたぐのは、あと2回。そう思うと、何やら感慨深いものがあります。
国境越えに特別な技術など要りませんが、国境を越えるときはいつも、少し緊張します。普段の、町から町への移動に比べると、ちょっとばかしややこしい手続きと感情を伴います。

……なんて、真面目に始めてみようと思ったんだけどさ、今回の国境越えに関してはひと言。
「ああ、やっぱバンコクに戻ればよかった!!!」
旅も終盤になって、まさかこんなハードな行程を味わうことになろうとは!しかもけっこう金かかったし! 正直、東南アジアの旅において、過酷な場面なんざ訪れるわけがないって、正直ナメてたからね。何より、わざわざ過酷なルートを通ったにも係わらず、出費がでかかったことが痛手だよ…。
やっぱバンコクに戻った方が(以下自粛)…ま、バンコクに行ったら行ったで、またダラダラ&浪費する危険も、大いにあったけどな(苦笑)。

結局、デット島からツアーに参加したのです。ツアーと云っても、複数のツーリストで車をシェアするというだけのものですが。
まず、朝8時半出発というので、眠いなあもうと文句たれながら集合場所に行ったら、誰かのビザが取れてないんだかなんだかでソレ待ち、結局出発したのは昼の12時半だよ!(怒)こんなことなら、宿のバンガローでチェックアウトギリギリまでのんびりしたかったのにさ!!!
ツアーは総勢7名。アメリカ人=1、イギリス人=3、ドイツ人=1、チェコ人=1、日本人=1。一見、国際色豊かですが、よく見たら半分以上が英語スピーカーじゃん。。。毎度ながらドイツ人は、ネイティブばりに喋っちゃうし。いちばん苦手そうに見えたチェコ人のジーナも、少なくともわたしよりは全然上手いし。
早くもアウェー感漂う旅路のスタートでしたが、決定的に自分がアウェーだと思ったのは、国境で請求された小銭を、ラオスでもカンボジアでも値切ってまともに払わなかったときさ(苦笑)。
ってか、欧米人は大人しく金を払いすぎじゃないか? だって、ちょっとワイロくさいよこれ? だいたいさあ、ラオスもカンボジアも何十ドルもビザ代払ってんのに、何でさらに追加徴税があるのさ?!
「for stump」とか云ってさ、何だよそりゃ?!
……いや、支払いを渋るわたしの方が正しいと云いたいわけではないのだよ。エラソーに云うようなことでもないのは分かっているのだよ。だがしかし! 謎の出費はいつもなんか納得がいかないのだ! もう財布の底が透けて見えているこんな夜(じゃないけど)は!!

国境の小屋。

ジャングルの中の国境ロードをひた走り、カンボジア国境の町・ストゥントゥレンに着いたのは、夕方5時前でした。
わたしの予定では、このツアーは国境までで、ここで1泊して翌朝の公共バスでプノンペンに向かうつもりでしたが、誰の希望か、いやいちおう全員の希望ということでその日じゅうにプノンペンに行くことになってしまいました。 なんでも、運転手ほかの話では、最初の町クラティエに至る道にかかる橋が壊れ、大型バスが通れないんだとか……って、ホントか〜??? (※ホントでした)しかし誰も、その話に疑問を差し挟むこともなく、じゃあ今日出るしかないという方向でどんどん話が進んでいます。わたしは完全に蚊帳の外。。。でも、車シェアの頭数にはしっかり入れられているのが、なんともフクザツな気分です。ああ、離脱してえ! と思いつつも、ここに1人で残っても何のトクにもならなさそうなので、大人しく流れに従いました。
1人18.5ドルで軽トラをチャーターし、ストゥントゥレンを出たのは5:30。すでに日が傾き始めていました。 助手席は1名様限定。あとは全員荷台に詰め込まれます。わたしの他に女子が2名おりましたが、
どう考えてもわたしより図体のでかいイギリス人女子が、いつの間やら助手席にしっかり座っていました……いや、まーいいんだけどさ、そういうのって、とりあえず話し合いとかないのかっ!?
しばらく(2時間くらい?)はそこそこ快適な道のりでしたが、いきなり未舗装の道になってからは、悪夢のようなボコボコ月面道路になりました。 おおお、ここまでヒドイ道は久々じゃねーか? アフリカやらアフガンを旅してきた身には、東南アジアの旅など赤子の手をひねるくらいラクだろーと思っていたので、まさかこんな難所が待ち受けていたとは、完全に不意をつかれました。 荷台に乗っていると、道の悪さがダイレクトに体に響いてきます。実はその後、イギリス人女子が途中で助手席と変わってくれようとしたんだけどさ、なんかつい意地になって、荷台に居座り続けちゃったのさ〜。アホやの〜。
アル中っぽいイギリス男のトムが、荷台のど真ん中に、それはそれはデカイ図体を横たわらせているので、ただでさえ極少なスペースが、まさしく猫の額ほどになっていました。 まーちょっと体調が悪そうではあったけど(酒飲んでるからだろー!)、とは云えわたしだって、こんな荷台で肩身狭く縮こまっていたら吐きそうにもなるっつーの! このメンバーの中でいちばん体の小さいわたしが、荷台のオリにしがみついてガタガタ震えながら(寒いのだ)悪路に耐えとるっちゅうのに、アンタはみんなの荷物をクッション代わりにしてぐーぐー寝るんかいっ!
ねえねえ、英語が話せるのって、そんなにエライの?!(←まったくカンケーない憤り)

そんなこんなで(?)、やっぱこのグループにはなじめねえ……とキリキリ歯ぎしりしていたら、若きドイツ人のベン君が話しかけてきました。
いつものような流れで旅歴を話すと、さすがは21歳、キラキラと目を輝かせ始めました。こんなちんくしゃのイエローモンキーが、3年3か月も旅していると聞いて、めちゃくちゃ驚いたみたいです。 わたしのパスポートを見て、「ボクなんか、3つしかスタンプがないよ。恥ずかしいな」なんて云っているのを聞くと、わたしなんてこれくらいしかネタのない人間なので、とても威張る気にはなりませんが、まあ、悪い気はしません。
しかし、旅先でよくある質問をいくつかされるなかで、「旅先でクレイジーな体験はなかったか?」と問われたのには本気で困ってしまったぜ。。。
クレイジーって何だろ?? どうやら質問の意図は、旅先で衝撃的なものに出会ったり実体験したりということのようで、彼自身の例として「タイの山奥で見た黒魔術の儀式」の話を挙げていました。
とっさに思いつかず、“衝撃的”というワードで頭の中を検索して最初に出てきた、エチオピアのムルシさんたちの話をしてみました。
んが、反応がかなり微妙じゃん(苦笑)。もともと話を面白くすることができないうえ、英語では、オチを付けるとかいう小技を利かせることもままなりません。くそっ、ムルシくらいじゃインパクトに欠けるっていうのか〜〜〜! でも、黒魔術とか見たことないし、かと云って「ルワンダの虐殺記念館はヤバかった」なんてのはあまりに重すぎるし、人間性を疑われそうだし、あわあわ……。
ってかわたし、こんなに長旅してて、何のネタもない人間なわけ!?(爆) 大体において、「面白い話」を所望されることほど困ることはないのです。芸人じゃないんで、って思う。大阪人は2人寄れば漫才師で、面白くないと大阪人って名乗れないみたいな風潮? 面白くても面白くなくても大阪で生まれ育ったことは事実なんだよ!……あ、ドイツ人は知らないよね。でも、面白くなさは万国共通で分かるもんなのね。ぐすん。

闇夜の一本道は気が遠くなるほどまっすぐで、どこまでもどこまでも終わらない夜(悪夢?)を走っているような感覚に囚われます。
何だか、市場に売られていく家畜みたいだな(笑)。まあでも……こういうのも、最後なのかも知れない。こんなふうに、荷台に積まれて(笑)ひどい道を運ばれることも、残り短いこの先の旅路では、二度とないだろうという気はする。

……で、結局、面白い話は出来ないまま(苦笑)、トラックはひたすら、ひたすら月面悪路を走り続け、未だ闇夜の午前3:30、プノンペンに到着しました。

プノンペン1日目の宿から臨む風景。

プノンペンは、バンコクの文明キラキラっぷりとも、ビエンチャンののんびり田舎風味とも違う風情の首都です。
植民地時代の面影を残すコロニアルな建物(以前は“東洋のパリ”と呼ばれていたそうな)と、バイタクが町じゅうを走り回るいかにもアジア的な泥臭さと熱気が組み合わさって、独特の空気を醸し出しています。
バンコクには及ぶべくもないけれど、久しぶりの大きな街なので、スーパーやショッピングモールがあり、ついつい文明のシャワーを浴びに行ってしまいました。 ま、当面の生活に必要な、石けんと生理用品くらいしか買えないんですけど、それでも、クーラーの効いたスーパーで外国製品を見ると意味もなくウキウキしてしまうのは、人間の性というものが文明に弱くできているからなのでしょうか……(わたしの場合、特にだが)。

いかにもアジア的な光景。

プノンペンでは、ポル・ポトの大虐殺の舞台となった、ツールスレン刑務所とキリングフィールドに行ってきました。
アウシュビッツ、ルワンダ虐殺記念館、そしてここで、世界三大虐殺博物館は制覇しました。……って、何の自慢にもなりません。
前2つほどの、脳髄を貫くような衝撃はなかったものの(ううむ、こういうものにすら慣れてしまうのか?展示がえげつない感じではなかったというのもあるが……)、狭くて暗い独房や、囚人たちのモノクロのポートレイトが碁盤の目のように並ぶのを見ると、涙腺が痛くなります。
もし自分が……と考えてみる。そして、想像することで心にいくばくかの痛みを感じようとしてみる。けれど、想像では、実際の1万分の1の痛みにも及ばなくて、やるせなくなります。
写真の中には、老若男女すべてがいて、時に笑顔の写真が混じっています。撮影当時は、死など予期していなかったのだろうか……と思うと、その笑顔はあまりに悲しい。
粗末な鉄製のベッドが1台、ぽつりと置かれた拷問室。ベッドの上に、錆びた拷問道具が載っていて、拷問を受ける囚人のモノクロ写真が、各部屋の壁に掛けられています。 その部屋に、たまたま1人残されると、恐怖がものすごい勢いで増幅します。ビルケナウで感じた底なしの恐怖、過去からの声が聞こえてしまいそうな気さえする、不気味な静けさ……。
プノンペンの郊外にあるキリングフィールドには、慰霊塔が建てられ、大量の頭がい骨が安置されています。 ツールスレンには、頭がい骨を敷き詰めたカンボジアの地図というすごい展示もありましたが、改めてこの、途方もない数の頭がい骨の山を見ると、これだけの人が殺されたということを、わたしはどこまでリアルに受け止められるのかと、自信がなくなってきます。大量虐殺というのは、わたしにとって、あまりにも非現実的すぎるのです。
ポル・ポトの粛清は、ヒットラーのそれよりも大規模だったそうです。しかも、その犠牲者は自国民。どちらが悪いとかいう話ではありませんが、ポル・ポトが、わりと最近まで生き延びていたことを思うと、罪とは一体何なのか?と考えざるをえません。 例え彼が崇高な理想を抱いていたとしても、この虐殺を正当化できる筈もないのに……。

ロッカー並みの狭い小部屋に、囚人が押し込められていた。

このような場所を見るたびに、人間の持つ闇、残虐性の底知れなさを思います。
人は多分、どこまででも残虐になれる可能性がある。そしてそれは、自分の中にも間違いなく存在しているものである、と(こういう場所にのこのこ来ているのもその証拠かも)。 普段は、心の奥の奥の、またその奥〜の方に潜んでいるものですが、状況が状況になれば、それが表面に出てこないとも限りません。
もしわたしが、ナチスやクメール・ルージュの政権下にいて、権力側の人間だったら? 逆らえば自分の命が危ないとしたら? 残酷な行為が当たり前の日常と化している状況だったら?
わたしは、ヒットラーやポル・ポトにはならなくとも、その下で残虐行為を行っていた無名の一般人にはなり得ると思います。最初はとても恐ろしい思いをするでしょうし、自分を苛みもするでしょう。そこで耐えられなくなると、自殺するのかも知れません。でも、ある時点を境に、”パンドラの箱”が空いてしまい、人を痛めつけることを、何とも思わなくなってしまうのではないか……。
ラブ&ピース、平和が一番、こんなことは二度と繰り返してはいけない。そう云うことは誰にでもできるし、誰もが知っていることです。でも、今だに世界のどこかで殺し合いが行われている、それも、正義という名のもとに平然と行われている事実を、いったいどう受け止めればいいのでしょうか? 自分の利益や保身、あるいはただの快楽のために、平気で他人を傷つけ、殺すことのできる人間が、過去にも現在にも実際にいるのです。
それを「信じられない」「自分とは違う」「人間じゃない、モンスターだ」として片付けてしまうことは簡単ですが……少なくともわたしは、自分の中にも“モンスター”はいるような気がしています。

だからこそ、平和はあまりにも尊いと、痛感せずにはおれません。
虐殺が行われたのは、たった30年前です。革命自体はたった4年弱。しかし、それだけの間に、世界はいとも簡単に地獄と化すことができたのです。
だとすれば、平和とは、決して当たり前のものではなく、人類が努力して守り続けていかなければならないものなのだ……。
キリング・フィールドからの帰り道は、素朴でいかにも平和な田舎風景、何ということもない日常の営みが繰り広げられています。何ということもない……でもそれこそが、何よりも得難いものだということに、人は(わたしも含め)、あまりにも気づかなさすぎます。

 空洞の目で、骨は何を見ているのだろう。

(2005年6月23日 シェムリアップ)

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