旅先風信120「パキスタン」


先風信 vol.120

 


 

**続・停滞〜戒厳令の夜〜**

 

昼間っから銃声がパンパン聞こえる。まるで、ポップコーンが破裂するみたいに、あくまでも、軽やかに。
宿にいるパキスタン人たちは、誰も動じていない。わたしにしたところで、最初の数発はビビったものの、じきに慣れてしまって、「ああ、またやってるな」くらいの感想しか抱かなくなっている。

状況はどうやら、何も変わっていないらしい。
ほとんどあきらめながらも、ふと不安と焦りが首をもたげる。今日で何日経ったんだっけ…?もう、ずいぶん長いこと、ここに居る気がする。わたしはいつ、ここから出られるのだろう?というより、本当に出られるのだろうか?
…出られるに決まっているじゃないか。こんなことは、いつか終わる。明日か、明後日か…そう遠くない未来に。とりあえず、身の安全は確保されているのだし、あとは、この状態が終わる日を、ただ待つだけだ。ただ待つだけ…。簡単なことだ。でも、実際には、それが一番しんどいのだけれど。

………

それにしても、何故、こんなことになってしまったのだろう?もちろんわたしのせいではない。でも、わたしの運の悪さは痛感せざるをえない。
ビザ待ちで長居せざるを得なかったラワールピンディを、3日前にようやく発って、ギルギットに向かった。パキスタンで、最も行きたかった場所フンザは、もう目の前だ。
ピンディからは、フンザ行きの直行バスがあったのだが、風の谷・フンザに入るにあたって、ギルギットの日本人宿「ツーリストコテージ」で、『風の谷のナウシカ』を読んで、つまり予習して(?)行きたいという目論みがあったため、あえてギルギット行きのバスにした。ピンディ→ギルギットは16時間の長旅である。ピンディを夕方6時に出たから、翌日の昼前には、ギルギットに到着…するはずであった。

異変に気づいたのは、午前9時30分を過ぎたあたりだった。
周りは、すっかり山岳地帯の風景に変わっていて、いよいよギルギット、そしてフンザが近づいてきたのだ…という感慨に耽っていた。
…そこでバスが、急に止まったのである。

よくある故障だと、そのときは思った。どうせ今日は、ギルギットに着いても、ゆっくりマンガでも読んで過ごすつもりだったから、多少の遅れはかまわないさ、と。
ところが、1時間経っても、1時間半経っても、バスは動きそうにない。何故だ?何かあったのか?もともと気の短いわたしである。イライラし始めるのに、そう時間はかからなかった。
そのうち、乗客たちも業を煮やしたのか、次々と荷物を担いで降り始めた。何処に行くんだろう?彼らはこの辺の住民で、いつ動くか分からぬバスよりも、歩いて帰った方が早いということだろうか?

時間はどんどん過ぎていった。いや、むしろ時間が経つのは非常に遅く感じられたが、ともかくバスは止まったままであった。
乗客の8割近くが降りて自力で歩き出すにいたり、わたしもさすがに焦りを覚えた。英語のできそうな人をつかまえて、「何があったの?何でバスは行かないの?」と聞いてみる。
すると、「ストライキだ」という答えが返ってきた。ストライキ?一体何の?

とりあえず、皆に倣って荷物をバスから降ろすことにした。
ビニールバッグを屋根から降ろすと、手がヘンにべたついた。何だろう…と思って、バッグを開けた瞬間、「%#д&?*@¥!!!」声にならない悲鳴が洩れた。
…リンスインシャンプーが、大爆発しとるやないかあ!!!
バッグの中には、衣服から本から食器からアクセサリーキットから、実にいろいろなものが一緒に入っていた。それらがすべて、シャンプーまみれになってしまっている。何という惨事であろうか。しかもこんな、何処とも知れぬ路上で、この先どうなるか予想も立たない状況で…泣きっ面に蜂ってのは、こういうことか。

泣きたい気持ちを押さえつつ…いや、押さえきれずに泣きながら、シャンプーまみれの荷物を、残り少ないミネラルウォーターで残り少ないトイレットペーパーを濡らしてぬぐった。

運転手に「ちょっと、どうなってんのよ!」とつっかかっても、まあしばし待て、という感じでのらりくらりな態度しか返って来ない。
多分、わたし以外の誰もが、そんなに焦ってはいないのだ。勝手の分からないツーリストであるわたしだけが、イライラしている。
結局、1時間待っても2時間待っても、バスは動かないし、事態は何も変わらなかった。わたしは、自力でどうしようもない状況が大嫌いなのだ。何とか打開策はあるはずだ、「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」なのである。
わたしは、ともかくも、ギルギットの入り口まで荷物を背負って歩いて行くことにした。ブロックされているぞ、と聞いてはいたけれども、こんなところでちんたらしていたって、それこそ無駄というものだ。

行ってみると、確かに道は車両が通れないように、石でブロックされていた。アーミーが警備に当たっている。デモ行進しているやつらもいる。
わたしには、今ひとつ危険さは分からないが、まわりのパキ人に云わせると、「ベリーデンジャラス」らしい。死人も出ていると云う。
わたしの得た乏しい情報によれば、イスラム教スンニ派とシーア派の対立で、どちらか派の誰かがどちらか派に逮捕され、その人を解放することを要求してストが起こっているらしい。それで、ギルギットの町は戒厳令下に置かれている、と。

結局、なすすべもなく、この日は近隣のミナヴァルという村で1泊することになった。
ギルギットの入り口で知り合った、ミナヴァルに住むパキ人のおじさんが、そこにいたわたし、ドイツ人女性ツーリスト、パキ人男性ツーリスト数名―いずれも、ギルギットに入れるのを待っている人々である―を、自宅に泊めてくれることになったのである。

夕方は、村の見学がてら、ちょっとしたハイキングもして、それなりにヒマは潰せた。途中、「おおっ、これはナウシカでは?」と思えた風景もあり、村の子供たちは素朴でかわいいし、ようやく「ま、今日のところはこれでいいか」と心が落ち着いた。
家では、食事も出してもらった。これが、今までパキで食べた食事の中で、もっとも美味しくて感激した。
ここの家の3歳の息子は、信じがたいほどかわいい。くまのぬいぐるみのようである。道ですれちがったちびっこも超かわいかったな、そう云えば。今まで気づかなかったが、パキの子供、実はものすごくかわいさレベルが高いかも知れない。

まあ、考えようによっては、こういう状況はとても“ウルルン”であり、そーゆーのが得意というか好きな人なら、大満喫できる環境なのかも知れぬ。
わたしも、ウルルンしようと思ったわけではなく単にヒマすぎたので、働き者の姪っ子に、ブレスレッドの編み方を教えてやったら、おじさんにたいそう感謝されてしまった。「まだ出られないの?いつになったらギルギットに入れるの?」と、1時間ごとにだだをこねておじさんを困らせているわたしは、決して感謝される立場にはいないのだが…。

MINAWAR4.JPG - 50,697BYTES おじさんのおかーさんと3歳の息子。おかーさんの服が妙に可愛い。

ついにこの日も、何も起こらないまま、夕方になった。
いったい、いつになったら皆の云う「シチュエーション ウィル ビー クリア」はやって来るのだろうか?
昨日、ここで一緒に泊まっていたドイツ人女性、パキ人男性たちも、シャブロウというほかの町へ行ってしまった。この町では、やはりピンディから来ているほかのツーリストたちが足止めを食らっているらしかった。
昼頃ここにいた、ギルギット在住のパキ人2人も、夕方になると業を煮やしたのか、「歩いて行く」と云って出て行った。20キロくらいあるらしいが…。

そして、誰もいなくなった。

おじさんは、「何故そんなに悲しそうな顔をしているのだ?」と云うのであるが、よくしてくれている彼にはもうしわけないと思いつつ、やはり、一刻も早くギルギットに行き、フンザに行きたいというのが、正直な気持ちなのである。
別に、ここが居心地が悪いわけではない。でも、超ヒマだ。どうせ動けないのなら、マンガでも読んで気を紛らせたい。

MINAWAR24.JPG - 41,065BYTES ま、この村も充分“風の谷”なんだけどね…。

もはや今日もここで1泊か、と思ったそのとき、急におじさんが、「今からギルギットに行くぞ」と家に駆け込んできた。
え?え?マジですかい?!
とっくにあきらめて、寝転がりながら日記を書いていたわたしは、バネ仕掛けの人形のように飛び上がり、おじさんにせかされながら、5分くらいでパッキングを済ませた。
だだをこねたかいがあったのか?ともかくも、ギルギットに入れるらしい。

入り口までは、おじさんの車で、その後は、アーミーの護送トラックの荷台に乗せられ(多分かなり非公式に)、わたしはついに、ギルギットの町に無理矢理入った。
その道中、わたしは大変なことに気がついた。
…日記、おじさんの家に置いてきちゃったよ。

気がついたのは、おじさんの車から護送トラックに乗り換えるときだった。
しかし、今まさに護送トラックは出ようとしており、今から取りに帰るのは不可能だった。おじさんは「明日か、明後日か、ギルギットに入れるようになったら、ツーリストコテージに届けるから、ノープロブレムだよ」とわたしをなだめ、わたしは半泣きになりながら、絶対ね、絶対届けてね、と念を押しまくってトラックに乗った。

ギルギットに入ったのはいいけれど、ここからは出られないだろうし、また、誰も入っても来られないようだった。
まあ、数日出られなくとも、その場合は「ツーリストコテージ」で、『ナウシカ』と『ジョジョの奇妙な冒険』を読んでいればいいのだ、ともかくギルギットに入れば何とでもなる…。
しかし、事はわたしの思惑通りにはならなかった。車が止まったのは、「ツーリストコテージ」の前ではなかった。辺りが暗いのでよく分からなかったが、アーミーに「ツーリストコテージ?」と尋ねると、「NO」という答えが返って来た。

わたしとアーミーを出迎えたのは、若い男性2人だった。
1人はカタコトの日本語で、「コンニチワ、ヨウコソ」と話した。…って、一体ここは何処なんだよ???
アーミーは、その2人にわたしの身柄を託すと、嵐のように、車ごと去っていった。
「ここは何処?ツーリストコテージじゃないの?わたしは、ツーリストコテージに行きたいと云ったのに!」
そう云うと、日本語を話す若い兄ちゃんは、「ツーリストコテージは、モット先にあります。ツーリストコテージに行くことは、アブナイです。ココはアンゼンです。今日は、ココにとまってください」と、子供に云い聞かせるように、わたしに云った。
それでもわたしは、あれほど何度もツーリストコテージと云ったのに、全然違う場所に連れて来られたことに、腹を立てていた。しかし、もう夜も遅いし、今から自力で行くというのも、不可能だ。

日本語を話す方は、ムニールという名前で、大学生。もう1人のガタイのいい兄ちゃんは、宿のオーナーで、バリといった。
わたしは、一体この状況はどういうことなんだ、わたしはミナヴァルに大事なものを忘れてきてしまった、中国ビザの関係であまり時間もない、とにかく困っているんだ…ということを、涙ながらに訴えた。

バリは、激昂するわたしをなだめながら、この状況を説明してくれた。曰く、このストライキは、ムスリムのスンニ派とシーア派間で、教科書の記述をめぐって長らく争っており―多分、この記述を削除しろとかでしょうか―、しかし政府がその問題をほったらかしにし続けていたので、ついにシーア派がブチ切れた…というようなことだった。

わたしが連れて来られたのは、「ホライズンゲストハウス」という宿だった。
わたしの持っている、98年版の「アジア横断」にも載っている。昔からある宿らしく、ガイドブックには、「西洋人の客が多い」と書いてある。
今この宿にいるのは、従業員と、パキ人客と、下宿しているパキ人の大学生たちと、アメリカ人旅行者1人、日本人旅行者1人(わたし)。男ばっかのむさ苦しい宿事情である。

日記の件は、バリがおじさんの家に電話をしてくれ(名刺をもらっていたので助かった)、わたしがツーリストコテージではなくホライズンGHに泊まっている旨を知らせてくれた。
その後、チキンライスを出してもらい、お腹を満たすと、ようやく心は落ち着いてきた。

………

ギルギットに無理矢理やってきたのは、果たして正解だったのだろうか?
結局は、場所が変わっただけで、状況は何も変わらなかった。むしろ、悪くなったとすら云えた。
その最たるものが、食事であった。着いたその日はチキンライスを食べられたが、、翌日の夕食は、たまごライスだった。そして、その翌日の夕食は、ただの白飯…。
朝食は、何も塗らない食パンと、目玉焼きと、ミルクティー。
ギルギットは戒厳令下にある。外出できない。食糧が手に入らないのはよく分かっている。それでも、タダ飯を食べさせてもらっているわけじゃない。わたしはお金を払っているのだ。不満のひとつも云いたくなる。チキンライスと白飯が同じ値段なんて、どうにも解せない。

ミナヴァルにいたときよりは、PCをつなげるだけまだヒマを潰せたが、今は日中は停電していることが多く、そうなると本当に、どうしていいか分からなかった。
宿にたった2冊置いてあった、日本語の本ー「歩き方 インド編」と「東京アンダーグラウンド」というノンフィクションを、むさぼるように読む。何度も読む。でも、それもやがて飽きる。

わたしと同じく、ヒマを持て余している客たちは、昼間はテラスに出て、トランプに明け暮れていた。
どんなきっかけだったかは忘れたが、あるとき、彼らが「何か日本のゲームを教えてくれ」というので、「大富豪」を教えることになった。まずは、何で“大富豪”なのかという意味から教えなくてはならないので、「このゲームの名前は、WHO IS THE RICHEST PERSON?と云います」などとテキトーなことを云ってみた。
一番弱いカードは3、強いのは2、一番強いのはジョーカー…というところから始まり、革命や革命返し、2ペア3ペア、Jで逆周りなど、覚えている限りのルールを教授すると、彼らは非常に飲み込みが早く、実戦を2回もやったら、どうすれば”大富豪”になれるか?というコツもしっかり掴んでいた。

その日から彼らは、サルのように大富豪ばかりやるようになった。このヒマすぎる状況下で、新しい娯楽がやって来たので、それに夢中なのだろう。わたしが、「たまにはほかのゲームにしようよ。ていうか、パキスタンのゲーム教えてよ」と云うと、「また明日な」とあっさり流されてしまうのである。

ここに下宿している大学生たち―アリフ、ムニール、メヘディとも、大富豪がきっかけで仲良くなった。
彼らは他の2人の友達と5人で、ゲストハウスの一室を借りて、コンピューター部屋に改造している。メヘディはラホールの出身だが、アリフとムニールは、ギルギットに実家があるから、何もここを借りなくても…と個人的には思ったが、まあ、コンピューターの環境の整った場所が欲しかったのだろう。
6畳か、多く見積もっても8畳の部屋に男5人というのは、なかなかむさくるしい光景である(笑)。さすがはパキスタン、敬虔なるイスラムの国であることよのう…と妙な感心をしてしまう。ある日、ムニールに「こないだのピクニックの映像」といって見せてもらったムービーが、見事に男ばっかのピクニックで(笑)、しかもみんなで輪になって奇怪な踊りをえんえんと踊っていた。うーん…ヘンな国。

若い男ばかりの環境、それもムスリムの男ばかりの環境で、隔離された空間の中に外人の女が1人いる…というのは、冷静に見れば、けっこう危ないことなのかも知れない。
しかし、そういう不安は、まったくなかった。最も、初めの頃、アリフたちに「お茶飲みに来なよ」と部屋に誘われたときは、身の危険は感じないまでも、「そーゆーのって、イスラム的には不道徳っつーか、ふしだらと思われたりすんのかも?」と、気を回したりもした。しかし、日が経つうちに、お互い気心が知れてきて、そういう遠慮はなくなってきた。もしかしたら女と思われてねーんじゃねーか、くらいな状態である(苦笑)。

わたしは、自分の旅が、今現在、2年に及ぶことを彼らに話した。当然ながら彼らは、すこぶる驚いていた。ミラクルだ、とまで云われた(笑)。

ある晩、あまりにヒマなので、アリフたちの部屋に、お茶をごちそうになりに行った。アリフとメヘディは、毎晩のように、だらだらとテレビを見ている。「試験前って云ってなかったっけ?勉強はいいの?」と聞くと、もうやるべきことはやったからいいのだ、という。でも忘れるんじゃないの?ま、いーけど。
彼らとまた、いろいろ話をする。今回は、主に国際情勢がテーマになっていた。彼らは驚くほど、世界情勢をよく知っている。わたしは自分の無知さかげんに愕然となる。日本のGDPを聞かれて答えられなかったときは、己を恥じた。世界を旅しているなら、自国についてのそれくらいの知識は持っておかなければ…と、2年以上も経った今になって思う。
ボスニアの戦争を取り扱ったアメリカ映画がやっていた。わたしは戦争映画が好きじゃない。英語もロクに聞き取れないので見ているのが少々苦痛だったが、部屋に帰っても何するわけでもないので、黙って最後まで見ていた。アリフたちは「おもしろかった」と云っていた。

…ずっと後の話だが、アリフはメールにこう書いて送ってくれた。
「僕も、僕の友達も、みんな君を尊敬しているよ。だから、がんばって旅を続けろよ」と。
うれしかった。イスラムの教えのもとで育ってきた彼らに、女が1人で世界を旅するなんて、きっと考えられない話だと思う。でも、彼らは、そんなありえないことをしている“ヘンな外人女”に対して、「尊敬している」と云ってくれたのだ。涙が出そうだった。わたしは彼らにワガママばっかり云って、迷惑かけっぱなしだったけれども、何か、新鮮な驚きとでもいうようなものを、彼らにプレゼントすることは出来たのかも知れない、と思った。

GILGIT1.JPG - 45,729BYTES 左から、アリフ、メヘディ、ムニール、宿のレセプション。

…朝起きる。とりあえず部屋から出る。通りかかった誰かに、「ねえ、どうなってるの?」と尋ねるけれど、状況は何も変わっていないという答え。そして、「ここを出たらピンディに戻るしかない」と云われる。イヤだ。それだけは絶対にイヤだ。こんなバカげた状況が、永遠に続くわけはない。あと1日、いや2日待てばきっと、ここを出られるはずなんだ。
わたし、何やってんだろう。何だか精神が麻痺していくみたいだ。 今日は銃声は聞こえない。状況は少しはよくなっているんだろうか?

水が使えるようになったので、シャワーを浴びた。シャワーというより、行水に近いけれども。シャンプーがないので、石鹸で頭を洗った。泡立ちが悪いが、仕方ない。それでも、洗ったらずいぶんすっきりした。水のある間に、洗濯もしておこう…。幸い、天気はすこぶるいい。

パキ人たちは、大富豪にすっかりはまっている。わたしも、外に出ると必ず誘われる。しかし、10回くらいやったらもう飽きてしまって、ふいと部屋に戻る。PCの電源をつなぐ。つながるときと、つながらないときと、確率は半々だ。つながったら、溜まっている原稿を書こうと思いながら、心と裏腹に(?)「ドラクエ6」に手を出してしまう。

…ダメだ。こんな生活。このままだと、身も心も腐ってしまいそうだ。
日にちにしてみれば、4日、5日というところだが、わたしには、永遠のように感じられた。1日も早くここを出なければ。旅を進めなければ…。
ムニールはブレイクを利用して家に帰ったし、アリフは、唯一出られないメヘディのためにまだここにいたけれど、ほかに泊まっていたパキ人たちも、いつの間にか1人、また1人と減っていった。

わたしは、どんな状況下でも楽しめる、ポジティヴな人間ではない。
トラブルを楽しめるほど、心の広い人間ではない。
トラブルは、わたしにとって、トラブルでしかない。あとから話のネタにはなるか…と思うことだけが、唯一の救いだが、トラブルのど真ん中にいるときは、ひたすらこの状況から逃れたいと願うばかりだ。

ある日、いつもより長い、2時間のブレイクが与えられた。わたしはそれを利用して、町を歩くことにした。
外界と接するのは、5日ぶり?6日ぶり?……
特に当てもなかったが、もともと泊まるつもりだった「ツーリストコテージ」に行ってみた。誰か旅行者がいないかと思って。
しかし、宿にいたのは従業員だけだった。旅行者たちは、全員、ラワルピンディに帰したとのことだった。

そのあと、ツーリストインフォメーションに行った。インフォは、PTDCという政府系ホテルが兼業している。何か、この状況を打破する方法があるのではないかと期待して、インフォのおっちゃんにことの成り行きを話した。
すると、おっちゃんは、「分かった。実はわれわれは、これからススト(パキ=中国国境)に向かうので、その車に乗せていってやろう」と申し出てくれた。
スストへの道の途中に、わたしの行きたいフンザ(カリマバード)がある。わたしは、いちもにもなく、その提案に乗ることにした。

しかし、話はそううまくいかず、フンザは今も危ないから、スストのPTDCのホテルをタダで提供するからそこに泊まるように、ということになった。
何だ、フンザには行けないのか…。まあ、仕方ない。タダで泊めてもらえるなら、悪い話じゃない。それに、もう、ギルギットからは早く出たい。

車―というか、正確には「スズキ」(※パキの乗合軽トラ。日本のスズキ製で、何故かそのまま名前にもなっている)―でGHに戻り、散らかしてあった荷物を、大急ぎでまとめながら、バリに事情を話した。わたしがこのような思い切った行動(?)を取ったことに少々驚いていたが、PTDCの人なら安心だろうと、快く送り出してくれた。
ノートのことだけが気がかりだったが、バリは「状況がよくなったら、そっちに届けるから」と云ってくれ、何も心配することはない、と念を押した。

スズキは、カラコロムハイウェイをひた走った。
途中、カリマバードにも立ち寄った。 しかし、そこでは降ろしてくれなかった。その手前のアリアバードにある、やはりPTDCのホテルが、すさまじく破壊されていたのを見たわたしは、フンザが危ないというのも、大げさな話ではないのだなと認識し、おとなしくスストまで連れられて行った。

HUNZA13.JPG - 35,400BYTES 破壊されたPTDCホテル。

ホテルは快適だった。さすがに政府系である。
しかし、昼間に電気が来ないのは、致命的だった。PCがさわれない。外に出るにしても、特にこの小さな町には見るべきところはない。頑張っても、1時間も出歩けない。国境の町なんて、そんなもんだ。

これからどうすればいいのか?考えなくちゃいけないけれど、考えるのがもう面倒だ。
なるようになるしかない。
でも、本当に、なるようになるんだろうか?
日記は戻って来るんだろうか?バリや、おじさんが何とかしてくれるのだろうか?
いや、他力本願じゃだめだ。いざとなったら、自分の足でギルギットに戻って、取り戻してこないと。あきらめるワケにはいかない。あれだけは。
PTDCのおじさんは、「ノープロブレム」を連発するけれども、あの村からこんなに離れた場所まで来てしまって、本当に何の問題もないのだろうか?
それにしたって、何でまた、あんな大事なものを忘れて来るんだよ?わたしのバカ、アホ、マヌケ!!!そーだよ、すべてはわたしの不注意のせいじゃんかよ…。

日記の件が片付かないことには、今後の行動もどうしていいか分からない。
もう中国は目の前だ。今すぐにでも越えてしまいたい衝動に駆られるけれど、そういうわけにはいかない。パスー氷河も見ていないし、「ハイダーイン」にだって泊ってない。最悪フンザはあきらめるとしても、氷河は見たい。ギルギットを出てからまだ3日しか経っていないけれど、ずいぶん遠くに来てしまった気がする。そして、時間もずいぶん経ってしまった気がする。
ギルギットの状況は、どうなっているのだろう?兎にも角にも、それが最も重要なことだ。それさえ解決すれば、すべて解決するのだ。もういいかげん、和解してくれよ。頼むから…。旅人という完全部外者のわたしまでしっかり巻き込んじゃってさあ…。

とりあえず、パスー氷河のトレッキングに出かけることにした。
動いていないとまた、腐ってしまうからだ。
久々に身体を酷使したが、かえってそれが気持ちよかった。足が喜んでいるように、よく歩いた。
圧倒的な姿かたちをした山々、生まれて初めて見る氷河、小さくて素朴なパスーの村…わたしは特に自然好きでもないが、このときばかりは、自然の美しさに大いに心を揺さぶられた。
何と云っても、10日近く軟禁状態なのである。ひさびさにこのような大自然と接し、ものすごい開放感を味わったのだった。

HUNZA13.JPG - 35,400BYTES パスー氷河。

パスーから戻ると、何と日記が届いていた。
バリが約束どおり、ここまでやって来てくれたのだった。実は、今朝パスーまで乗せていってくれた旅行会社の人たちに「戒厳令の間でも、フンザに行くことはできたと思うけどな。君がホテルを出られなかったのは、オーナーが金を稼ぎたかっただけさ」と云われて、凹みつつも、まあそうなのかもなあ…と思っていたのだったが、日記を急いで届けてくれた(明日と云っていたのに)バリの親切な気持ちを考えると、めちゃくちゃ申し訳なくなった。
この日の夜も、バリは電話をくれた。わたしは何度も、ありがとうと繰り返した。「ギルギットはどう?」と尋ねると、「もう問題は解決したよ」との答えだった。「みんな寂しがってるから、戻っておいでよ」と云われたが、いやあ、もうギルギットに戻るのはカンベンだって(笑)。でも、バリたちにはもう一度会って、直接お礼を云いたかった。

わたしは、翌日スストを出ることにした。
ここを出て、カリマバードに行くのだ。基本的に、進んでいるルートをバックするのは好きではないが、ここで国境を越えてしまったら、もう二度とフンザの地を踏むことはないだろう。
ここからはたった3時間なのだ。 行かなければきっと後悔する。

PTDCのおっちゃんには本当に世話になった。わたしをタダで泊めたって、何のメリットもなかろうに…。
おっちゃんに深くお礼を云って、ホテルを出た。また色んな人に助けられたな…と思いながら。
久々に背負うバックパックは重かったけれど、その重さは、何だか心地よかった。さあ、いよいよフンザだ。

(2004年6月13日 ススト→カリマバード)

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