旅先風信「アウシュビッツ」


先風信 ・アウシュビッツ編

 


 

**エイプリルフールのアウシュビッツ**


何から書けばいいのか分からない。
今日は、いや、今日もまた非常に天気がよかった。10分くらい歩くと汗ばむほど暖かく、そう、とにかくよく晴れていた。

イースターが終わっていないのでオープンしているかどうか心配だったが、開いている方に賭けてよかった。
「歩き方」の書き方はいいかげんだよな。パンフを見たら「イースターの初日」だけが休みになっているじゃないか。
行きは、とにかく開いているか否かという不安と、何となくあれこれととりとめもないことを考え、急に森三中のミニコントが浮かんできたりもした。

バスは1時間10分くらいでオシフィエンチム―アウシュビッツ博物館に到着。
最初の印象は、天気がいいせいでまったく恐怖感もなく、陰惨さも感じなかった。「働けば自由になれる」の門をくぐってもなお、そうだった。観光客がそれなりにいたからかも知れない。例の鉄条網が修理中でビニールがかぶせられていたからかもしれない。
…でも、こうして宿に帰って、ベッドの上で思い出すと、やっぱりあそこは恐ろしい場所だったということがボディブローのように効いてくるのだが…。
それで、ユースのシャワーを浴びに行くのも何だか怖くなったくらいだ。
今日のあの天気のよさも、かえって陰影を濃くしているような気さえする。

アウシュビッツは、それほど大きくはない敷地に大体30棟くらいのレンガ造りの建物が並んでいて、それぞれに番号がついている。鉄条網がなければ、ごく普通の家のようにさえ見えるかもしれない。
アホなことに、パンフレットを買わずに入ってしまったので(ここでケチるか!)、各展示の詳しい説明はあやふやな英語でしか理解できなかったが、ちょうど遺留品のブロックで、『歩き方』にも紹介されている日本人ガイドの中谷さんの団体とかち合い、しばらく紛れ込んだ(すみません)。
子ども主体の団体のためか、やや説教くさいな〜と思ったが(失礼)、遺留品として残っている日用品一式のところで「新しい生活を始めるつもりで持ってきたんですね。結局はだまされたんですが」と説明していたのが印象的だった。
だまされて連れてこられたという話は知らなかった…。哀しすぎるよ。あまりにも。
遺留品の展示は他にも、大量の靴(子供靴もある)、大量のトランク(名前と国籍が書いてある)、大量のくし、食器、めがね、そして大量のチクロンBの空き缶。義足もあった。
そして、髪の毛と、髪の毛で作られた毛布! そんなことまでやってたんかよ!? 家畜と同じってわけか。

国籍別の展示はやや演出的だったと思う。
印象に残っているのはポートレイト。よく資料で見かける“三点写真”(正面・横・後ろから撮影した証明写真)もそうだけど、彼らの眼差しを見ると本気で胸が痛む。
当たり前だけど、皆、それまではそれぞれの人生を普通に生きていたはずだ。でも、番号付けされ、髪を刈られ、囚人服を着せられるともう1個の物でしかなくなる。
こんなことが本当にあっていいのかと心の底から思うが、60年前に実際にあったことなんだよな…。

死のブロックは凄惨だった。
地下牢には、餓死、窒息死(おそらく、部屋にきれいな空気が入ってこないからだ)した人たちの部屋や、立ち牢なんていうのもある。
地下ということもあって、ものすごく陰惨な雰囲気だ。寒気がする。
各部屋には穴のあいた箱だけが隅の方に設置されている。多分、便器だ。きっとものすごい悪臭がしたことだろう…。そりゃ窒息もするはずだ…。
11号棟と10号棟(ここは人体実験の行われていた場所だ)の間には、銃殺刑を行う「死の壁」がある。今は花が供えられ、イスラエルの旗が掲げられている。死のブロックに連れてこられた囚人はここで殺されるのだ。しかも、脱衣所で服を脱がされ、裸で…。人が少ない時は脱衣所で殺されたという。
今、こんなことをペンでノートに書きつづっているだけでも身の毛がよだつ。
囚人が寝かされていた藁、マットレス……本当に家畜と同じ、いやそれ以下だ。
飢えでガリガリに痩せた子どもや女性の写真。病気が蔓延していたというが、当然だろう。
英語がもっとすらすら読めればもっと多くのことを知れたのにと思うと、悔しく歯がゆい。

帰りのバスが4時と聞いていたので、先を急いでビルケナウに行く。
3キロの道を、時々迷いながら45分かけて歩く。途中、やはりビルケナウに行くというスウェーデン人のおねえさんと会い、一緒に歩いた。
非常に暑い。周りはのどかな農村風景。
やがて、よく見る写真―レンガ造りの建物の中に線路が引き込まれているあの写真―そのままの光景が目に入って来る。
本当に広大な敷地だ。アウシュビッツが博物館なら、ここは遺跡のような印象を受ける。実際、ここには何棟かのバラックが当時の姿を留めている。
木のバラックとれんがのバラック。れんが造りのバラックにはほとんど観光客がおらず、ひっそりとしていた。
最初のバラックの戸を開けて中に入った瞬間……心底ぞっとした。これまでのどんな展示よりも、最も怖かった。
何てことはない、木の3段ベッドしかない殺風景な建物だ。
でも、幼少の頃に『アンネ・フランク』という伝記本を読んで受けた恐怖と同質の、後々まで記憶にしみつくような恐怖。
バラックの中はほとんど光が入って来ず、昼間でも薄暗い。
ここに大量の囚人が押し込まれたわけだから、きっと伝染病も流行ったことだろう。汚れた壁が何だか生々しく映って、カメラを向けることもできない。
この世でこんなに恐ろしく、こんなに寂しい場所があるだろうか?
ここで人生を終えていった人々のことを考える。
……想像もつかない。できない。

別のバラックはトイレと洗面所であった。
長いコンクリート板にぽこぽこと穴が空いているだけのトイレ…とも云い難い代物。
観光客はどこに行ったのだろう?置いて行かないで…。にわかに鋭い孤独感が襲ってくる。
一歩外に出れば、芝生は青々として、太陽の光は眩しすぎるくらいだ。だが、一歩中に入れば底なしの暗黒のようだ。窓から中を覗いただけでもゾッとするくらいなのだ。

順路を辿って、破壊されたガス室へ向かう。
案内板で当時のガス室の構図が説明されている。
囚人たちはシャワーを浴びさせてもらえるものと思って、脱衣所で服を脱ぐ。そして、シャワー室のフリをしたガス室に入れられ、死体は焼却炉で焼かれるのだ。
破壊された今でも忌まわしい建物に見えるのは錯覚ではない。ここで事実、大量の人間が死んでいるのだから。……。
2つのガス室に挟まれて、大きな慰霊碑が立っている。刻まれた言葉が胸にずしりと圧し掛かる。これ以上、重い言葉なんてないんじゃないかと思うほどに。
「この場所が未来永劫、絶望の叫びと、人類への警告となるように」

線路をつたって入口の方に戻る。
囚人たちとは逆の方向に。まるで、死から生に向かって歩いているような気分だ。
木のバラックに戻ってもう一度中に入る。饐えた臭いは何の臭いだろう。まさか死臭は残っていないはずだが。改めて見直すと、まるで馬小屋みたいだ。
最後に、入口の監視塔に上って全体を見渡す。何でもないようなバラックがただ並ぶばかりの風景。

バスまではまだ時間がありそうだったので、もう一度アウシュビッツに戻って映画を観る。
Mくんは「タダでも観れるけど寄付のつもりで払ってもいいかも」と云っていたので少し寄付した。英語は相変わらず聞き取れなかった。

最後に、まだ見ていなかったガス室へ行く。
「静かに、死んでいった人々のことを考えながら見て下さい」と書いてある(多分)案内板が胸に刺さる。
シャワー室の陰惨な暗さ、遺体焼却炉の不気味さ、簡素な絞首台の冷たさ…こんなものを見て、何を云えばいいのか分からない。たたただ信じられない気持ちでいっぱいになるばかり。
また後で、色々と書きます。今はまとまらない。

(2002年4月1日 クラコフ)

※当時、大事な写真はフィルムカメラに収めていたので、今、アップできる写真が少ないですが。。。

人毛で織られた毛布。。。

人を焼くための焼却炉。

その内部。何も残っていないのに陰惨すぎる雰囲気。

広大なビルケナウ。殺風景の極みだな…。

人々を死に送り込む線路。満員電車に乗るといつも、アウシュビッツ行きの貨物列車の話を思い出してしまいます。


~さらに時が経ってからのアウシュビッツ(長めの補足)~

アウシュビッツは長い間、わたしにとって「恐怖」の象徴であった。
幼少の頃、子ども向けの「世界の偉人たち」的な本の中に、アンネ・フランクの伝記があった。その巻末に“写真で見る資料館”といったページがあり、そこに、アウシュビッツ強制収容所の囚人服がでかでかと掲載されていた。
その太い縦じまのパジャマのような服、まるでさっきまで人が着用していたかのような形で置かれた服に、わたしは何故か凄まじい恐怖を感じて、本を閉じた(ちなみに、囚人服の隣には、収容所の粗末なベッドの写真が小さく掲載されていた)。
それ以来、その本が置いてある本棚には近づくことができなかった。それを、家に遊びに来た友達がえらく不思議がって本を開き(わたしの見えないところで)、「なんでこれがそんな怖いん?」と云われたことも覚えている。

高校の頃に実家は建て替えをしたので、本がどこに行ったのかは分からない。おそらく屋根裏の倉庫にでもあるのだろうか…。
それからは、テレビや本などで人並みにナチス及びアウシュビッツの知識を得ていたが、次に強烈に刻印されているのは手塚治虫の『アドルフに告ぐ』である。
高校生の頃に読んで、あらゆる意味で衝撃を受けた。漫画としての、いや一つの創作としての凄さ、戦争という異常事態の凄まじさ、人が変貌していく非情さ…とてもフィクションとは思えないほど重かった。
主人公の一人、アドルフ・カミルの父親が殺されるコマは未だにはっきりと脳裏に焼き付いている。そして、巡る憎しみの因果を見せつけるようなラスト…。
その後は、ゲイ映画にハマっていた頃に観た『ベント〜堕ちた饗宴〜』が記憶に残っている。ナチスが迫害したのはユダヤ人だけでなく、それより下にまだ同性愛者という被差別階層があったことは、さほど知られていないのではないか。こちらも、ラストシーンはあまりにもショッキングで、思い出すだけでも苦しくなる。
ナチスを扱った作品に、ハッピーエンドはないのかもしれない…。

旅を始めるにあたって、必ずアウシュビッツには行かなければ、と思っていた。
旅人としての義務のようなものという気持ちもあったし、凄惨な事件現場を見たいという薄暗く不謹慎な好奇心もあった。
旅の始めにドイツを選んだことで、存外早くその機会はやって来たわけだ。
ビルケナウの敷地内にいくつもあるバラックの中に入ったときの恐怖を、わたしは未だに忘れない(正しくは“恐怖の記憶”でしかないが…)。
霊感などはまるでないが、あの、本能に訴えかけてくるような理屈のない恐怖、鳥肌が立つなどという生易しいものではなく、もっと、精神の根底に入り込んでくるような恐怖だった。
戦慄する、とはこういうことかと思った。
わたしにとって最も恐ろしかった縦じまの囚人服すらも、そこまでの恐怖を呼び起こさなかったのに…。
アウシュビッツを訪れたのがエイプリルフールだったというのは、単なる偶然ではあるが、わたしにとっては少しばかり奇妙な符号であった。
本当に、ウソみたいな恐ろしさだったのだ。

『アンネの日記』は一時帰国の際に手に入れて読んだ(ちょうど、アムステルダムのアンネの家を訪問した後だった)。
帰国後は『夜と霧』や『コルチャック先生』も読んだ。
しかし、あのバラックの恐怖だけが、わたしにとって唯一理解できたアウシュビッツの恐ろしさだった。
そして先日、エリ・ヴィーゼルの『夜』(※『夜・夜明け・昼』に収録)を読んだ。
深夜に帰宅したにも関わらず、何故か手に取って読み始めたら最後、明け方まで止まらなかった。急かれるような気持ち、心臓がバクバクいって、全身を掻き毟られるような。
窓の外が薄いブルーに包まれ、まるで色つきガラスの中にでもいるようだった。
仕事の疲労が溜まっているときに、何という本を読んでしまったのだろう。それでも、こんな本をあくまで読み物として読み、読後は布団の上で眠れるわたしは、やはり幸せなのか―という陳腐な考えが一瞬、頭をよぎるほどだった。

今さらながらに驚くのは、収容された人々が、実際に連れて来られるまで、このような恐ろしい運命を予測してなかったことだ。
この本でも、冒頭に述べられるのは、あまりにも普通の日常生活である。わたしたちが今まさに行っているような、ごくありきたりな生活。それが急に破られるとは誰も思っていない。時折聞こえる不穏なうわさも、薄いシミのようにしか広がらない。
こういうことは、現代でも充分に起こりそうだ。今はインターネットがあるから、情報を得る手段は増えてはいるが、果たしてそれで、自己防衛しきれるだろうか?
戦争についてきちんと知らなければならない、と思うのは、ここだ。多分、世の中がおかしな方向に動きつつあるのを、誰もがうっすらとは感じていたのだと思うが、それをどうすることも出来なかった。せめて、疑う気持ちがもっとあればよかった…のだろうか。

600Pもの分厚さに怖気づいて、1年くらい本棚の奥に眠っていた本を、何故その日に読もうと思い立ったのかは分からない。
だけど、これを読んだことで、わたしはやっと、過去の日記を開く気持ちになり、永久欠番になりかけていた(苦笑)アウシュビッツの回をアップすることができた。
結局、その後手を入れることができず、当時書いたそのままの日記を、多少読みやすくしてアップすることになってしまったのは遺憾ではあるけれど、むしろ、何の飾りもつけない方がよかったと思うことにする(無理やり)。
どの道、消化しきれるはずなどなかった。

何故アウシュビッツに、ひとしおならぬ恐怖を覚えるのかと考えるに、「人は壊れるものだ」ということをまざまざと見せつけられるからではないかと思う。或いは、「人間(性)とはこういうものだ」という普段なら疑いもしないようないくつかの前提を揺るがすからではないだろうか。
どんなときでも愛や正義、平和や幸福の大切さを忘れない。それは素晴らしいことに違いない。そのような精神力を持った人はただただ尊敬に値する。
だが、耐えきれずに精神が崩れてしまう多くの人を、精神力の高い人たちに比して陥めることが出来ようか? それはまた、ナチスにも同様のことが云えるだろう…。
イスラエルに行ったとき、何故、これほど虐げられた経験を持ちながら、パレスチナに対してあのような残虐を働くのか? という疑問を持った。誰よりも残虐行為による痛みが分かっているはずなのに、何故? と。それがおそらく、わたしのような“平和の中にいるフツーの人間”のありきたりな感想であろう。
だが、今にして思うのは、「そうじゃなかったのかも…」ということだ。
つまり、あの経験を純粋にポジティブな方向に昇華できる人間がどれだけいるのか?という疑問が湧いてきたのである。
虐待経験を持つ親が自分の子どもを虐待するというケースと同じように、酷い体験は臨界点を越えると、むしろ同じベクトルに加速していくのかもしれない。むしろ、壊れてしまった心に、人道や崇高な精神などという対極的なものを求める方が酷なのではないかと思ってしまったのであった。……
だからと云って、パレスチナへの横暴が許されるはずはなく、どこかで断ち切らねばならない負の連鎖であることは確かだろう。だが、憎しみを断ち切るとはなんと難しいことだろう…。

『夜』の一節から。
パンの配給から帰ると、父が子どものように泣いていた。(中略)
心に傷がひとつよけいにでき、憎しみがひとつおまけに生ずる。生きてゆく理由がひとつなくなる。
「エリエゼルや……エリエゼルや……。あの人たちに、私を殴らないように言っておくれ……。私はなにもしなかったのだよ……。あの人たちはなぜ私を殴るのだろう。」

今は、プリーモ・レーヴィの『アウシュビッツは終わらない』を読んでいる。
「戦争を知らない子どもたち」として生まれ、今も幸い、知らずに生きているわたしだけど、20年後、30年後に同じように生きられるかは分からない。何十年も平和を謳歌できると過信していたら、予期せぬ戦渦に叩き込まれる可能性もあるのかもしれない…。
そんなことが起こらないように、せめて、知るしかないのだと思う。頭の片隅にしか置けなくても、忘れないようにしなければ、と。

月並みな締めくくりになってしまったが、この辺で。

(2010年5月)
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