旅先風信150「インド」


先風信 vol.150

 


 

**サイババと宗教〜サイババのアシュラムにて〜**

 

サイババをご存知でせうか。

サイババといえば、わたしの中のイメージは“アフロのマジシャン”、もう少し具体的に云うとジェームス・ブラウンとほぼ同じビジュアルのおっさんです。
テレビでリアルタイムでサイババを見た記憶はあまりないのですが、何故かその存在はしっかりと頭にインプットされており、「サイババを見ること」は、インド旅行の目玉のひとつとすら考えていました。わたしにとっては、宗教だろうが何だろうが、すべては観光というひと言に帰納集約されていくのです(わはは)。

そもそもサイババとは何ぞや?
みなさんがご存知のサイババとは、正式には2代目、サティア・サイババのことであり、初代サイババである聖者シルディ・サイババの生まれ変わりとされています(って云われても何のこっちゃ分かりませんよね)。ちなみに、サイババというのは、“神なる母と父”という意味だそう。
手から粉とか時計を出すというので、すっかり日本ではマジシャン扱いの2代目サイババですが、インドではれっきとした宗教家。全世界に100万人の信者がいると云われ、インド南部のプッタパルティという小さな村にアシュラム(道場)を構え、今も現役で宗教活動を行っています。

SAIBABA10.JPG - 37,642BYTES こちらがサイババでござい。

プッタパルティへは、ハンピから何と6回もバスを乗り換えなければなりません。1日に6回って!ありえないくらいアクセスが悪いです。
午前中にハンピを出て、プッタパルティにようやっと到着したのは夜9時前。アシュラムに泊まれるという話なので、とりあえずこの日の宿はアシュラムに決めました。
アシュラムは9時には門が閉まってしまうので、ギリギリで入ったわたしはかなり渋られたものの、何とかベッドを確保。門が閉まるだけでなく、部屋も9時には消灯というので、ドミトリーはすっかり寝静まっています。暗いドミトリーに泥棒のように忍び込み、シャワーも浴びずに、ベッドに転がり込んで眠りました…と云っても、こんな時間に普段寝ていないので、なかなか寝付けず悶々と苦しい夜を送ったのでしたが。

翌朝、まだ外はどー見ても暗い時間帯に、ドミの中では早くも生活音が響き始めました。うるせーなー…と思いながらも二度寝して7時半頃起きると…誰もおらんやんけ!
うひゃー、7時半でも充分早起きの類に入るのに、ここの生活時間帯って、どーなってんのっ!?就寝9時だし…(うちのおばあちゃんでも、もうちょっと起きてるよ?)。

完全に出遅れた感じになりつつ、とりあえず、サイババグッズハンティングに出かけることにしました。
何だかんだで、一番の目的ってこういうつまんないことなのよね。イラクのときも、サダムグッズ欲しさに出かけたし(苦笑)。
小さなメインストリートに出ると、並んでいるお店のほとんどがサイババグッズを販売しています。あまりにもたくさんありすぎて、ありがたみがまったく湧いて来ないんですが(笑)。
神様をとにかくグッズ化しまくるのは、ヒンズーの教えなのだろーか?と考えつつ、いそいそとサイババグッズを物色するわたし。ミーハー観光客丸出し、いや、ある意味信者だな(笑)。
わたしが買ったのは、サイババ指輪、サイババボールペン、サイババシール、サイババの刺繍ポーチ、サイババペンダントヘッド(10個入)…と、その辺でとりあえずやめておきました。サイババが手から出す粉(ビブーティという)もパッケージングされて売られていましたが、身体からそんな大量に粉は出ないのでは?という子供のような無邪気な疑問が…。

SAIBABA03.JPG - 69,460BYTES これでもかというくらいに売られるサイババグッズ。

サイババだらけなのは、みやげもの屋だけではありません。何とATMにまで、サイババのでっかいポスターが!その隣の電話屋のドアにも、サイババ写真の切り抜きが!どこを振り返っても、必ず視界のどこかにサイババ!いつも心にサイババを!
このキャラクターグッズの売られ方といい、敷地内の建物(学校とか病院とか)がことごとくピンクと水色で構成されていることといい、世界宗教博物館なんてものがあることといい…こりゃ立派なテーマパークじゃねーか。ディズニーランドかサンリオピューロランドか、ってなもんです。

SAIBABA12.JPG - 44,892BYTES ウエディングケーキのごときファンシーな門。

さて、サイババグッズの捕獲以外に遂行しなければいけない任務、それはもちろん、生サイババを見る(観る?)ことです。
アシュラムの重要な日課である「ダルシャン」という儀式に参加すれば、サイババ様を拝むことができます。ちなみにアシュラムでは、この「ダルシャン」と、みんなで歌を歌う「バジャン」という儀式が1日3回ずつ行われています。
「ダルシャン」はダルシャンホールと呼ばれる、アシュラムでもっとも重要な建物にて行われます。開始時間の1時間くらい前から、すでにホールの入り口には列が出来、「1日に3回もあるのに何でやねん!?」という感じですが、みんな何の疑問も持たずに(笑)羊のように大人しく並んでいます。仕方ないのでわたしも汗をかきながら行列に混じります。

ダルシャンホールは、ひと言で云うと、キンキラキンの半屋外コンサート会場。一見豪華なのですが、見方によっては悪趣味とも云えます。
信者のみなさんは、狭苦しく並ばされることを物ともせず、やはり羊のように大人しく座って、サイババが現れるのを待っています。ううむ、インドなのに人々が善良すぎる。
そして待つこと15分少々、いよいよサイババ様のご登場!きゃああああっ!(←そういう雰囲気なのよ)さっきまでの大人しさはどこへやら、身を乗り出す人やらマントラを唱える人やらで、さながらアイドルのコンサート状態に…。
サイババ様は右のゲートから、赤いミニカー(ゴルフの車みたいなの)に乗ってご入場です。旅行者たちから聞いていたとおり、どうやら相当に弱っているらしく、立つこともできない様子。サイババカーは、ゆっくりゆっくりと通路を進み、進み…舞台に上がりました。
と思ったら、もう奥に引っ込んでしまいました。
えっ、サイババ謁見、もう終わり?
午後2時30分から信者とともに並んで待つこと45分、サイババが登場して奥に引っ込むのに要した時間10分弱…なんだあそりゃあ!!
手から粉は出さんでもええから、ひとことお言葉くらいが欲しかったわ…「ナマステ。サイババです」でもいいから…。

というわけで、何かしらのパフォーマンスを期待していたわたしは、かなり拍子抜けしてしまいましたが、それだけ弱っているってことなのかも。
遠目に見るサイババの顔は、老人というよりも、子供のように見えました。1回だけ弱々しく手を振ったけれど、それすらも重労働なのかも知れません。話によれば、3代目の養成がアシュラム内ですでに行われているとか。そう云えば、おみやげ物屋に、初代と2代目に挟まれて、ナゾの3代目の肖像が入った絵葉書が売られていましたが、あの顔の濃いロン毛の兄ちゃんが3代目なの?若干CGのモンタージュっぽく見えたけど(笑)。

アシュラムの中は、絶えず人が行き交っています。一体どこからどこへ向かおうとしているのか分からないけれど、やたらにみんな歩いています。
その人込みに、欧米人の姿が多く目に付きます。ゴアやハンピにうじゃうじゃいた欧米人とは、まったく人種が違う人たち。年齢層が高く、みんな真面目そう…そして全員の目が、宇宙を見ているよーに見える…。ニューエイジ系っていうのか、こういうの?
わたしのドミには、ロシア人が3人、ドイツ人が1人泊まっています。みんな、ただでさえ白いのに、白い修行服をまとっているため、何だかこの世の人に思えません。部屋も白いしね…。
お隣のドイツ人女性は、ベッド周りにサイババの写真を飾りまくっています。まるで、1枚でも多くサイババの写真があった方が、悟りに近づけるとでもいうように。でも、アイドルのブロマイドを部屋じゅうに貼りまくっている女子中学生と、ビジュアル的にはあんまり大差ないかも(笑)。
また、ロシア人3人組は朝っぱらから、ろうそくを使ったナゾのヒーリング?儀式を行っていました。目が覚めてその儀式を目の当たりにしたときは、さすがにぎょっとしてしまった…。

SAIBABA27.JPG - 48,311BYTES 敷地内で発見。悪趣味すぎて、逆にアートに見えるオブジェ。

しかし、全体的な割合としては、欧米人よりもインド人の方が多く、7割はインド人なんじゃないかしら。食堂もインド人向けのがあって、そちらは収入に合わせて?か、べらぼうに安かったりします。
アシュラム内には、インド食堂、北インド食堂、ウエスタン食堂という3つのお食事処があり、後の2つが大体同じ価格帯。インド食堂よりは高いのですが、外で食べるよりはるかに安い。しかも、ウエスタン食堂のメシが予想を裏切る美味しさで、わたしは1日1食は必ずここで食べていました。安くて種類豊富で美味しい、全く云うことありません。ただ、開いている時間がヒジョーに限られているので、遅刻するとありつけないのが難点ですが…。

ある日、ウエスタン食堂で朝食を食べていると、日本人の女性に「セイバをやりませんか?」と声をかけられました。
セイバ?何だそれ?と思いつつも、ここで体験できることは、観光の一環として何でもやっておきたいので承諾すると、食後1時間ほどの
皿ふきともやし洗いが待っていました…。ぐおー。
セイバというのは、無償の奉仕、要はボランティアのことだそうです。
その女性―Hさんいわく、エゴ(自我)をなくすことがサイババの教えであり、サイババにはエゴがないのだそうな。そして、セイバは、エゴをなくすための修行である、と。
わたしは「うーん、こんなんでエゴって無くなるもんなのかあ?」と首を傾げながら、タオルにささったもやしの芽をちくちくと取り除いていました。
でも…そもそもわたしが皿ふきともやし洗いを引き受けたのは、単に好奇心からであり、これHPのネタになるかなーと思ったからであり、それってエゴそのものじゃん!ということに気づき、やっぱわたしにはエゴをなくすなんて無理だし、皿ふきもできればやりたくないなーと思ったのでありました。凡人なんてそんなもんです。

その後、彼女に連れられて、ナントカという(名前忘れた…)“サイババが唯一認めたという「エンライトメント(悟った人)」”の開く会合に参加してみました。
団地の踊り場みたいなところで、20人弱が地べたに座っています。半分くらいはスペイン人で、どうやら団体の信者らしく、英語の通訳がついています。
Hさんは会合の中心人物らしく、あいさつの口上みたいなものを述べ始めました。
悟った人は、サイババと同じくらい老いて弱っているよう見えましたが、口をきくと案外しっかりしていました。と云っても、言葉を発したのは会合の開始後30分くらいしてからでしたが。それまでひと言も話さないので、「このおじいさんは置き物か?」と心配になったくらいです(笑)。
ただ、彼がふと、誰に答えるでもなく、ひとこと「Be as you are.(あるがままにあれ、みたいな意味かな?)」と云ったのが、妙に心に残りました。いいこと云うじゃん、じいさん(笑)。

建物や全体の雰囲気は、平和な団地風景といった感じです。いく棟もの箱が並び、そこここに緑があしらわれ…ま、病院とかサナトリウムっぽい空気も無きにしもあらずですが。敷地内には、前述の食堂に加えて、スーパー、図書館、病院、学校…と、生活に必要なものはとりあえず一式そろっています。でも、スーパー、図書館は、ダルシャンなどの儀式とかぶらないためなのか、開館時間がものすごーく短い。
図書館には、サイババの著作の日本語訳本がたくさんあって、初心者がお勉強するのには格好の場所です。わたしは信者になるつもりはないけれど、いったいサイババが何を説いているのかには興味があるので、あれこれとつまみ読んでみました。

SAIBABA13.JPG - 75,643BYTES アシュラム内はいたって平和な雰囲気ではある。

サイババの言葉を、少し書き出してみましょう。

「すべてを愛し、すべてに奉仕しなさい(LOVE ALL,SERVE ALL)」

「すべての宗教の本髄、すべての道の根本的目標、いっさいの経典の教えは愛であり、愛のみです」

「誓言よりも礼拝よりも、奉仕ははるかに尊いのです。奉仕は人のこころにひそむ利己心を砕きます。ハートを広げ、ハートに花を咲かせます」

「名声や賞賛を念頭におかず、人びとにたいする善行のみを考えなさい。有名になることを求めず、自分の奉仕した人の顔にかがやく喜びをもとめなさい」

「奉仕する者は、奉仕される者です。あなたが他の人に奉仕するとき、奉仕されるのはあなた自身なのです。だれかが苦しんでいるとあなたもまた辛い思いをするので、あなたはその人を助けます。その人の苦しみをとり除くことにより自分の辛さを免れようとして、あなたは他の人を助けたいと願うのです。あなたがわが身に辛さを感じることなしに他人の奉仕をすることは、空しく、不誠実です」

他にもいろいろと教えのある中で、特に、愛と奉仕の尊さを説くものが多いように思います。
奉仕、ねえ……。
いや、サイババのいうことは正しいと思うよ。でもわたしは、ボランティア活動の類を一切やったことのない人間だからねえ。えっへん…て、自慢すんなっつーの。
ボランティアに身を捧げている人を見ると、へへーと頭を下げるしかありません。まあ、根本的には自己満足だとは思いますが、やっていることは立派には違いないので、「ボランティアなんて…けっ」みたいな態度も取るに取れないしね。
でも、その一方で、偽善はいいとしても自己満足のにおいが、生理的にダメ(笑)なもので、自分ではなかなかやる気が起こりません。まず、自分のことも足りてないのに、人を助けられるか?っていうところで疑問を覚えてしまって…。
寄付とか奉仕って、基本的には、自足しているところからのスタートでいいんじゃないかとわたしは思うのですが、それじゃあ本当のボランティアとは云えないみたいですね、サイババの言葉から考えると。ない袖を振ることの方が美しいのかな?そりゃ、自分が我慢してでも人を助けるという行為は、美しいに違いありませんが…。それはいざというときでいいのでは?という気もする。
まあ、皿ふきくらいなら、自足してなくても手伝えるけどさ(笑)。

ちなみに、個人的には、図書館で読んだ本の中では、ポーランドの教育者であるヤヌシュ・コルチャック先生の言葉が印象に残りました(「世界の偉人100人」みたいな本があって、そこに載っていたの)。
「しかし、わたしたちはひとつだけ君たちに与えることができます。より良き人生への、まことの、正しい人生への、今日ではありえない“あこがれ”を贈ることができます。おそらくその“あこがれ”が、君たちを、神へ、祖国へ、愛へと導くでしょう。このことを忘れないように。」
ナチスの強制収容所に送られる前に、生徒たちに語った言葉だそうです。そういった背景を踏まえると、余計に胸にしみ入ります。何ていうのかな、高みからの言葉ではない、あくまでも一人の人間としての肉声という感じがして。

しかし、どんなに立派な教えに触れても、わたしには何も分かりません。
スピリチュアルなこと=崇高である、という考え方には、もろ手を挙げて賛成できないのです。精神世界にも興味はあるけれど、深入りはしたくないし、できない。
サイババ教にしてもそうですが、(その)宗教が目指す精神世界とはいったい何なのでしょうか?自我の滅却?全ての事象への解答?
ひとつ云えるのは、この世から戦争をなくすことのできる宗教があるなら、わたしも信者になってもいいかなということです。どの宗教もまだ、本当の世界平和をこの世にもたらしたことはないのですから(どころか、宗教のためにいかほどの血が流れたことか…)。
でも、どの宗教もまだ、本当の平和をこの世にもたらしたことはありません。

どんな宗教も、少なくとも教祖の云うことはたいてい立派なのです――多分、あの麻原ですらも。
根本的には、どの宗教も云っていることはそれほど違わない。真理を追求する、善を行う、神を敬う、慈悲の心を持つ、愛を育み、他人に奉仕し、謙虚であり、欲に溺れない…といったことは、たいていの宗教が教えていることでしょう。サイババがほかの宗教をすべて認めて、サイババ教のシンボルマークに5つの宗教(キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、ゾロアスター教)のマークを入れたり、世界宗教博物館まで作っちゃうところは、むろん寛容な姿勢には違いないのですが、実はそこまで驚くにはあたらないことのようにも思います。宗教法人としては勇気がある行為だと思うけど。

SAIBABA19.JPG - 43,897BYTES サイババタウンへようこそ。パステル調の門の上に掲げられている円盤は、5つの宗教を融合した、サイババ教のシンボルマーク。

それでもわたしは、宗教を全面的に信じることは、この先も出来なさそうです。
学ぶところは多いけれど、信じるまでには至りません。ま、人生に本気で行き詰まったら、すがりつくかも知れませんが(笑)、基本的には、その宗教の中で琴線に触れる教えだけをピックアップして実践していけばいいのかなと思います。
その点、宗教と同じくらい抽象的な、哲学という学問は、最終的には「自分で考えましょう」というスタンスだから、まだしも信頼をおけるのかなという気が、したりしなかったり。

やっぱり、サイババも含めほとんどの宗教に対して引っかかるのは、欲望や執着、感情を否定するという側面です。どれも、一般にはネガティブなものとされているけれど、果たしてそう云い切れるのでしょうか?
“喜”と“愛”だけで生きられるなら、すべての人がそうであるなら、確かに世の中は平和になることでしょう。でも、そんな世界は、あまりにも味気ないという気がします。喜びも悲しみも怒りも、いいものも悪いものも渾然一体となって在るのが人間じゃないの?
理不尽なときは怒り、悲しいときは悲しんで何が悪いのでしょうか。大事な人が死んだときに、「死は悲しいことではない。当たり前のことなのだ」などと云われたところで、どれほどの説得力があるのでしょうか(いずれはそうして納得しなければいけないとしても)。
物質的な欲についても、その欲望で他人や他の生き物を傷つけることはよくないとしても、美味しいものを食べたり、キレイな服を身に着けたときに幸せを感じることは否定できない。そもそも、わたしを生かしている燃料は、“もっともっと”という欲なのです。ただ、まあ、欲に限界を設けることは必要だと思うけれども。

…なんてことを、ここにいると、いろいろ真面目に(?)考えるのでありました。
そういうきっかけになっただけでも、宗教にはそれなりの有益さがあるのかもね。

さて、プッタパルティでは、ハンピで再会したアフガニストMさんと、2度目の再会をしました。
ハンピで分かれてからまだ3日かそこいらしか経っていないのですが、何とMさんは、ここプッタパルティで、1ヶ月契約でアパートを借りたと云うではありませんか!
「そ、それってもしかして…たった数日でサイババ信者になったってことですか?」
「違〜う!信者にはならへん。でも、ここめっちゃ面白そうやん?」
確かに、色んな意味で面白そうではありますが…。そもそも、こんな宗教施設に一般の観光客が気軽に出入りできるってのも、めったにない機会ですしね(日本の新興宗教団体だったら、現世に帰してもらえないだろう…)。
でも1ヶ月って!こんな、サイババ以外何もない村で1ヶ月も暮らしたら、その気はなくてもいつの間にか信者になっているんじゃないか…。ま、そこら辺は個人の自由ですけど…。

Mさんという話し相手もいるし、いろいろな本を読んだり、信者の生態を観察したり、そんなことをしているうちに悟りを開いたりするかも知れないので、しばらくここにいるのもアリかな…と一瞬思いましたが、たたでさえ旅が遅れ気味なので、後ろ髪は引かれるものの、やはり出ることにしました。
まあ、わたしは普通の旅人でいるのが気楽でいいや(笑)。

(2005年1月19日 プッタパルティ)

ICONMARUP1.GIF - 108BYTES 画面TOPINDEXHOME ICONMARUP1.GIF - 108BYTES







inserted by FC2 system