旅先風信169「ラオス」


先風信 vol.169

 


 

**適度にツーリスティックなラオスの旅**


どうもこんにちは。これを書くのも、あと何回くらいでしょうか。
先日、新しい記録用ノートを買いました。厚さ1センチ弱といったところですが、きっとこのノートが、最後の記録帳になることでしょう。
そう思うと、切なさと感慨が入り混じった複雑な気持ちになります。ここ、ルアンパバンから、一体どこまで続くのか…?
とは云え、もう5月も終わりなのに、まだこんな所でウダウダしているわけで(汗)。思えば、インドの終わりくらいからずっと、旅行者たちに「いつ帰るの?」と聞かれると決まって
「2ヵ月後くらいかなあ」と答えている気が……。“永遠の2ヵ月後”(永遠の17歳的に)ってわけですか。
しかし、ルアンパバン、おそらくラオスの中でもっともツーリスティックな場所なのでしょうが、何せ基本が田舎なせいか、どうしてものんびりモードになってしまうのです。
このくらいツーリスティックな方が、わたしにはちょうどいいかも知れません。メコン河沿いのオープンレストランで、食後に書きものなんかしていると、ひどく落ち着きます。まるで夏休みに、自分の田舎にでも帰ったみたいで。そんなことをしていると、やっぱりまだ、旅がもうすぐ終わる感じが、どうしてもしないのです。
それにしても、出てきたアイスコーヒーが、コーヒーと云うよりキャラメルを液体にして飲んでいるような、頭痛がしそうな甘さなのはカンベンしてほしいです。。。

夏の休日のような、メコン河沿いのレストラン。

タイからラオスに入ったとたん、「セブンイレブン」の姿が跡形もなくなったのは仕方ないとしても、すべてがとりあえず、非文明的になりました。海も挟まない地続きの隣国なのに、こうも国力が違うか…まあ、海がない分、かなり不利なロケーションだとは思いますが。
国境のフエサイからムアンシン(ルアンナムサ経由)まで、12時間バスに乗りっぱなしだったのですが、車窓の風景がもう、ずーーーーーっと同じ!森、山、森、山、森、山…と振り子時計のように続き、たまに小さな集落を挟んで、再び森……って、
ここは弥生時代かーーーっ!?
まるで、国を挙げて田舎をアピールしているかのようです。ま、旅行者の間でも、「ラオスは何もないところがいいんだよ〜」などと、誉めてんのかそれ?と思うようなコメントがよく聞かれますが……。
それでも、大体の宿が、ホットシャワーが出て電源もあるというファシリティを兼ね備えているのは、ツーリストがそれなりに多いことの表れでしょうか。

さて、タイ=ラオス国境では、久々に越境バトルをやってしまいました。
こんな平和な東南アジアですらもバトってしまうわたしは、やっぱりホンモノの気違いなのでしょうか…。本当に、どこまでも果てしなく成長しない人間でイヤになります(のわりに反省の色が足りないけど)。
タイとラオスの国境には、メコン川が流れており、ここをボートで渡るという、なかなか風情ある国境越えです。
入国に関しては、ビザも既得しているし、特に何のモンダイもないはずでした。が、ラオスのイミグレが16:00〜18:00の業務に料金を徴収しており、わたしが来たのは16:30。ばっちりかかっていたのです。
それにしたって、業務時間が8:00〜18:00と書いてあるのに、残りの2時間が追加料金って、何だそりゃ?!
金額は15B。たったの15Bと人は思うでしょう(わたしも思う)。でも、こういうものにどうしても生理的拒絶反応を起こしてしまうわたしは、「じゃ、また明日来ますよ」と、パスポートと入国カードを返してもらって、イミグレの前にあるベンチで今晩を過ごすことにしました。
…って、その野宿、何の意味もねーし!!!
さすがにイミグレの目の前で寝袋を出すわけにはいかないので、18時以降窓口が閉まったら、ホテルにこっそり行こう…なんて目論みつつも、もし宿でパスポートチェックがあったらマズイなあ、そうするとやっぱ野宿だけど、この辺って野犬とか出そうじゃないか?狂犬病の注射、打ってねーぞ?と、急に命がけ的なことになってきて、ふと「何で国境で狂犬病の心配とかしてるわけ?」と冷静になるのですが、こうなると、もはや後に引けないのがわたくしという人間。つまらん意地を張ることだけは、誰にも負けません。あああ、何ゆえ自ら買わなくてもいい労苦(なのか?)を買って、旅をハードにしてしまうのだろうか……。

思えば、タイ側の国境の町、チェンコーンでも、バス停からイミグレまで、よせばいいのに3キロという距離をえんえん歩いたのもそうです。
大人しく、ツーリストらしくトゥクトゥクの客引きに捕まっていればよかったのに、声をかけてきたオッサンが気味の悪い猫なで声で「おじょうちゃ〜ん、どちらまで行かれますぅ〜?」てなノリで声をかけてきたため、無性にムカついて2秒で断ってしまったのです。オッサンがもっと普通に話しかけてきてくれれば…などと云ったところで無駄な後悔。オッサンに「イミグレまで3キロあるぞ」と云われ、へっ、そんなにねーよ、と余裕こいたけれど、3キロは全くウソじゃなかったのです。
例によって、岩石の如く重い重い重いバックパックを担いで、炎天下をよぼよぼと歩きますが、イミグレはいっこうに現われません。ガイドブックの縮尺はもっと短かったはずなのに……くそっ、やっぱ『歩き方』は信用できねえ!とまた悪態をつきつつ、この惨めな姿を見て、誰か親切な人が車に乗っけてくれないかなー…などと甘い期待を抱くも空しく、ほとんどゾンビのようになって歩きました。
ま、そしたらしばらく後、親切な人が本当にいて、死にかけのわたしを拾ってくれたんですけどね(笑)。欧米人っぽいマダムが、車で国境まで連れて行ってくれたのです。本当に助かりました…。

……イミグレの男は、座り込みストライキの如くそこから動かないわたしに業を煮やして、つかつかと向かって来ました。
「何でお前は入国しないんだ?ここは6時に閉まるのだぞ」
「知ってますよ。でもわたし、追加徴収の15Bを持っておりませんので、また明日」
「では、タイに戻れ」
「ボート代もないんです。それに、わたしのラオスビザはシングルエントリーなので、タイに戻ったら無効になってしまいます」
「じゃあどうするんだ!?」
「ここで寝て、明日まで待ちますが♪」
「それはダメだ!タイに帰れ」
……このような押し問答が、何度か断続的に行われた結果、ついに愛想を尽かしたらしいイミグレの男が
「分かった。15Bはオレが払うからさっさと入国しろ」と云い出しました。
いや、何もあんたに払ってほしいわけでは…と思いつつ、意地を張るのにも疲れてきたので、ま、払わなくていいんなら…と、ちゃっかし入国させていただいたのでした。かなり後味悪かったけどね…って、だったら最初からやめとけって(苦笑)。ああ、己の業の深さに、毎度ながらぞっとする。。。

さて、ムアンシンは、端から端まで歩いても1キロあるかないかの小さな町です。
北の外れ、中国国境にほど近いこの町に行くことは、今後のルートを考えると(基本的に南下ルートなので)けっこうな無駄が生じるのですが、わざわざやって来た理由は、少数民族が多く暮らす町だから。
少数民族と云えば、そう、個性的な民族衣装です。民族衣装と聞くと血中濃度の上がる“族好き”のわたくしが、ここを外すわけにはまいりません。チベット以来、あまり心を揺さぶられる衣装に出会わなかったのですが、ここには、アカ族、ヤオ族、タイルー族…などなど、個性的な民族衣装を着こなす“族”がたくさん暮らしているのです。
とは云っても、グアテマラほど、目も綾なる衣装世界が広がっているわけではなく、村ごとにひっそりと咲いている感じで、その辺にも何となくアジアらしいゆるさを感じると云うか何と云うか。
一番遭遇率が高いのはアカ族。何故なら、メインストリートにある数件の宿の1F食堂に、ツーリスト目がけて積極的にみやげを売りに来ているから(笑)。さらに、日中の暑い時間になると、食堂の脇の床で勝手に集団昼寝しているので(幼稚園か)、いつでも会えるというわけです。ちなみにアカ族は、銀のヘルメットっぽい帽子をかぶっているのが最大のトレードマークで、なかなかインパクトがあります。あと、たまに半乳が出ているのも特徴でしょうか。。。
その他、町の端の市場に行くと、長い頭を真っ黒な布で包んだヤオ族の女性や、戦前の学生風衣装に身を包む男性陣(これはアカ族かな)がいたり、自転車を借りて町を外れると、黒タイ族などの集落が点在しており、村の広場で青年たちがバレーボールをしているのどかな光景が見られたりします。

宿の軒先で昼寝をこくアカ族オバ軍団。

さて、ムアンシンでは、珍しく欧米人旅行者たちとちょろちょろ交流していたのですが、その中でも、最もよく関わったのが、奇妙なオーストラリア人”スキッピー”でした。
ルアンナムタからムアンシンへのバスで乗り合わせた彼は、まだラオスに着いたばかりのわたしに対して、「ラオスは本当に素晴らしい国だ」とまるで観光大使のごとく誉めまくっておりました。
この人は余程ラオスが好きなのね〜、と思いきや、一方で、そのラオスに着々と蔓延しているツーリズムを嫌悪して、「ムアンシンは昔はこうじゃなかった」と、ことあるごとに悪態をついていました。

旅が長くなると、ツーリズムの功罪という問題を、どうしても考えざるをえません。
「(どこそこは)ツーリスティックすぎる」そんな言葉を、世界中で、何度聞いたことでしょうか。かく云うわたくしとて、ご多分に洩れず、そんな感想を抱いたことも何度あったことでしょうか…。
でも、今になって思うのです。たとえ、村の子どもが笑顔を向ける代わりに金をねだってきても、村じゅうに過剰にゲストハウスが乱立していても、アカ族のおばはんがガラクタや、
時には阿片を売りつけてきても(阿片はやめてください)、それでがっかりする権利なんか、旅行者にあるのか?って。
大体、他人の国に来て、人の善良さや素朴さばかりを期待することじたい、図々しいという気もするのですよ。
かと云って、頼まれたら、いや時には頼まれなくともすぐに金品をばらまく旅行者が正しいとはまったく思えないしで、己は旅行者としていったいどういうスタンスを取ればいいのかというのが、いつも頭を悩ませるところです(いや、そんな真剣に悩んでないけど)。
あるいは、カレン族の村のように、ツーリストの存在さえも日常に取り込んでしまうほどにツーリズムが熟成されていれば、それはそれで悪くないのかも知れません。
素朴だった村に、ツーリストが押し寄せてくる。村にとってそれは、異物を飲み込まされることに等しいのだけれど、飲み込んで消化することで、単なる“ツーリスティック”で終わらない、新しい道が見えるのかも知れないなあ…なんて。

そんなスキッピーは、「世界は苦しみに満ちている」とかいう話をしたかと思うと、「自分は神の導きによって満たされているからいつも幸福だ」などと云ったりして、いったいあんたは陰なのか陽なのかどっちだよ!?と、もちろんそんなものは決められるわけないけれど、いちいち戸惑わせるキャラでした。
1ドル札の裏側にはフリーメーソンのマークが書いてあるとかいう話は興味深いけれど、己の出自の複雑さとそれにともなう屈折から来るのか、いちいち視点が皮肉っぽい。自分もネガティブな人間のクセに、他人のそういう面に接すると途端に疲れてしまう、どこまでも自分勝手人間のわたくし(苦笑)。

ある日、ドイツ人の若い女の子(ちなみに彼女、バンコクのブルースバーでちらっと会っていて、お互い顔だけは覚えていたので再会にびっくり)が「フエサイ→ルアンプラバンのスローボート(旅行者の間ではポピュラーな乗り物)に乗ろうと思ってるの」と云ったら、スキッピーが吐き捨てるように「あんなひどい船!
あれはエコロジカルディザスターだ!」などと水を差しまくりました。
それでひとしきり口論になったのち、彼はいきなり席を立ち、やれやれ…と思っていたら、いつの間にかその流れで(?)チェックアウトまでして、姿をくらましていました。やっぱナゾの人。。。
そしたら数日後、ルアンナムタの路上でばったり会い、夕食を一緒にどうかと誘われました。わたしはそのとき、マッサージに行く途中だったので断り、また後で、と云ったものの、どうも気が乗らず、彼がいるレストランものぞかずにホテルに戻りました。
…しかし、やっぱり悪いことをしたかな?と思い直して外出したら、ホテルの隣のパン屋でまたばったり出くわしてしまいました。わたしがわざとレストランを素通りしたことを知ってか知らずか、あまり積極的には話しかけてこず、別れ際も、「See you」ではなく「byebye」と云われ、何だかなあと、最後まで奇妙な気分を拭いきれないまま、その後二度と、スキッピーと会うことはありませんでした。

タイルー族のお祭りの日にいたふたりっ子。衣装がかわゆい。

さて、今いる古都ルアンパバンは、“何もない”と評判の高いラオスの中では、随一とも云える観光地。ラオスに2つしかない世界遺産の1つがこの町ということもあり、町の規模に比してツーリストの数がかなり多く、ゲストハウスもかなり充実しています(ただし、タイバーツ払いで、他の町よりちょっと高い)。
欧米人好みの小洒落たカフェがあったり、毎夜メインストリートではみやげもの中心のナイトマーケットが開かれたりと、いかにも観光地然としています。
まあしかし、冒頭にも書きましたが、わたしには、これくらいツーリスティックなくらいの方が落ち着きますね。ツーリスティックだってことは、ツーリストを受け入れてくれる態勢があるってことだし。それに、ラオスは根が田舎だからか(失礼)、ツーリスティックさ加減も、何となくゆるいし。
食事が安くて美味しいのも、居心地のよさに一役買っているかも知れません。タイに比べると全体的に地味な印象はあるものの、素朴で美味しい。主食がカオニャオと呼ばれるもち米で、ここがタイとは異なる点。美味しい上に腹もちがよいので、貧乏パッカーにはうれしい食べ物ですね。ルアンパバンには、カオソーイと呼ばれる名物の麺や、5000キップ(約60円)でおかず盛り放題の屋台などがあり、食べるには事欠きません。そして、食事のおともは、激甘アイスコーヒーか、「ビアラオ」というラオスビール。宿の近所に薬草サウナがあるので、夕方ふらっと、マッサージがてら出かけたりするのもまたぬるくて楽しい。
ダイナミックな観光スポットなどが皆無なおかげで、そんなに観光にあくせくしなくていいんですよね。仏が4000体いる洞窟に出かけたり、村の結婚式を見に行ったり、ラオス人の宴会に闖入したりと、細かいイベントを日々1つはこなしつつ(それでも観光的なイベントをこなさないではいられない、己の呪われた貧乏体質)、あとは町なかをのんびりと散歩。バンコクを出てから、あまりひと所でゆっくりしなかったから、こんな風に過ごす旅の時間もいいもんだなあとしみじみ。
レストランから見る、茶色のメコン河。穏やかで、しかし確実な流れ。適度な涼しさを運んでくれる風。そこここの木々の間から漏れ聞こえる鳥のさえずり。ずーっとコンパクトミラーで自分の顔をチェックしているレストランの兄ちゃん(オカマかも?)。
何とも絶妙な風通し。人と自然の距離は、このくらいが一番落ち着けるという、わたしにとって見本のような町ですね。

朝もやに煙るルアンパバンの町。

………
そんなルアンパバンを出て、ジャール平原観光の拠点・ポンサヴァンにやって来ました。バスで8時間。ラオス、けっこう広いっすね。。。
ぬるいルアンパバンから来ると、いかにも地方の名もなき町といった風に見えますが、あの町の方が特殊で(京都みたいなもんか)、こっちがきっと、よりリアルなラオスなんだろうな。
先史時代の巨石文化が残るというジャール平原、その名「Plaine des Jarres(壺の平原)」が示すとおり、だだっ広い草原に、石でできた壺が500近くも埋まっているのです。この壺は、諸説ありますが石棺であるという説が最も有力だそう。

ここはまた、ベトナム戦争の深い傷痕を残す場所、というもう一つの側面があります。
入口にはMUG(地雷撤去の国際NGO)による地雷に関する看板がデカデカと掲げられているほか、MUGの文字が入った15センチ四方のコンクリートで不発弾撤去済みの目印が置かれていたり、戦車の死骸が突如、田園風景の中に転がっていたりします。
しかし、戦争の傷は、単にそうした残骸として存在しているわけではなく、地雷は未だ、遺跡の敷地内に大量に残っているらしい。それがまた、ラオス自体がベトナム戦争に参加していたわけではなく、たまたま物資補給ルート(ホーチミンルート)にあったがために、大量の爆弾を落とされたり埋められたりしたという、超理不尽な経緯なのです。すごいよね、こういう風に、他人の幸福や人生をカンタンに踏みにじれる神経って。大義の前にはそんなのゴミ同然ですか。
しかし驚くのは、ポンサヴァンの町なかには、爆弾の残骸を柱や植木鉢として利用している光景が見られること。泊まった宿の看板の柱にも、しっかりと再利用されていたわ。。。玄関にも、まるでインテリアであるかのようにいっぱい置いてあったし…。物を大切にしすぎです(涙)。

涙ぐましい再利用の図。

壺の遺跡は、サイト1、2、3というエリアに分かれており、まあどこも石壺の群があるだけ(笑)ですが、緑の草原から壺がポコポコと生えているさまは、ちょっと宇宙的で、哀愁があって、モアイのラノララクを彷彿とさせます。たまに、壺から植物が伸びていて、植木鉢のように利用(?)されているのもご愛敬。個人的には、多少なりとも観光地らしいサイト1よりも、2、3の方がナチュラルで好きですね。丘の上に壺が佇んでいる雰囲気もいい。
こういう打ち捨てられた感じは、いつも心の琴線に響きます。壺=石棺と考えるとなおさらに。つくづく暗い人間だな、オレ(苦笑)。
その感じにふと、この旅路で訪れた、アニ遺跡のことを思い出しました。思い出して、急にあの場所に帰りたくなりました。アルメニアの国境がすぐそこにあって、カフカス、ロシアという、この旅ではあきらめてしまった未知の場所への憧憬を、思いっきりかき立てられたっけ……。
ダメだ。こんなことを思うようでは、またきっと旅に出たくなるだろうな。こうなったら目標を、全世界制覇にするか?(笑)。

ぬるい幸福が欲しい気持ちと、未知なるものに挑み続けたい気持ちとの間でいつも揺れている。揺れる乙女心ってやつですか(嘲笑)……いや、世の乙女はそんなことで揺れないのか?キャリアと結婚で揺れる、みたいなことはありそうだけど。
どう生きるのか。何故、旅をするのか。わたしにとって旅とは何なのか(心の中の宝物を増やすこと?)。わたしは何が欲しいのか。何を手に入れ何をすれば満たされるのか。いずれも答えの出せない問いばかり。

「人はいつも、それぞれの光を捜し求める、長い旅の途上なのだ」
ルアンパバンで会った旅行者が貸してくれた『ノーザンライツ』の一節。
わたしが求めている光とは、一体、何なのでしょうか。

壺の群れ。

(2005年6月2日 ポンサヴァン)

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