ヘラートからカブールまでは、約1時間半のフライトです。 ヘラートの空港が、「おいっ、これホンマに空港か?!」と抗議したくなるほどしょぼく、まるで村役場かと思うような施設だったのが、とても印象的でした。 のわりに、飛行機は立派なジャンボ機で驚きましたが。アフガンの航空会社だから、払い下げの軍用機かも…なんてちょっと楽しみだったんですけどねー(笑)。
カブールでまず行った場所は、かつてのヒッピー・ストリートだった、チキン・ストリートです。 70年代、ヒッピーの聖地だったというカブールの面影を少しでも味わえればと、これっぽっちもヒッピーの要素がないわたしなのに期待していたわけですが、面影の“お”の字もなく、今は単なるみやげものストリートと化しています。ま、ただでさえ30年以上も経てばいろいろと変わるのに、こんな政情不安だらけの国では、当然の結果とも云えましょう。 それにしても、いくらアフガンが質のいいハシシの産地だからと云っても、ここがかつてはヒッピーの溜まり場だったという事実には、ただただ驚くばかりです。行ったことないけれど、カトマンズのタメル地区とか、バンコクのカオサンとか、あの辺りに近い雰囲気だったのでしょうか…うーん、どうしても想像ができない…。
“夏草や 兵どもが 夢の跡”状態のチキン・ストリート。
カブールの見どころというのは、実はそんなにありません。強いてあげるならば、@チキン・ストリートAテレビ塔Bカブール動物園Cバーザール…といったところでしょうか。 Aは、つい先日、欧米人パッカー2人組が殺された場所なので、やめておきました。同じ宿に泊まっていた、ちょっとクレージーなやはり欧米人2人組は、殺された次の日に上ったらしいけどね(笑)。 Bは、はっきり云って、何もいません(笑)。目玉は…ツキノワグマ? サルの住処が、異様にゴミを放り投げられて汚染されていたのが、とても気の毒でした。ここは、動物よりも、見学に来ているアフガン人や、爆撃で破壊された檻などを見るのが、正しい観光の仕方かも知れません。
カブールに着いた翌日、われわれは、アフガン唯一の世界遺産であるバーミヤンに向かいました。 バーミヤンという名前は、みなさんもどこかで耳にしたことがあるのではないかと思います。チェーン店の中華料理屋ではなくて、かつてそこには、岩を刳り貫いて造られた巨大な仏像がありました。しかし、「アフガンに仏教遺跡はいらんのだ」と、タリバンによってあえなく爆破されてしまったのでした。今は、仏像があった場所が巨大な空洞として残っているばかりです。なので、遺跡として見るべきものはないのですが、まあ、“負の遺産”を見に行くということで。
カブールの宿で偶然会った、モバイルパッカー・たるや夫婦(リンクページ参照)と合流したので、にわかににぎやかな大所帯での旅路となりました。 カブールからバーミヤンは、ハイエース(つーか、ハイエースを改造した乗り物)で約8時間。早朝5時出発ということで、まだ日も昇らないうちから、夜逃げのようにホテルを出て、バスターミナルへ。
この移動が、長らく味わったことのないようなハードな移動でございました…。 あの、悪夢の如きエチオピアの移動以来かも…あれより地獄な移動は、後にも先にもなかろうと思っていましたが、まさか1年以上も経って、こんなところで味わうことになろうとは…やられた。 ハードだ、とは聞いていたものの、エチオピアよりはマシであろうと完全にナメきっていました。 どれくらいハードかと云えば、たかだか120キロの道のりを、8時間かけて行く…と云えば、如何に悪路であるかが分かっていただけるかと思います。 眠ってすべてを忘れられればいいのですが、寝ようとすると、頭を窓に強打するわ、首をひねりまくるわ(首が座ってないのかなあ?)でとてもムリ。それでも、こちらは朝3時起きの身、眠気は絶えず襲ってきて、それとの戦いもあって、二重三重の苦しみでした。 さらに、最後の1時間、ご丁寧にも高山病による頭痛(激痛)まで襲い掛かってきて、ホント、死ぬかと思いました。口の中で「神様、神様、助けて…」と、うわごとのように繰り返すほど、頭がおかしくなっていました…。
ほかの4人は、「ハードだったねえ」なんて云いつつも、顔を見たらけっこう元気そうで、自分の弱さをひしひしと感じました。「これよりヒドい移動って、経験したことあるんですか?」とMさんに尋ねたら、「タイ―カンボジア間はもっとヒドかったねえ」という答えが…この先の旅に、自信がなくなってきました。 ホテルが決まったとたん、わたしはマットレスの上に倒れこんだまま、ぴくりとも動けなくなってしまいました。
それでも、いざ観光となると、どこからか力を振り絞ってくる、健気な、と云うよりも異様なわたくし。。。 バーミヤンのカラ大仏を見に、4人が出かけるところにくっついて行って…完全に修行です。 カラ大仏は、見事にカラッポでした。分かっちゃいたけれど、やっぱりどうにも残念だなあ…という思いがこみ上げてきます。 ここにもし大仏が存在していたら、どれほどすごい遺跡だったんだろう…って。この空洞の巨大さを見れば見るほど、大仏の圧倒的な巨大さが窺い知れ、どうにももったいなく、残念な気持ちになるのでした。
とは云え、石窟群はなかなかの奇観で、大仏のあった辺りから見下ろすバーミヤンの村は、砂地と田園の混在する、美しくのどかな風景でした。 本当にここが、恐れていたアフガンなのだろうか…と疑わしくなるほどです。 後日、“戦車の墓場”なる見どころ(なのか?)にも足を運んだのですが、お花畑の中に、スクラップになった戦車がゴロゴロしている光景は、シュールな絵画のように何とも奇妙でした。「花と戦車」そんな名前の美術作品、ありそうですね。見張りのアーミーのテントで、ランチをごちそうになったりして、何だかあまりにもノー天気なアフガン…。
元・大仏のあった石窟。ご覧のとおり、からっぽです。
「花と戦車」
観光を終えると、即行で電池が切れてしまい、その晩はずっと宿で臥せっていました。ときどき目が覚めると、上の食堂からにぎやかな笑い声などが聞こえてきて、「何でわたしだけが…」と寂しく、すべてを呪いたい気分でした。 それでも、たるや夫婦にバファリンとポカリスエットを頂戴し、しばらく眠ると、頭痛はかなり引いていました。
翌日は、バーミヤンから車で3時間のところにある、バンダミール湖へ。 バーミヤンの大仏と違って、バンダミール湖は、旅行者の間ですらマイナーな存在で、わたしもまったく知りませんでした。しかし、アフガン帰りの旅行者たちが全員、口をそろえて「バンダミール湖はすごいですよ」と云うので、足を運ぶことにしたのです。
バンダミール湖までは、ランクルをチャーターして行きました。人数がいると、こういうとき助かりますよね。1人で来ていた旅行者は、車をシェアする人が集まるのをここで何日も待っていたそうですから、われわれはラッキーでした。 とは云え、このランクルチャーターも、「昨日云ってた値段と違うじゃん!」と、朝っぱらからケンカになって、敵のアフガン人たちが内輪揉めまでする始末でしたが…。結局は、どこからともなく現れたおじいさんドライバーに頼んでみたところ、あっさり交渉が成立。このおじいさんは、英語はまったくダメだけど、明るくノリのいい人で、しかも余計なことは云わないという、よくできたドライバーでした。
バンダミール湖への道は、当然のように未舗装ですが、昨日ほどヒドい道ではなく、わりに快適な旅路でした。。 岩と砂の丘陵をアップダウンしながら、車は果敢に進んでいきます。車窓の風景はえんえん、乾ききった、ほとんど色彩のないミニマルなものです。しかし、目をこらすと、「地雷注意」の目印である石を積んだ小さな塔があちこちに立っているのが分かります。そういう場所なのです。地雷で爆破したらしい車の残骸も見ました。
ふいに、砂の峡谷の合間から、青い何かが見えました。 それは、白い紙にインクを落としたような、どぎついほどの鮮明さで、視界に飛び込んできました。 「あれじゃないですか?バンダミール湖」 その、あまりにも青い湖に、車内は騒然となりました(笑)。運転手に「ちょっ、ちょっとここで止めてっ!!!」と待ったをかけて車を降り、カメラを構えるのもしばし忘れて、バンダミール湖に見とれるわたしたち。 「すげえ…」「すごいですね…」 絶句するほかない光景でした。
車は、湖のすぐ側まで行きました。 近づいて見てみると、湖はまるで器のように地面から盛り上がっており、その器からは、周りの乾ききった風景からは考えられないほど澄んだ水が、滝となってこぼれ出でています。ここだけが、高貴な宝石のように、異様なほど青く輝いています。
バンダミール湖の青さは、神秘的、いや悪魔的とでも云えばいいのでしょうか…もはやこの世のものならざる青の色でした。 これこそが“”青”――正真正銘の、まごうかたなき青色。これ以上の“青”は、この地上にないのではないかと思うほどです。 メキシコでカリブ海を見たときも、その青さに相当ビビリましたが、このバンダミール湖は、あのとき以上の驚きをわたしにもたらしました。 決して人工的な青ではなく、あくまでも自然の出す色。でも、どこか不自然にも見える青。ああ、いったい何と表現したらいいのでしょうか…。
アフガンで見るものと云えば、バーミヤンのように、“破壊”や“戦争”がキーワードになっているフシがありますが、この湖だけは、破壊もなく、血塗られた過去もなく、ただそこに、超然と存在しているのでした。それも、見事すぎるほどの姿で。そのことがまた、この湖の美しさを、どこか現実離れしたものにしているのかも知れません。
湖は、入場料こそ取らないものの(笑)、しっかりチャイ屋が営業しており、曲がりなりにもここがアフガン有数の観光地であることを認識しました。もし、世が世なら、この国に戦争がなかったら、ここはとっくに、世界遺産になっているくらいのものなんだ…。 この湖は、まるで隠された宝のようです。これほど美しいのに、日の目を見ることはない…それは、旅人にとっては、悲しくもあり、少し嬉しくもあります。みんなに知ってほしいという気持ちと、誰にも知られたくないという気持ちと…。 それにしても・・・アフガンティー(砂糖入りの緑茶)をすすりながら、目の前の、あまりに青く静かな湖を見つめていると、自分はいったい何処の国にいるのだろうかと、訝しまずにはいられません。命がけでやって来た(笑)アフガンで、このような平和と静けさを味わうことができるなんて、思いも寄らなかったですもの…。
問答無用の青さ!
バーミヤンから再びカブールに舞い戻ったあと、たるや夫妻とM嬢は、ひと足先にカブールを出ることに。 たるや夫妻はともかく、わたしとMさんと行動をずっとともにしていたM嬢は、チキンストリート以外はカブールを見ていないはずなのですが、どうも“アフガンにいる”という緊張感で疲れてしまったらしく、1日も早くカブール、いやアフガンから出たい様子でした。 逆にわたしは、入国前に緊張しすぎていたせいか(何しろ半分死ぬ気だったしな)、実際のアフガンがとても平和に見え、「もうちょっと居てもいいかな…」という気になっていました。 次にアフガンに来る機会など、まずないでしょうから、少しでも、可能な限りアフガンの空気を味わっていたかったのです。
というわけで、わたしとMさん、そして何故かくっついて来た、同じ宿のクレージー欧米人2人組は、カブール動物園、カブール大学周辺にある、USAの爆撃を受けた建物の廃墟群などを観光することにしました。 その道すがら、声をかけてきた、何故か絵描き風の服装のアフガン人に「メシでも食ってけ」と招かれ、家にお邪魔することに。 まさかこれが、狂乱の宴になろうとは、誰が予想しえたでしょうか…。
まあまあ上がんなさい、と云われて家に入り、ケバブ(アフガンのケバブは絶品です)とコーラをふるまわれたところまでは、よくあるウルルン的光景だったのですが、ここからが違いました。 いつの間にやら、コーラは“ウォッカのコーラ割り”になり、ぶっといハシシが回り、その場にいたアフガン人たちはすっかりいい気分で、飲めや歌えやの大騒ぎです。家主の娘らしき、3歳くらいの美少女が、この恐ろしい”オトナの世界”にあくまでも無邪気な表情で入って来ているのが、何ともシュールでした。家主が、娘をひざの上に抱っこしているのはいいけれども、アンタ、手にハシシとウォッカが!
ご存知のように、アフガニスタンは、イスラム教国家です。 そして、イスラム教徒は、お酒を呑むことを、堅く禁じられています。 …なんてことは、この場では鼻クソほどにも気に留められていないのでした(笑)。 さすがのクレージー欧米人ですら、この光景に呆れたのか、すっかり冷静になっており、ハシシ大好きなクセにほとんど断っていました…Mさんは断ってなかったけどね(笑)。
一番すごかったのは、アフガニポリスのオッサンでした。このオヤジの狂いっぷりは、この場にいた全員を、はるかに凌駕していました(笑)。 いきなり「アイラブユー!アイウォンチュー!」とか叫んだと思ったら、自分の乳首をつまんで恍惚の表情でセクシーポーズを取ったり、ウォッカの瓶を片手に踊りまくって床にある食べ物をぶちまけたりと、ポリスにあるまじき狂態です。 明らかに「オッサン、もう飲めないだろ!」という状態なのですが、オヤジには限界がないのか、素晴らしい勢いで酒をあおり、ハシシも吸いまくり、ますます酩酊。当然ぶっ倒れてしまい、しばらく部屋の隅でおとなしくしていたと思ったら、ゾンビのように復活し、またまた酒を呑み…うーん、人間のこのような狂態を、久々に見たような気がするぞ(笑)。
こういう情勢の国だし、普段はよっぽど抑圧されているのかもなあ…と、ちょっと真面目に考えつつも、でもやっぱ、このヒトたちはちょっとやりすぎなのではないか、と苦笑を禁じえないのでした。ははは…。
左から2番目のオッサンが持っているのは、正真正銘のウォッカです。
これでいいのか、アフガン警察!?
結局、カブールでの一番の思い出は、このどーしょーもない人々との邂逅となってしまいました(笑)。カブールと云われると、パブロフの犬のごとく、真っ先にこれを思い出してしまうのですが、何とか軌道修正して、もう少しまともなことも書いておきます。
前述のように、カブールには、これというほどの特別な見どころはないのですが、その中で、バーザールは、非常に異国らしい雰囲気と活気がありました。 何と云うんでしょう、人、物、空気…そこにあるすべてのものがうごめいているようで、その中を歩いているだけで、不思議に気分が昂揚し、身体に熱がまとわりつくようでした。 しかし、何よりも感動したのは、この、戦争の影を色濃く引きずる首都のバーザールが、これほど大規模で、活き活きとしているという事実でした。
「ああ、この人たちもまた、笑い、泣き、怒りしながら、生活を営んでいるのだな…」。
そんな、当たり前とも云えることを、普段はいちいち考えたりしません。本当は考えるべきなのでしょうが、ついおざなりになって、他人の存在の重みというものを忘れてしまって、恐ろしく利己的な言動に及んだりする。情けないんですけど…。 ただ、旅の間のふとしたときに、視界が急に明るくなるような感じで、他人の存在が鮮やかに、リアルなものとして目に映ることがあります。 特に、こういう、マイナスイメージの強い国で、人が普通に生きているさまを見ると、生きていることの重みというか、リアルさみたいなものを、切実に感じるのです。
戦争があったのは、たった3年前です。それ以前から、アフガンは長いこと内戦状態が続いていましたし、アフガンの一部地域では、今でも戦闘が繰り広げられています。 それでも、アフガンの人々は、自分の国、自分たちの与えられた場所で生きている。現に今、わたしの目の前で、彼らはまさに生きている。戦争で、さまざまなものを破壊され、失ったことでしょうが、こうやってまた、西院の河原で石を積む子供の如く、新しい生活を築いている…。 云い方は悪いけれど、人間ってしぶといよなあと思います(死んじゃうときは、わりかしあっけないんだけどね)。そしてそれは、とっても素敵なしぶとさだなあと、何だか嬉しくなってしまうのです。
カブールの街のあちこちに、アフガン戦争の英雄となった、マスードの肖像が掲げられています。そこには、「マスード、われわれはあなたの作った道を進みます」といった意味のコピーが添えられており、それを見るたびに、わたしの中に何やら熱いものがこみ上げてきます。ま、実はマスードのこと、あんまりよく知らないんだけどさ(笑)。 でも、マスードの肖像には、何となく、この国のよりよい未来が象徴されている気がして、好きなんです。マスードがまた、単純に、ビジュアルがカッコいいの(笑)。いかにも砂漠の闘士らしい、ストイックな美しさがあって、ありていに云えば、カリスマ性を感じさせる風貌なんですよねー。ゲバラと云い、マルコスと云い、このテの英雄は男前ぞろいですな。やっぱり「戦う男は美しい」ということなんでしょうか。
ちょっと遠目ですが、マスードの肖像。
アフガン最後の町、ジャララバードに来ると、それまでにはなかったパキスタンの空気がむんむん感じられました。オートリキシャが町じゅうを走り、駐車場にはパキスタン名物・デコトラが連なって停まっており、シャルワール・カミース着用率が異様に高い(笑)。 でも、われわれが歩くと、やたら人の注目を浴びるところはやはりアフガンですね。すっかりアイドルですよ、アイドル。あっちこっちから声がかかって、その度に笑顔で手を振り返したりして、散歩というより、もはやパレードですね。 そして、カメラを出せば、どこからともなく現れるオヤジ&ガキども、それが瞬く間に膨れ上がり大騒ぎになるという、これもまた、アフガン現象。ホント、こっちが困ってしまうくらい、写真好きなんだよねーこの人たちは(笑)。
ということで、10日間のアフガン旅もここで終わりです。 終わってみれば、ずいぶんとのほほんな、ノー天気な旅路となりましたねえ。ああ、友達に、ちょっと遺書めいたメールまで送ってしまた自分が、バカみたいだぞ(苦笑)。 心配していた電源も、ほとんどの場所で確保できたし、風呂にも入れたし(ハマムでしたが)、予想していたほど不自由なことはなかったですね。 カンダハルなど、危ない地域に行かなかったからかも知れませんが、人から聞いていたような、切羽詰った状況など、微塵も体験しませんでした。最も、カブールは夜9時を過ぎると、通りに全く人気がなくなって、かなり怖かったけど…。まあ、何事もなかったのは、単に運がよかっただけなのかな。1人旅でもなかったし。
本当のことを云えば、ちょっとくらいは、“アフガンらしい”スリルを体験したかった気もしつつ…。ほら、何だかんだ云っても、アフガンに来た理由って、コワいもの見たさ、ってのが大きいですからね…不謹慎ですけど。いや、でも、この際贅沢(?)は云わないことにしましょう。
これからアフガンに行きたい、という人に対して、「いいとこだから、ぜひぜひ」と、手放しにおすすめはできません。でも、少なくとも、わたしの中のアフガンのイメージは、変わりました。無論、よい方向に、です。 1日も早く、アフガンに本当の平和が訪れんことを。
(2004年5月25日 ペシャワール) |