旅先風信117「アフガニスタン」


先風信 vol.117


**アフガンに行く心**

 

不安で眠れない。
怖い。死にたくない。恐ろしい目にも遭いたくない。
この旅を無事に終わらせること。HPを完結させること。お父さんと弟くんに五体満足な姿を見せること。
せめてその3つだけは果たしてから死にたい。

不安と戦ってまで、アフガンに行く理由は何だろう?
好奇心。功名心。得体の知れない衝動。それから…?
正直、もう帰国して、静かに穏やかに暮らしたい気もする。好きな本と好きな洋服に囲まれて、日本食を食べて暮らしたい。
死なずに、いや全て無事で抜けられるだろうか。抜けたい。そうじゃなきゃ、行く意味がない。だってこれは、ただの旅行なんだから。
この期に及んで、自ら試練(?)に飛び込んで行くなんて、我ながら愚かだと思う。何かあったって、誰も同情なんかしてくれないだろう。
もっと、面白おかしく、テレサで会った福ちゃんがいつも云ってたように、「旅なんて、ただ楽しければいいんだよ」っていう、そんな旅ができればいいのにな。ほんと、わたしは愚か者だよ。

HERAT2.JPG - 46,713BYTES タリバン風味なアフガンおやじ(笑)。

………

アフガン行きの前日に、ノートに書きつけた文章です。
今にしてみれば、「えらい大げさやなぁ、あんた」って笑えるけれど、そのときは、かなり真剣でした。
アフガンはもうあきらめるつもりでマシュハドに来たその日の夜、偶然アフガンに行くという旅行者を見つけ、連れがいれば大丈夫かもとにわかに勇気が湧き(笑)、慌ててビザを申請して…という自分でも予想外の展開になり、何の決心も覚悟もないままアフガンに行くことになってしまった。そのことに、大きく戸惑い、「本当にいいのだろうか?わたしの選択は間違っていないだろうか?」と自問自答を繰り返しました。

何しろ、アフガンと云えば現在、イラクに次いで危ないとされている国。
と云うより、アフガンはもう昔っから危ない国でした(笑)。具体的には、ソ連が侵攻した約30年前から。30%とも50%とも云われる驚異的なミッシング率を誇り(誇るなっつーの)、3年前のアメリカとの戦争後はさらにアップしているという噂です。今でもタリバンの残党があちこちに潜んでおり、特に本拠地カンダハルは、NGOの人たちでも「早くここから去りたい」と云うほど、始終緊迫しているのだそう。

昨今でも、怖いニュースはたくさんあります。
まずは、最近アルカイダが「日本人とイタリア人の首に金500グラムの賞金を出す」との声明を出したという話。何故日本人とイタリア人なのかというと、両国ともイラクに軍隊を派遣したからだそうです。
さらに、アフガン行きの前日、CNNオンラインにて「アフガンで欧州男性2人の遺体発見、投石浴び死亡か」という見出しのニュースを発見。読み進めてみると、この事件は首都カブールで起こっており、この2人は旅行者で、アフガン式の衣装を身につけていて、頭部に石やれんがによる多数の外傷と、1人は刺し傷、もう1人はロープで首を締められていた痕跡がある、という話でした。しかし何が怖いって、この事件が、たった3〜4日前に起こったということだよ!おいおい、カブールは今そんなに物騒なのか?!

イスタンブールで会ったNさんは、最近アフガンに行った人のメールを添付して送ってくれました。そこには、アフガン全土に戒厳令が敷かれ、どこも夜7時以降は外出禁止、バスが遅れて着いたある町では「こんな時間に歩いていたら殺されるぞ!」と国連軍に保護され…てな話がえんえんつづられていました。
極めつけは、「アフガンでバスに乗った日本人旅行者(男)が、7人のアフガン人(男)に犯され、頭がおかしくなって、現在ペシャワールの病院に入っている」という話。よくある旅伝説かと思ったら、わりと最近の話で、どうやら本当らしいのです。ううう、何て国だアフガン…。

そんな不安なら、行かなければいいのにと、普通は思いますよね?
わたしだって、無理してまで行くつもりはなく、例えばこのまま同行者が見つからず1人であれば、やめようと思っていました。
でも、見つかってしまったんだもの。それで、勢いでビザ取っちゃったんだもの。何かもう、後には引き返せない気がして、それに、こんなに偶然、しかもえらいタイミングで同行者が見つかったってことは、旅の神様が「キミはアフガンに行く運命なのじゃ」と云っているのかも…という気がして。

旅人の中には、わざわざ危険地帯を好んで行くタイプの人が、けっこういます(ほとんどは男性ですが)。
好んでとは云わないまでも、“危ない”と聞くとヘンに血が騒いで、つい現場に行ってしまう、不謹慎な人たち。ええ、わたしもその1人です。すみません。
悪魔的な好奇心と、ちょっとした英雄になりたい功名心(「アフガンに行ってきたぜー」「おおっ、すげーなー」という会話が成り立つ程度の英雄ですが)。それから、いわゆる“死への衝動”(タナトスってやつですか)。カンタンに分析すると、その辺りが、われわれを危険地帯へと赴かせるのではないかと思います。
例えば、崖っぷちのギリギリのところに立って、下を恐る恐るのぞいてみたい。そういった類の欲望。自殺志願者以外で、本気で死にたい人間はあまりいないと思いますが、“死”を垣間見てみたいと考えている人は多いのではないでしょうか。そうでなければ、エグいホラー映画や猟奇殺人映画が、これほど多くの大衆に愛されるわけがないし、戦争やでかいテロのニュースになるとTVの視聴率が異様に上がるわけもないのです(後述するイラク人質事件だって、相当大衆を楽しませたと思うぞ、実際のところ)。

ところで、アフガン行きにあたって、約1ヶ月前に起こったイラクの人質事件のことに触れないわけにかないでしょう。
これからアフガンに行くわたしにとって、あの事件はとても他人事とは思えません。わたしだって、いつ同じ目に遭うか分からない。そうなったら、旅はもちろん、人生だって狂いかねない。
人質事件については、「お前らの愚行に、国民の血税を使わせやがって!」とブーイングの嵐だそうで…。抗議の手紙、嫌がらせの電話…実に日本的な陰湿さとヒマさ加減を表していて、ぞっとします。
彼ら3人は、確かに、危ないと分かっている場所に自ら出向いていった。そのことは本人達の責任だと思います。結果的に、自己責任では済まない事件に発展してしまったわけですが、彼らはそれぞれの理由があってイラクに行ったのであっで、決して愚行のつもりでそうしたのではないはずです。

わたしもそうでしたが、通常、イラクに行く場合、拠点となるのがヨルダンの首都アンマン。そこにあるクリフホテルという安宿で、あれこれ手配をしてもらうのが、ポピュラーな方法です。
戦前は、ツアーの手配をしていましたが、現在は専ら車の手配のみ。例の3人も、同じくこのホテルで車を頼んだようです。
ところが、彼らが乗っていた車というのは、旅行者の間でも危ないと云われているジープだった。普通はミニバスを使うのです。きっと彼らは、そのことを知っていたはずなのですが、何回も車の手配を頼んでいるホテルだからというので、油断して安いジープをチャーターしたのでしょうか。それが今回の事件につながってしまったわけです。

しかし、この事件には、車をチャーターしたときから仕組まれていたのではないか、なんて話もあったりして。
わたしも2002年の秋にクリフホテルに泊っていましたが、そのときから、いやそれ以前からずっと働いているAという従業員がいまして、彼は実に気さくで親切な男で、日本人旅行者からもたいそう慕われていました。
ところが、今回の事件は、彼が裏で手引きしていた可能性が無きにしもあらずだと、旅行者の間(?)では噂になっているらしいのです。

事件の起こった町(すみません、今名前が出て来ない)は、この人質事件の少し前から、物騒な事件やドンパチが相次いでおり、普通、バグダット行きの車は、ここはさっさと通過することになっていました。それが、ジープがわざわざこの町のガソリンスタンドに止まったということは、運転手がグルだった可能性があるというのです。
クリフホテルにてイラク行きの車をアレンジするのは、Aの担当なのですが、このジープを手配したのもご多分にもれません。ということは、彼もグル…?
また彼は、危険と分かっていてイラクに行く旅行者(奴らも奴らだが)を、止めるどころか嬉々として送り込んでいたという話も…。「それってただ、車の手配料のマージンが欲しいからじゃないの?」と思いましたが、よくよく聞けば彼はパレスチナ人で、もしかすると裏でその方面の組織とつながっているんじゃないか…なんていう憶測もあるようで、そうなると今回の事件は、偶然とか、運が悪かったでは済まされないことになる。
個人的には、あんまり信じたくない話ですけどね…。気さくで、いつもにこやかに働いていた彼。夕方、宿にいると「夕飯、一緒に食べよう」って声をかけてくれてお相伴に預かったこともあったっけ…そういうの思い出すと、何だかやりきれないよ。

この話を聞いたせいもあってか、わたしは人質になった3人に対して、何だか同情を禁じえないのです。
「そもそもイラクに行かなければ、あんな事件になることもなかったんだ」と、人は云うかも知れない。しかし、それを云い出したら、「そもそも自衛隊を派遣したことがよくない」とか、「そもそもアメリカが戦争をしかけたのがよくない」って話にまで発展してしまって、肝心なことを見落としてしまう気がするのです。肝心なこととは、「テロリストたちが悪い」ってことです。

イラクの場合は、自衛隊が入っているということで、かなり特殊な例だと思いますが、危ないと云われている場所に行って何か起こった場合、「行ったお前が悪い」ということになるじゃないですか。
そりゃそうなんですけれど、例えば、24時間テレビで、藤原紀香や賀来千賀子がアフガンに行けば、大衆の涙と感動を誘って「ええ話やなあ〜」「勇気ある行為だ」となるのに、われわれのような名も無き(いや、あるけど)一般人が同じことをしたら、「無謀」「キチガイ」とののしりを受けて終わりですよね。それは、”世の中は不公平である”という原則のもと、あっさり片付けられてしかるべきものなのでしょうか。
藤原紀香がアフガンに行く理由も、われわれがアフガンに行く理由も、そんなに大きく差があるわけではないと思うんです。もちろん、ノリカが行った方が、経済効果とか宣伝効果とか、色んな効果はあるんでしょうが…。

大衆の無責任きわまりない発言や意思ってのは、本当に怖いですね。
彼らの家に嫌がらせの電話をわざわざかけるようなヒマな奴らに、彼らの味わった恐怖が理解できるでしょうか?多分、1ミクロンだって理解できないでしょう。そんな奴らが、24時間テレビを見て、アフガンに乗り込む藤原紀香の姿に感動しているのだとしたら…吐き気がしそうです。
ぶっちゃけ、上の方にも書いたけれど、大衆はあの事件を、けっこう嬉々として見ていたと思うんです。「何かすんげーことになってんぞ!」ってね。本気で困っていたのは、本人たちの家族や友人、そして実際に金を出さなければならない政府だけだったんじゃないかしら?もちろん、心を痛めていた一般人だって、たくさんいるとは思うけれども。

30億円の出費に対してブーブー云う人たちには、「じゃあ、彼らはあのまま殺されてもよかったのね?」とお尋ねしたいです。そうなったらそうなったで、今度は政府がすさまじい非難の嵐にさらされたかも知れませんね。「同胞を見捨てるなんて、最低の国だ!」とかなんとか云われてね(苦笑)。
まず憎むべきは、彼らが招いた莫大な出費ではなく、テロリストたちの卑劣さではないのでしょうか?大衆の目は、何故そこに向けられないのでしょう?先にも書いたように、事件の大元を探り出せば、「そもそもフセインが政権を握っていたことが悪い」ってなところまで、遡りかねないのですから。

…とにかく。
行く人間には行く人間の、行かない人間には行かない人間の理由がある。結局はそういうことでしかないと思うのです。
「アフガンなんて、別に見どころもないし、危ないだけだから行かない」という旅行者たちもたくさんいます。というか、むしろそっちが多数派か。その意見に対しては、何の反論もありません。ごもっともでございます。NGOやジャーナリスト、カメラマンといった人々に比べて、旅行者
には、何の大義名分もありません。あるのはただ、不謹慎なる好奇心のみ。こんなわれわれが、もし人質事件に巻き込まれたら…今回の事件以上のブーイングが起こることは、火を見るより明らかです。
でも、それが分かっていて、それでも行くわれわれは、われわれなりの理由があるのです。たとえそれが、端から見て、どれほどつまらない、理解されないものであっても。

危険を冒さなければ、得られない果実だってある。ハタで見ている人たちからしたら、「何もそんなことしなくても…」かも知れない。でも、その危険を乗り越えて見事に果実を手に入れることができたら、きっとその傍観者たちだって、その行為には意味があったことを認識するでしょう。
例えば、数々の危険な冒険を試みた植村直己は、多くの人に勇気と感動を与えているではないですか。普通に考えれば、1人で北極圏を犬ソリで走るなんて、愚行以外の何物でもないでしょう。「そんなことしてどーすんだ?何の役に立つんだ?」ですよね。これはわたしも、世界旅行に出る前に色んな人から云われたセリフですが。
でも、彼の“愚行”は、大きなロマンを生み出し、見事に成功した彼は、英雄になった。しかし、失敗したからと云って、その行為が汚されるわけではないと、わたしは思いたいです。

ま、わたしがアフガンに行くことには、それほど大きな意味はないけれども。

…おっと、前置きが長くなりました。「って云うか、ここまでの話は前置きだったのかよ!?」と怒られそうなほど長いですね(苦笑)。
そろそろ、実際の旅行話に入るとします。

わたしと運命を共にすることになった(笑)のは、マリファナと紛争地域が大好きな(イラク人質事件の1週間前にはイラクにいたそうな)大阪人・Mさんと、この期に及んで「カブールって、アフガンの首都だっけ?」などと大ボケをかます広島人・M嬢でした。そして、つい数日前にアフガン行きを決めたわたし…って、おいおい、こんな3人で大丈夫なのかっ?!(苦笑)

Mさんとは、わたしがマシュハドに来たその日の晩、夜道をふらふら歩いていたときに出会いました。これにはホント、ビックリしたなあ。多分、向うの方が驚いていたと思いますけどね。何しろ、売店でジュースを買って出て来たところを、怪しい黒装束の女(←わたし)にいきなり捕まえられ、「日本人ですか?ひょっとしてアフガンに行きます?」などと声をかけられたわけですから(笑)。しかしそれで、「あ、はい」という回答が返って来るとも、こっちは思わなかったですよ。大体、巡礼者のごったがえずマシュハドで日本人に会えたことすら驚きなのに、しかもそれがアフガンにこれから行こうという人だったなんて、考えてみればすごい確率です。

M嬢とは、実はエスファハーンでちらっと会っており、アフガンに行くつもりだという話も聞いていました。しかし、わたしがエスファハーンに着いた翌日に、彼女はテヘランに向かったので、あまり話す時間もないまま、とりあえずメールアドレスだけ交換して分かれたのです。日程的に、彼女の方がどう考えても先にアフガン入りしていそうだったのですが、わたしがイラン南部を彷徨っている間、M嬢とMさんはテヘランで会っており、一緒に行きましょうという話がまとまっていたのでした。Mさんが、「もう1人、アフガン行く子がおって、オレのビザが下りる日にテヘランからこっちに来るみたい」と云うので、よくよく話を聞いてみるとM嬢だったという。考えてみりゃ、そんなにたくさんアフガンに行く人っていないもんな(笑)。

マシュハドを出発したのは5月13日、朝の5時過ぎでした。
中心地からけっこう離れたところにある国際バスターミナルから、アフガン・ヘラート行きのバスは出ることになっています。国際バスターミナルと聞いて、多少は立派な場所&バスを想像していたのが、とんでもない勘違いでした。バス事情のよいイランで、比較的快適なバスライフを享受していたわたしには、このアフガン行きのバスは、どっからどー見てもボロバスにしか見えませんでした。おいおい、これで12時間の移動かいな…出発前から早くもげんなりです。しかも、6時出発と聞いていたのが、バスが出たのは7時過ぎ。運転手も乗客も、「7時だ」「いや8時だ」とテキトーなことを云いたい放題なので、一刻も早く、つまり明るいうちにヘラートに着きたいわたしは、バスが出るまでイライラしっぱなしでした。

HERAT1.JPG - 39,073BYTES どこが国際バスやねん、と突っ込みたくなるようなボロバス。いちおうベンツだけど(笑)。

マシュハドから国境までは、約4時間。ボロバスめ!と思っていたわりには、ほとんどの時間、快眠をむさぼっていました。ま、イランは道路がいいからな。
イミグレは、どういうわけだかクローズしており、窓口には大量のパスポートが積み上げられたままになっていました。結局、国境で2時間近くを費やすことに…無駄だ。とても無駄な時間だ。絶対に絶対に、暗くなってから到着したくないのに!
ボーダーを越え、アフガンに入るといきなり道が悪くなります。未舗装で、しかも砂漠の中を突っ走るので、砂埃がものすごい。生活水準も、明らかにレベルダウンした感じです。国境付近には、ボロい掘っ立て小屋が並んでおり、古びたシャワールカミース(アフガンとパキスタンで男性が身につけている民族衣装)を着た、ちょっとタリバン風味の男たちがうろついています。イランのオイルマネーをひしと感じた国境越えでした。

夕方6時過ぎ、ようやくわれわれはヘラートの町に到着し、タクシーですぐさまホテルに向かいました。空はまだ明るく、人もたくさん歩いています。
タクシーの車窓から見たところでは、特に緊迫した雰囲気もなく、ごく普通の地方都市といった感じです。アフガン最初の町ということで、かなりびびっていたわたしも、あまりの普通さに、しばしあっけに取られていたほど。最も、この3月末には、地元の有力者の息子が殺され、一時はただならぬ様子だったらしいのですが(タリバンとは関係ない事件のようです)。
宿も、予想していたよりずっと普通で、周辺諸国の安宿とほとんど変わりません。電気が夜7時から10時までしか点かないのは、ま、仕方ないとしましょう。水シャワーなのも、この際贅沢は云ってられない(何せイランはほぼ100パーセント、ホットシャワーが使えたからなあ)。
この日は移動の疲れと、さすがに夜歩きは怖いので、外出はせず、夕食もホテルのレストランで取りました。

翌日は、早速ヘラート→カブールの飛行機のチケットを買いにアリアナ・アフガニ航空のオフィスに行ったところ…しくじりました。運の悪いことに、今日はイスラムの休日である、金曜日ではないですか…。当然オフィスは閉まっており、仕方ないので、とりあえず町を観光することにしました。
ヘラートの見どころは、アルクと呼ばれる巨大な城(入れなかった)と、5本のミナレット、それに町の中心にあるジャーメ・モスク。いずれも歩いて周れる範囲なので、38度の暑さの中、汗をダラダラ流しながらの観光です。ちょっとした苦行ですわね。
それでも、「アフガンてのは、一体どんなどこなんだろう?」と、膨大なる怖れと通常以上の好奇心を抱いてやって来たわたしには、見るもの悉く新鮮で、何というかこう「ありがたーく」感じられます。何しろ、命がけで来ているものですから(笑)、全てに価値を見出したくなるのですね。

ひとつ書いておきたいのは、女性の民族衣装である、ブルカについてです。
民族衣装は、基本的に何処のも大好きなわたしですが、このブルカは、どうしても好きになれないですね。そもそも、これを民族衣装と云っていいのかと疑問を感じるくらいです。
初日、タクシーからブルカ姿の女性を見た時はかなり衝撃的でした。全身を暗い水色のベールで覆っているのはまだしも、顔が完全にガードされているのです。それも、怪しげなマスクよろしく、目と鼻の部分が格子になっていて、そこから物を見る&呼吸するというわけです。
色合いのせいもあって、「何この人たち?幽霊??」という印象をぬぐえません。顔の部分も、近くで見れば見るほどコワイ。ブルカ姿の物乞いが手を出して近寄ってくると、本気で「わっ!」と驚いてしまいます。
同じくムスリムの国であるイランやシリアでも、全身真っ黒のチャードルで、顔を完全に隠している人がいるけれど、ほとんどの人は顔出していたもの。なので、顔を隠しているのは本人の意思だと思うのですが、アフガンの場合は、おそらく半強制的に顔を出しちゃいけないことになっているらしい。顔を奪われた女性たち、カオナシ…ますます幽霊っぽいわ(苦笑)。ほんと、云っちゃ悪いけど、人間に見えないもん…。よその国の文化を、知りもしないのにあれこれ云うのは生意気だと思いつつ、「これって女性の人権侵害じゃない?」と軽い憤りを覚えてしまいました。ほら、やっぱ同じ女としては、ね…。

HERAT22.JPG - 49,497BYTES 遠いので分かりにくいかも…ですが、ブルカ姿の女性集団(なかなか間近では撮影が難しい)。

とか云って、実はわたしも相当怪しい恰好なんですけどね。
イランで着ていたマントー(ロングコート)は、お尻の隠れる服を持っていなかったM嬢に譲り(どうせもらいものだったし)、わたしは、メキシコの「死者の日」に着用した、黒い死神の衣装を着ることにしました。真っ黒だし、だぼっとしていて全身が隠れるし、フード付きだし(笑)で、ぱっと見チャードルに見えなくもない…と、メキシコ以降ずっと持ち歩いていたのです。イラン対策のために。けっこう嵩張るし、荷物になって仕方なかったのですが、やっと日の目を見るときが来たぜ(笑)。イランでも、宗教色の強いマシュハドでは、これを着ていました。
しかし、水色のブルカ姿が多い中では、かえって悪目立ちしている…のかも…。

さて、町を歩いてみた感じ、まったくと云っていいほど、何ら危険のにおいのないヘラートですが、その代わり(?)、外出すると、アフガン人たちの好奇の目にいやというほどさらされます。外国人は珍しいんでしょうかね。イランでも同じような現象がときどきあったけれど、アフガンはケタ違いです。例えば、お店で何か買って、出ようとして振り返るとそこには、ものすごい数のアフガン人の輪ができ、わたしたちを取り囲んでいるのです(笑)。道を聞いたり、写真を撮ったりしていても、とにかく集まってくる。それも10人は決して下らない。いつの間にか出来ているアフガン人の輪に、一体何度驚かされたことでしょう(しかも、たまに痴漢が混じっていたりして、油断ならない)。
われわれはアイドルか、はたまた珍獣か…ひとつ確実に云えることは、人生でこれほど注目を浴びる機会は、もうありえないということだな(笑)。

HERAT38.JPG - 47,244BYTES チャパティ屋から出ようとして振り返るとこの人だかり。。。何気にブルカの女性も混じってます。

彼らは写真も大好き。もちろん、男性と子供に限るんだけど…。Mさんはのちに、「アフガンに入ってから、やたらおっさんの写真が増えた…いや、おっさんの写真しかない!」と嘆いていました。とにかく、カメラを取り出すやいなや、「オレを撮れ!」と云って、勝手にポーズ決めてますからねえ。あんたじゃねえ!後ろの景色を撮ろうとしてんだよ!と思いつつ、あまりに無邪気なおやじたちに、ついついこちらもシャッターを押してしまう(笑)。ま、わたしはデジカメだから、いざとなったら消去すりゃいいわけなので、ばんばん撮ってます(でも結局は、ほとんど保存してあるなあ…)。

アフガンを抜けて来た人たちが、「ヘラートはよかった」と口々に云っていましたが、その理由が分かる気がします。
アフガンの危険なイメージとは全く無縁にすら見える、ごくごく平凡な町。われわれを見て、好奇心に満ちた目をらんらんと輝かせる人々。あいさつすれば皆、ときに過剰なほどフレンドリーに応じてくれ、時間の流れも非常にゆったりしていて…。夜は出歩いていないので、簡単に“平和”“安全”と云い切ってしまうのはよくないと思いますが、少なくとも銃声や爆発音なんて物騒なものはひとつも聞こえませんでした。
アフガンって、こんなところだったのか。人々が、こんなに普通に、生活を営んでいるのか。
その事実は、カルチャーショックとも云える感情を、わたしに起こさせるのでした。

次回は、カブール以降のお話です。

HERAT19.JPG - 26,062BYTES ヘラート名物・5本のミナレット。

(2004年5月24日 ペシャワール)

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